通算No.77 主の日の戦い

テキスト:エゼキエル書 13:1ー6
 ”次のような主のことばが私にあった。
 「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、主のことばを聞けと言え。
 神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。
イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃墟にいる狐のようだ。
 あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。
 彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ。』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。”

本日は”主の日の戦い”という題でメッセージしたいと思います。

テキストはイザヤ書13章です。

ここで主の日に関して正しい預言をしない預言者達について語られています。これは”主の日”について書かれているので、終末の日のことがらです。何故なら主の日とは終末の特別な日のことだからです。

ここではイスラエルについて預言されています。聖書にはたとえが多く使われていますから、これは実際のイスラエルととるとともに、霊的イスラエルー教会への預言ともとれます。または2重の預言なのかもしれません。実際の イスラエル民族においても成就するし、また教会の上にもこの預言は成就するのかもしれません。

さて、ここで終末の日の預言者について書かれています。現代の時代には、もう昔でいう意味の預言者の働きはありません。逆にペテロの手紙では旧約の預言者と新約の教師が対比されて書かれています。それでこれは終末の日の教師、牧師に関する預言ととれると思います。

さて、テキストに沿ってみことばを見ていきたいと思います。

”「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、主のことばを聞けと言え。”

これはイスラエルの預言者への警告です。イスラエルの預言者とはどういう人達でしょう。彼等は神のみことばを受け、それを民にかたる職務の人々です。今の時代でいえば、神のことばのつとめをする牧師、教師です。

彼等の問題とは何でしょう。”こころのままに預言し””主のことばを聞”いていないことです。牧師や教師は神のことばを忠実に説いているのではないでしょうか。何故そのような非難がされるのでしょう。しかし、聖書は彼等は自分の心のままに語っていると述べています。具体的にいえば、これは終末に関するみことばのメッセージのことです。彼等は終末を迎える主の羊に対して、正しく主のみことばが語っている通り、伝え、述べ、警告すべきなのに、それをしていない、逆に自分の心で感じたままを話しているのに過ぎないといっているのです。

”主のことばを聞け”と書いてあります。また、その後の節では、
”見ていない”とも書いてあります。ですから、ここで、”見る、聞く”ことについて書いてあることがわかります。
”見る、聞く”ことに関しては、以下の関連することばがあります。

マルコ4:11、12 ”そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」”

このマルコの箇所を参照する時、ここで言う”見る、聞く”ということばの真意がわかります。終末の教師達は表面的には見て、聞いているようですが、彼等はたとえを理解せず、主が真に聖書で語っているその奥義をわからず、理解しない人々なのです。

”神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る”

前の節では”自分の心”のままに預言する預言者ー教師について書いてありましたが、この節では”自分の霊”のことが書いてあります。すなわち、終末においては、預言者ー教師の心と霊に惑わしが働き、その結果多くの教師は間違った預言ー教えを語ることがわかります。

霊に来る惑わしについては預言者ミカヤの時の出来事が参考になります。王はラモテギレアデの戦いに行く前に王の前に居並ぶ預言者に預言を求めました。この時、王につく預言者は400人いました。彼等は王が望む預言をよく心得ており、その通り、預言しました。また、その時、一つの霊が働きました。それで、この400人もの預言者はまるで一人の人のように、同じ言葉を王に述べました。

この預言のことばを聞いたイスラエルの王はラモテギレアデに攻めのぼり、そこで死を迎えるのです。
同じことが終末にもおこります。終末の日には多くの預言者ー教師が霊に惑わされます。その結果、多くの主の民や王が惑わされて戦いに出て行き、死を迎えるのです。殉教の死なら勝利ですが、そうではなく彼等は敗北と死を迎えるのです。

そして、この預言者たちに対して、”自分では何も見ない”と語っています。この教師達は確かに語り、終末についてメッセージしているが、しかし、自分では何も見ていないと主は語っています。”自分の目で見ていやされることのないためである”と書かれている通りです。聖書を確かに読んではいるが、何も見ていないということがありえるのです。私たちが正しく終末に関する聖書のみことばの奥義、たとえを理解することがいかに大事なことでしょう。

見えなくても目薬を塗れば見えるようになります。その目薬はどこにあるのでしょう。それは主から買うのです。黙示録の中にそう書いてあります。それでこの人達が見えないのは、人や注解書には頼っていても主に求めていないからだということがわかります。

400人の預言者は多数の正統派であり、多くの人や王に認められています。今で言えばキリスト教会に認められた教師ということでしょうか。それに反してミカヤは一人であり、王に憎まれています。しかし、正しい預言は彼に下ったのです。ですから、終末においても真の教師、真に正しく終末のみことばを聞き取る人々は少数であると思えます。

”イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃墟にいる狐のようだ。”
狐ということばはヘロデのパン種を思い起こさせます。何故なら、ヘロデはイエスにより”あの狐”といわれているからです。

”あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。”

あたらない天気予報は困ったものです。明日は快晴という予報だったのに、朝から大雨ではその日の予定もままなりません。同じように、間違った終末を説く教師も困るのです。そして、この預言者ー教師達も正しく終末について民に述べませんでした。

彼等は正しくみことばを見たり、聞いたりすることができず、結果として間違った教えを民に述べたのです。民は彼等のことばを聞き安心してしまい、破れ口の修理も石垣を築くこともしなかったのです。その結果終末の戦いの中で多くの民が敵に倒されていくことでしょう。

私は個人的にはこれはたとえば、”再臨前携挙説”のことではないかと思っています。というのはもし、我々が患難時代には自分は地上にはいないと心から思っているなら、患難時代のために、特別、破れ口をつくろったり、石垣を築く必要性を感じないからです。

”彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ。』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。”

終末の時代の教師は”主のみ告つげ”といいながら、聖書が真には語っていない教えを説きます。彼等の終末に関する解釈は間違っていると主はいわれるのです。また、主はそれらの預言者を遣わしませんでした。

”しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。”

彼等は間違った終末論を語り、そしてそれが成就するのを待ち望んでいます。しかし、そのことは起きないのです。

終末における主のみこころを行っていきましょう。

ー以上ー 

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