テキスト:ダニエル書 11:41 ”彼(反キリスト)は麗しい国に攻め入り、多くの国々(国々は補足)が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。”
本日は”エドム、モアブ、アモン人とは誰か”という題でメッセージしたいと思います。
さて、テキストをみると、終末の時、反キリストは麗しい国を攻めると書いてあります。そしてそれとともに一つ注目すべきことが書いてあります。エドム、モアブ、アモン人はその難を逃れると書いてあることです。
さて、この節はよく見ると不思議な文です。みなさんはこの文を読んで、不思議に思わないでしょうか。別段不思議に思わない方も多いかもしれません。いったい、何が不思議なのでしょう。
それはこういうことです。ここに書かれた3つの民、エドム、モアブ、アモン人は現在では、すでにこの地上にはない部族、正確には特定できない民族なのです。歴史からずっと以前に消えてしまい、すでに現在は民族として区分できない民なのです。ですから、今の私たちにはどの民族がエドムだか、またモアブだか、またアモンだか特定することはできないのです。
エドム、モアブ、アモンは現在はすでに歴史から消えている民族です。それなのに何故終末に登場するのでしょうか。このことをよく考えてみたいと思います。さて、この箇所を理解する前にまず、初めに一つ考えておかなければいけないことがあります。それはこのダニエル書の性格です。
ダニエル書の一つの特徴として、その中には度々”解き明かし”ということばがでてきます。そして、この書の中では、ダニエルが神の知恵により夢、預言を解くことが度々行われています。解き明かしとはいわゆる聖書の”解釈”と同じことばです。すなわち、この書では、聖書のことばを”解釈”することが度々強調されているのです。
すなわち、ダニエル書に書かれている多くの記事については、解き明かし、解釈することが大事だといわれているのです。解釈が必要なのは、それらのことばがそのまま読んでもわからない、すなわち、たとえや謎により2重、3重の意味があるからです。
さて、ここに書かれているエドム、モアブ、アモン人とはまさに解釈が必要なことばなのです。
エドム、モアブ、アモン人とは聖書の中でどのような意味を持った人々なのでしょう。それを見ていきましょう。
エドム:
”ヘブル人への手紙 12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。”
エドム人はヤコブの兄エサウの子孫です。そして、エドムとは赤いという意味です。それはエサウが自分の長子を一杯の椀の食物と引き替えに売った、その食物の色が赤かったからです。
ですから、ヘブル書にもあるように、彼等はこのような特徴を持ったクリスチャンです。
1 当初は長子の位置にいた。
2 しかし、その長子の特権を軽んじて売ってしまう。
彼等は当初は長男だったのだから、少なくとも初めは神の民だったのです。しかし彼等は”俗悪な者”になってしまいます。
一つ象徴的なことがあります。それは黙示録の7つの教会の中にこのエドムー赤いものが出てくるのです。
”ヨハネの黙示録 3:1 また、サルデス(赤いもの)にある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。”
サルデスは w.ニー兄によればプロテスタントではないかとのことです。そうかもしれません。そうでないかもしれません。しかし、どちらにしてもこの教会の名前には長子の特権を売った者、祝福を逃す者の名前がついています。ですから、私たちがこの教会に属するなら、このこと、エドムのような者にならない、警戒が必要です。
モアブ、アモン:
モアブ、アモン人はロトの子孫です。ロトに関してはこう書かれています。
”創世記 13:12、13 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。”
彼は神を信じてはいるが、しかし低地に住み、”ソドムの近くまで天幕を張”りました。”ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人。”でした。だから、彼はこの世に近いクリスチャンです。その子孫であるモアブ、アモン人もこの世に近い信者を象徴しています。
また、モアブの王バラクはイスラエル人の歩みを妨害し、バラムの教えを持ち込みました。
民22:4
”そこでモアブはミデヤンの長老たちに言った。「今、この集団は、牛が野の青草をなめ尽くすように、私たちの回りのすべてのものをなめ尽くそうとしている。」ツィポルの子バラクは当時、モアブの王であった。”
”ヨハネの黙示録 2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。”
バラムはイスラエルの中に金銭のために神の教えを曲げること、偶像礼拝、不品行を持ち込みました。
以上のことからわかることはこういうことです。エドム、モアブ、アモンどれも皆神の民なのです。内面はともかく外見は神の民なのです。しかし、彼等は真の神の民でなく、俗的な者であったり、この世についている人々です。
旧約時代のイスラエルの地図を見ると教えられることがあります。そこにはエルサレムを中心として、イスラエルの各部族が位置しています。そしてそのイスラエルの国のまわりにその国を囲むようにエドム、モアブ、アモンの国が位置しているのです。そして、これらの国々は何度もイスラエルに敵対したり、妨害したりしています。
これはとても象徴的です。今の我々にも語りかけてくるものがあります。今のクリスチャンの状態も同じなのです。何をいっているのでしょうか。
すなわち、神の民の真ん中に真の神につくクリスチャンがいます。しかし、その周りにも多くのいわゆる名前の上では神の民に属する人々が囲んでいるのです。これらのある人々はこの世についているかもしれません。ある人々は長子の特権より俗的なものを選んでいるかもしれません。また、ある人々は偶像礼拝をしていたり、金銭のために神のことばを曲げているかもしれません。しかし、それらの人々もやはり同じように真の神の民とともに存在し、位置しているのです。そしてこのような周りの’神の民’は往々にして真に神に従おうとする人々の歩みを妨害し、ととめているのです。
さて、冒頭のテキストを見ていきたいと思います。
”彼(反キリスト)は麗しい国に攻め入り、”
これはたとえが使われた表現です。麗しい国とは文字どおりとれば、イスラエルの国でしょう。しかし、後半のエドム、モアブ、アモンがたとえなら、この文にもたとえが使われている可能性があります。もしくは具体的、及びたとえ、両方の意味かもしれません。
たとえの意味をとるなら、麗しい国は真のイスラエル人ー神につくクリスチャンのことです。”彼(反キリスト)は麗しい国に攻め入り、”とは、彼等が反キリストにより苦難にあうことを意味します。
このことについては他の箇所でこう書かれています。
”ダニエル書 7:25 彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。”
”多くの国々(国々は補足)が倒れる。”
”国々”は補足なので、倒れるのはこの麗しい国に住む多くの”人々”ともとれます。もし、そうなら、倒れるとはどういう意味でしょう。殉教を意味するのかもしれません。また、信仰から外れる人もいるのかもしれません。
”しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。”
エドム、モアブ、アモン人すなわち、世につくクリスチャンはこの迫害から逃れます。彼等は何故助かるのでしょう。もしかするとキリストを否定したため、命が存えるのかもしれません。”おもだった人”ーすなわち彼等の中の大多数の人はそうです。ですから、その中にもわずかながら、真に主について、反キリストの迫害を受ける人もいるのかもしれませんが、それは例外的に少ないのでしょう。
このテキストの後の節にはこうあります。
”ダニエル書 11:43 彼(反キリスト)は金銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を手に入れ、ルブ(心が空しい)人とクシュ(黒い)人が彼につき従う。”
黒は罪を象徴します。白い義の衣とは対象的です。ですから、終末の時、この反キリストに従うのは心の空しい人々、そして罪人であることがわかります。
終末における主のみこころを行って生きたいと思います。