通算No.71 ヨセフと兄弟のたとえ

テキスト:使徒の働き 7:9ー11 ”族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、あらゆる患難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で、恵みと知恵をお与えになったので、パロは彼をエジプトと王の家全体を治める大臣に任じました。ところが、エジプトとカナンとの全地にききんが起こり、大きな災難が襲って来たので、私たちの先祖たちには、食物がなくなりました。”

本日はヨセフと兄弟のたとえという題でメッセージしていきたいと思います。

聖書には終末の日にイスラエルの12部族の人々が救われることが記してあります。ロマ書にも記してありますし、黙示録にもそのことが書いてあります。以下の通りです。

ヨハネの黙示録 7:1ー4 ”この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。”

さて、このイスラエル人が終末にイエスに出会い、救われるということは聖書の中で大きな出来事であり、約束です。何故なら今でこそ、異邦人が救われて大きな数となっていますが、もともと救いはイスラエル人のものであり、律法も約束ももとは、みな彼等のものだったからです。彼等はもと木のオリーブであり、神は彼等との約束を忘れていないからです。

さて、聖書の中で終末に救われるイスラエル人達のことを美しい物語で記している箇所があります。本日はそれを見ていきたいと思います。

それはヨセフとその兄弟達の物語の中にたとえとして隠されています。
ヤコブすなわち、イスラエルに12人の息子があり、他の兄弟がヨセフをねたんでエジプトに売ったこと、また後の日にエジプトの大臣となったヨセフと再会することはよく知られた物語です。

そして、このヨセフは他でもない、自分の同胞に売られ、十字架につけられ、そして終末の日にイスラエルの同族にもう一度出会う、主イエスの型なのです。イスラエルの部族はいつイエスに出会うのでしょう。聖書にはっきり記されています。それは終末の患難時代の中です。

テキストの使徒行伝を見て下さい。
まず、ヨセフは明確な主イエスキリストの型である人物です。彼は父ヤコブに特別に愛された子供であり、これは神の一人子であるイエスの型です。また、ヨセフは兄弟達にねたまれ、銀貨20枚で売られ、穴に投げ込まれます。また殺されそうになります。これは祭司長達にねたまれ、
銀貨30枚で売られ、殺され、穴に葬られた主イエスの型です。また、ヨセフは30才で大臣になりましたが、これも30才で働きを始められた主イエスの型と思われます。

テキストはステパノの説教の一部です。彼はここで、ヨセフとその兄弟達の物語について書いています。この中で聖書を書かれた聖霊は興味深い単語を使用しています。

ヨセフを売った11人の兄弟について”族長”ということばを使用しています。ヨセフの兄弟とはいっていないのです。族長とは各イスラエル部族の長です。すなわち、ここでいおうといることは単にヨセフと兄弟という関係、一つの家の中におけるもめごと、けんかではなく、イエスとイスラエルの各部族の間の関係について述べられているのです。他の兄弟はヨセフと再会しますが、彼等は他でもない後の日に主イエスと出会う12部族の型であることを”族長”ということばで表わしているのです。

さて、この中で父の最愛の子を売った兄弟達がヨセフに再会する時について述べています。それはエジプトにおける7年のききんの間であると述べられています。

聖書でいうききん、終末のききんとはもちろん食料のききんという意味もあるでしょうが、しかし基本的にみことばのききんについて述べています。ヨエル書にある通りです。そしてこのエジプトにおきる7年のききんは終末の大患難のことです。よくテキストを見て下さい。”ところが、エジプトとカナンとの全地にききんが起こり、大きな災難が襲って来たので”と書いてあります。この”大きな災難”と訳されていることばは他の箇所で大患難と訳されていることばとまったく同じ原語なのです。以下のことばと同じです。

”マタイの福音書 24:21  その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。”

ですから、このステパノのいっていることはこういうことです。イスラエルの部族は終末の大患難ー患難時代の中で自分達がエジプトに売った弟、すなわち主イエスに出会う、そのことを述べているのです。

さて、聖書のたとえを読む時、大事なことは聖書がたとえで使用している”ことば”ー単語をしることです。例えば外国語で書かれた文章を読もうとしても、各単語の意味がわからなければその文章は読めません。しかし、単語の意味を覚えていけばだんだんわかるようになってきます。trainということばはいつでも電車をさすというように意味は一定しているからです。同じように、聖書にはたとえが多く使われていますが、それは無差別にたとえとなっているわけではなく、一定の意味付け、法則があります。それをはっきり理解していくとき、聖書のたとえから多くの学びをします。しかし、それに無頓着だと、たとえに関して何もわからない状態になります。

