本日は”イエスを信じるクリスチャンへの警告”という題でメッセージします。
このテキストの箇所は真理についてそして偽りについて詳しくイエスが論じているところです。
この箇所からいくつかのことが教えられます。
1 ”イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。”
この箇所でイエスはご自分が真理であることを繰り返して述べています。さて、この箇所の対象となる人々は興味深い人々です。彼等はイエスを信じた人々、すなわち我々クリスチャンと全く同等の立場の人々なのです。ここでいう”イエスを信じた”という時の信じるという原語はロマ書の”心で信じ、口で言い表して救われる”という聖句の原語と全く同じことばが使用されています。
ですから、ここで述べている人々は基本的に我々がクリスチャンと呼ぶ人々と同じ種類の人々なのです。これがまずこの箇所を理解する時の基本です。
ここでわかることがあります。すなわち、聖書が”偽り、真理”ということばを使う時、この世の未信者の人を対象に語るというより、信者に焦点をあてて書いているのです。すなわち、イエスを信じた者の中にこそ偽りが入ることをこれらの箇所は述べています。
これはよく考えるとありえることです。未信者はすでにだまされているので、とりたてて偽りを入れる必要がないかもしれません。しかし、敵は麦の中に毒麦をまくことを願っています。すなわち、神の民の中に偽りを入れることに力を尽くしているのです。
偽10万円札を作る人はいません。作っても本物の10万円札がないので、騙される人が一人もいないから
です。しかし、偽1万円札なら、度々偽造されています。本物がすでにあるので、もし本物と似ていればだまされて使う人もいるからです。
サタンは偽りの父です。彼が偽りを語ったり、行ったりする時、本物と似たことを言い、行います。
何をいっているのでしょう。すなわち、偽のクリスチャンー毒麦、偽の教えを作り出すことに彼は大きな力を入れます。彼はクリスチャンをだまし、祝福を受けさせないようにさせようと思っているのです。
2 ”もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です”
ここに、このイエスを信じたユダヤ人達がサタンの子となってしまう原因が記してあります。それは彼等がイエスのことばにとどまらなかったからです。ことばにとどまること、このことが同じイエスを信じた人々の中に真理、偽りという大きな区分をもたらすことがわかります。
3 ”罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。”
ここでいっていることはこういうことです。たとえその人が”イエスを信じている、クリスチャンである”といっても罪を行い続けているなら、その人は実質的には罪の奴隷だということです。クリスチャンでありながら、奴隷ということは有り得るのでしょうか。実際このことはあり得ます。私たちはこのことを経験上、知っていますし、またみことばもそのことを告げているのです。
4 ”奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。”
奴隷はいつまでもずっとその家にいるわけでなく、遅かれ、早かれ、他の家に売られていったり、他の理由で家を出ていきます。すなわち、相続しないのです。私たちも同じです。もし、私たちがイエスを信じている、アブラハムの子ーすなわち霊的イスラエルであるといっても、実質は罪の奴隷であるならやはりみ国を相続しないのです。
5 ”ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。”
ここで主は本当の自由について語っています。建て前上の自由、見せかけの自由というものがあるのかもしれません。私はもうクリスチャンなのだから、自由なはずですといいながら、実祭は他のものの奴隷になっているという人は結構います。しかし、その人はここでいう本当の自由を持っていません。
6 ”わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。”
キリストがイエスを信じたユダヤ人に対して”アブラハムの子孫であることを知っている”という時、何をなぞらえていっているのかよく読みとるべきです。これは私たち、今の時代のクリスチャンのことをもさして語っているのです。何故なら、我々も霊的には信仰の父であるアブラハムの子孫だからです。
7”しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。”
このユダヤ人達はイエスを信じながら、イエスを殺そうとしていました。私たちはユダヤ人達とは時代が違うからこのことばは自分と無関係だと思うなら、それはとても皮相的な見方です。逆にこれは今の時代のクリスチャンへの警告です。我々もイエスを殺す可能性があるのです。何故なら、我々も”もう一人の助け主”ー聖霊を殺し、その声を無視する可能性があるからです。
8 ”わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。”
イエスのことばがこのユダヤ人達のこころに入っていない時、彼等はイエスを殺す者になりました。同じことは今の我々にも起き得ます。キリストのことばが私たちの内側にとどまらないなら、私たちは聖霊をけし、結局は殺してしまうからです。
9 ”わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」”
ここで2種類の父について語っています。一人は天の父であり、もう一人は悪魔である父です。そして、驚くべきことを主はここで、語っています。イエスを信じながら、しかも悪魔を父とすることがあると語っているのです。このような考えは何かの神学と抵触するかもしれません。しかし、我々は神学からみことばを見るのでなく逆にみことばから神学を見ていかなければなりません。
10 ”「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。”
ここでイエスはわざ、行いについて語っています。彼等はアブラハムの子孫という名前、名目はありました。しかし、そのわざ、おこないはありませんでした。そしてそれでよいとはイエスは言われませんでした。ですから、私たちがクリスチャンであるという名目が私たちを救うものでなく、そのわざ、実質について目をとめることが大事だとわかります。
