通算No.74 エドムの罪

テキスト:詩篇 137:7ー9
”主よ。エルサレムの日に、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも。」と言ったエドムの子らを思い出してください。
バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。
おまえの子どもたちを捕え、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。”

本日はエドムの罪という題でメッセージします。聖書に記されているエドムに関する記事を一つ一つ読んでいくとはっきりわかることがあります。それは終末の日にエドムが裁かれることです。裁かれる彼等の罪とはどのようなものでしょう。それを見ていきましょう。

まず、エドムとはどのような人々か見ていきましょう。彼等はエサウの子孫であり、長子の権利を売る俗悪なクリスチャンです。このように書かれています。

”ヘブル人への手紙 12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。”

さて、テキストを順に見ていきます。

”主よ。エルサレムの日に、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも。」と言ったエドムの子らを思い出してください。”

終末の時、エルサレムー真の神の民は攻撃され、破壊されます。それは患難時代のことです。その時、エドムの子らはその難を逃れ、逆に自分の兄弟を死に至らせるのです。そのことが書かれているのです。これはマタイ伝に記されている終末の記事と同じことをさします。

”マタイの福音書 10:21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。”

エサウが自分の兄弟であるヤコブを殺そうとしたように、エドムは自分の兄弟姉妹である真の神の民を死に追いやります。

”バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。”

この箇所で、エドムの子らとバビロンの娘は平行して記されています。エドムはまたバビロンの娘なのかもしれません。バビロンの娘は黙示録に出てくる淫婦バビロンに通じます。彼等は終末に裁かれます。

エドムに関する聖書の記事は他にもいくつかあります。それを一つずつみていきましょう。

1)1サム22:18
”それで王はドエグに言った。「おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが近寄って、祭司たちに撃ちかかった。その日、彼は八十五人を殺した。それぞれ亜麻布のエポデを着ていた人であった。”

神の祭司を殺すとは恐ろしい罪です。しかも一度に85人とは大きな人数です。このような恐ろしいできごとは全聖書を通じてもあまり例がありません。しかし、終末にも王である祭司、真の神のしもべが殺され、殉教する時がきます。この記事はその予表ではないかと思えます。
恐らくその時も、その先頭にたつのがエドムー世についた教会の兄弟であると思われます。ドエグ(臆病者)という名前も象徴的です。何故なら黙示録にはこのように記されているからです。

”ヨハネの黙示録 21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」”

私たちは患難時代に入ったら、おくびょう者にならないように祈る必要があります。

2)イザヤ34:4ー8
 ”天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。
 天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。
 主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。
野牛は彼らとともに、雄牛は荒馬とともに倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える。
それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。”

天の万象とは日、月、星のことであり、これはクリスチャンのことです。ぶどうの木、いちじくの木もクリスチャンをさすことばです。そして、彼等はエドムのクリスチャンであり、彼等は終末に裁かれます。子羊、やぎ、雄羊、野牛、雄牛も聖書では皆、神の民を象徴的に表すことばです。

彼等は殉教するのではなく、裁かれて殺されるのです。それは何故でしょう。こう書いてあります。
”それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。”

エドムが死に至らしめた彼等の弟ー殉教者達の血に対する復讐のためです。シオンとはエルサレムを示すことばであり、真のエルサレムー殉教者をさします。この時は殉教者の訴えのために仇を返す時なのです。

ですから、終末には2種類のクリスチャンがいることを知らなければなりません。主に従い、殉教に至るクリスチャンと彼等を死に至らしめるクリスチャンです。これはまさしく主イエスの時と同じです。主の時にも2種類の神の民がいました。真にイエスについた人達とそれを迫害した神の民です。一方は権力を握り、多数派でした。しかし、彼等は神の時にその”血”の報いを受けたのです。

3)イザヤ63:1ー4
”「エドムから来る者、ボツラ(羊の囲い)から深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」
 「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。
わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。”

この預言も終末におけるエドムへの復讐を語っています。さて、エドムは”赤い”という意味です。そして、ここで使用されている”着物は赤く”という時のことばと同じ語根です。ですから、ここで何故彼等がエドムといわれているのかその名前の謎が解けてくるのです。エドムとは裁かれる神の民の名前であり、その裁かれる時の”血の色”をさす名なのです。また、ボツラとは羊の囲いをさします。現在、羊がいるのは教会であり、このことからもエドムは”神の民”をさすことがわかります。また上記のイザヤ書の預言と似た預言が黙示録に出てきます。

”ヨハネの黙示録 14:18ー20 すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。”

ここでも酒ぶねが踏まれています。そしてぶどうが踏まれ、血が流れでています。この2つの記事はとても似ているので、イザヤ書のエドムに関することと関連していることがわかります。ぶどうは神の民を指し、馬のくつわはヤコブ書では教師をさします。ですから、イザヤ書に書かれているエドムへの裁きは黙示録の日ー終末の日に行われることがわかります。

4)エレミヤ49:7ー8
エドムについて。万軍の主はこう仰せられた。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消えうせ、彼らの知恵は朽ちたのか。
デダン(低い国)の住民よ。逃げよ、のがれよ。深く潜め。わたしがエサウの災難をもたらすからだ。彼を罰する時だ。”

ここでもエサウ、エドムの裁きについて述べてあります。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消えうせ、彼らの知恵は朽ちたのか。」と書かれています。彼等には多くの神学者、知者がいます。しかし、聖書に記されている終末の預言を正しく解くには至らず、結果として、彼等の想像もしない形で終末を迎えます。彼等はソロモンにまさる主の知恵を求めなかったからです。

このことをエレミヤ書の他の箇所では以下のように記しています。

”エレミヤ書 8:8、9 どうして、あなたがたは、『私たちは知恵ある者だ。私たちには主の律法がある。』と言えようか。確かにそうだが、書記たちの偽りの筆が、これを偽りにしてしまっている。
知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕えられる。見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう。”

またここには。”逃げよ、のがれよ。深く潜め”と記してあります。終末には生き残った真のクリスチャンは仮庵の祭が象徴しているように地下教会に潜るべきです。何故なら、殉教者を死に追いやった正統的な教会は後に反キリストのもとで患難時代滅ぼされるからです。その時、その災いに巻き込まれないためです。

5)”エレミヤ49:17、18 エドムは恐怖となり、そこを通り過ぎる者はみな、色を失い、そのすべての打ち傷を見てあざける。
 ソドムとゴモラとその近隣の破滅のように、「「主は仰せられる。「「そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。”

終末のエドムへの裁きはかつてのソドム、ゴモラへのようなものだと書かれています。ですから、私たちは、”クリスチャンと呼ばれる人には全く裁きは関係ない”という間違ったパン種の教えから解放されなければなりません。ヨハネ、パウロの時代から教会に入り込み、多くの人の目をくらまそうとしている反キリストの教えを全く排除しなければなりません。聖書が繰り返して述べている終末の神の民への裁きについて正しく人々に語り、述べていかなければなりません。

6)”アモス書 1:11 主はこう仰せられる。「エドムの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼が剣で自分の兄弟を追い、肉親の情をそこない、怒り続けていつまでも激しい怒りを保っていたからだ。”

ここでもエドムの兄弟へのそむきの罪について述べています。聖書はこのこと、終末の兄弟間のそむきについて繰り返し繰り返し述べています。ですから、このことは確実に起こるのでしょう。私たちは今からこのことに対して、祈り備えをしなければなりません。

終末における主のみこころを行っていきましょう。
 
ー以上ー 

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