さて、以上のことを基本に創世記にあるヨセフに関する記述から学んでいきたいと思います。

”創世記 37:20 さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」”

穴に投げ込むとは主イエスを殺し穴に入れることの予表です。”あれの夢がどうなるかを見ようではないか”と言っています。主を十字架につけた人々は”神の子なら十字架から降りてみろ”といいました。彼等は主イエスの語られたことが実現するとは思わなかったのです。しかし、今主のことばは成就しています。

”創世記 37:28 そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。”

銀20枚で売られたヨセフは銀30枚で売られた主イエスの型です。

”創世記 42:2、3 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」
 そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。”

ききんの中でヨセフの10人の兄は穀物を求めにエジプトに下りました。ここで、ヨセフの兄弟達に区分があることがわかります。10人の兄達、そして後でヨセフに出会うもう一人の弟ベニヤミンです。私は終末においてもこの区別があると思います。

恐らく最初に10部族が救われるのです。多くの人々は彼等は今、日本を始めとした東の国々にいるといいます。そして、後でベニヤミン、すなわち現在中東のイスラエルの国にいる人々が救われるのです。実際、今、中東にいるユダヤ人はユダ、ベニヤミンの2部族の人達のみです。
 

”創世記 42:20 そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。”

ここでヨセフは末の弟を自分の所へ連れてくることについて語っています。この物語の中でこのことが随分強調されています。
これは何を語っているのでしょうか。語っていることはこういうことでしょう。
まず、10人の兄、すなわち今はどこにいるのか、判明していない、失われた10部族がヨセフーキリストに出会うのです。そして、その10部族こそ、末の弟、すなわち現在イスラエルの地にいるユダヤ人達を救う働きをするのです。

黙示録7章には、日が出る方から来た生ける神の印を持ったみつかいが14万4千人のイスラエル人に印を押すことが書いてあります。私はこれは、東からのリバイバルの中でイスラエルの10部族が救われる、そしてその救いを残りのベニヤミン部族にも伝えるーそのことをさすのではないかと思っています。

”創世記 42:21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」”

終末の日に、頑固なイスラエル人達も、彼等の弟、すなわち、主イエスを殺したために自分達が多くの苦しみにあったのだということがわかるようになります。

”創世記 43:34 また、ヨセフの食卓から、彼らに分け前が分けられたが、ベニヤミンの分け前はほかのだれの分け前よりも五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔いごこちになった。”

終末の日にベニヤミン、すなわち現在中東にいるユダヤ人達が主から受ける分け前、恵は他の兄弟より5倍も多いものです。そして彼等は聖霊の酒に酔います。
 

”創世記 44:1 さて、ヨセフは家の管理者に命じて言った。「あの人々の袋を彼らに運べるだけの食糧で満たし、おのおのの銀を彼らの袋の口に入れておけ。”

食料は命のパンです。この時、全世界は患難の時代に入っていきますが、彼等は命のパンに与ります。

”創世記 44:2 また、私の杯、あの銀の杯を一番年下の者の袋の口に、穀物の代金といっしょに入れておけ。」彼はヨセフの言いつけどおりにした。”

杯は器であり、彼等は主の器となります。

”創世記 44:16 ユダが答えた。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」”

彼等はヨセフの奴隷になるといっています。すなわちパウロのようにキリストのしもべーどれいになるのです。

”創世記 45:4、5ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。”

彼等は終末のききんー患難時代の中で初めてキリストに出会います。

”創世記 45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。”
イスラエル人は7年の患難時代の2年目に救われるのでしょう。
 

”創世記 45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。”

神の計画はイスラエルの中に残りの者を残すことです。

”創世記 45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。”

これらの全ての計画は神にあるのです。

主にあってますます終末におけるみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー 目次へ飛ぶ Mac%20OS%208.1j/%83C%83%93%83%5E%81%5B%83l%83b%83g/%82%81%82%8F%82%99%82%81%82%8D%82%81/%83z%81%5B%83%80/prophet/moku.html