11 ”神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。”
今の時代、主イエスは”真理のみ霊”として来られています。ヨハネの福音書の最後の晩餐の時、主イエスが聖霊について語ったことばを思い起こしてください。聖霊についてのことばに”真理”ということばが多いことがわかります。彼等はイエスを殺そうとしていたのですが、これは行いの伴わないクリスチャンが聖霊として来られたイエスを殺そうとしているということの予表です。
12 ”アブラハムはそのようなことはしなかったのです。”
彼等はアブラハムの子孫という名、クリスチャンであるという名前はあってもその実質のない者達です。
13 ”あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」”
ここでイエスを信じたユダヤ人は自分達の父は神であるといっています。すなわち、自分達は”神の子”だといっているのです。これは、私たちクリスチャンが自分達についてよくいうことばです。ですから、この節からも彼等はクリスチャンの立場の人々であることがわかります。しかし、主はあくまで、名目でなくその実質について語り、彼等が自分の父ーサタンのわざを行っているといわれます。
14 ”神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。”
ここでも主はご自分を聖霊をなぞらえた形で語られています。何故なら、聖霊はキリストの名において”遣わされた”方だからです。彼等は天の父から出て来たイエスを愛しませんでした。そのことが彼等の父が誰か、その真の性質を表わします。同じように、聖霊を愛さず、その声に耳を傾けないクリスチャンは別の父から出たものです。
15 ”あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。”
イエスを信じながら、その声に耳を傾けることができない人々についてここに書いてあります。彼等は別の父から出たものです。同じように今の時代、聖霊の声に耳を傾けることのできないクリスチャンがいます。彼等も別の父から出たものです。
16 ”あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。”
イエスを信じた人々に対して主は彼等は悪魔から出たものであると言われました。このことばは私たちの常識を覆えすものですが、しかし主の言われた言葉がいつでも正しいのです。ここでイエスを信じるといいながら、しかし、その実質は悪魔を父としているクリスチャンがいることがわかります。彼等は毒麦であり、彼等の行いは結果として、悪魔である父の欲望をなしとげてしまうのです。
このことの良い例は祭司長や律法学者達です。悪魔はイエスの殺害を心から望んでいました。そして、それを成し遂げたのは祭司長や律法学者達だったのです。まさしく彼等は悪魔の欲望を成し遂げたのです。この祭司長、律法学者達は自分達は悪いことをしているとは思わず、神に仕えていると思っていたのです。これは、今の時代に毒麦を見分けるのに一つの示唆になります。それは、本人はそう思っていないのに、しかし悪魔に用いられてしまうということがあるということです。
17 ”悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。”
彼の目標は人殺しです。人を滅ぼすことです。そのために色々な策を用います。正しい聖書の真理を見えなくすることもその一つです。
18 ”真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。”
悪魔の実質は偽りです。そして彼の活動範囲は広いことを知らなければなりません。未信者のみの範囲にとどまっているわけではないのです。ここでいうイエスを信じたと広言する人々のうちにも働いているのです。どれ程多くの偽りが教会に持ち込まれたのかを立ち止まって考えるべきです。この悪魔は神の民であるイスラエルの人々の歴史の初めから、偽りをその教えに持ち込みました。神のみことば、そして彼等の教えは長い年月の間に変形され、曲げられてしまいました。そして、いざ救い主が来た時、彼等の教え、神学、聖書解釈はこの方を認めることができませんでした。
そして、このことは後の日の予表です。終末の日にも同じことが起こります。終末の日に悪魔の偽りは教会に満ちるのです。
19 ”しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。”
ここで主が真理を話しているのに人々が信じないという不思議なことがあります。これはとても皮肉な現象です。イエスの時代にはあまりに偽りが横行し、浸透しきっているので、人々は真理を正しく信じることができなかったのです。
20 ”神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」”
ここでもう一つのことをいっています。イエスを信じるといいながら、しかし、神のことばに聞き従わない人達です。この人達は神から出たものではないと主は語られています。
21 ”「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」”
彼等の非難は真理を持つイエスは悪霊につかれているということです。そのように言う彼等は外見は理性的かもしれません。しかしその実は彼等こそ悪魔を父としているのです。
22 ”しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。”
彼等はイエスを卑しめました。同じように今の時代には、聖霊の働きを悪霊であると卑しめる人々がいます。
23”しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。”
ここでさばきについて書いてあります。たとえイエスを信じるという者であっても、罪の奴隷であるものにはさばきがあることがわかります。
終末における主のみこころをおこないたいと思います。
ー以上ー
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