通算No.69 終末の試練

テキスト:ヨハネの黙示録 3:10、11 ”あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。”

本日は終末の試練という題でメッセージします。テキストは7つの教会のうち、フイラデルフイアの教会への手紙の一部です。この中には終末に全世界に来ようとしている試練の時について書いてあります。
このことについて学んでいきたいと思います。

"試練の時には、あなたを守ろう"とのことばから、この教会は携挙されるという考えの人々が多いようです。
私は個人的には、これは携挙をさすことばではないと思っています。

というのはこの守るという同じ原語が以下の箇所にも使われているからです。

ヨハネの福音書 17:15 ”彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。”

ここで使用されている”守る”ということばはフイラデルフイアの教会へのことばと同じ原語です。これは最後の晩餐の時、主が弟子達と過ごした時の祈りのことばです。ここでの主のことばに注目してください。
”この世から取り去る”とは、患難時代には教会はみな天に上げられ、苦しみにも患難にもあわないという教えを予見したかのようなことばです。しかし、これは主の願いでも、祈りでもありません。逆に患難時代の間も”悪い者から守って”下さいということばが主の願いです。これは患難時代には弟子達もこの世にいることを前提とした祈りです。

ここで試練と訳されていることばはギリシャ語でpeirasmosです。このことばが新約聖書の中でどのように使用されているのかをいくつか見ていきます。

(1) ヤコブの手紙 1:12”試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。”

この箇所にはテキストの中で使用されているのと同じ”試練、冠”という2つのことばが使用されています。この箇所からわかることは終末において、いのちの冠を受けることはなかなか大変なことだということです。何故なら、誰にでもほいほいと冠をくれるというのでなく、”耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。”と書いてあるからです。

黙示録には終末を経由する4つの教会が記されていますが、そのうち、教会全体として、終末のさばきをうけない教会はフイラデルフイアのみです。それ以外の教会に関しては、自分たちの歩みをそのまま続けて、悔い改めることがないなら、終末には裁きを受けることが暗示されています。彼等は冠を受けないのです。

また、テキストには”忍耐について言ったことばを守ったから.. あなたを守ろう”と記されています。
”耐え抜いて良しと認められた”ということばと似ています。これらのことばが暗示するものはなんでしょう。
教会が患難時代を全く免れるということではなく、患難時代における教会の忍耐、耐え抜きに関して語っていると思われます。

パウロは冠を受けられるように走れといいました。古代のオリンピックで冠を受けるのは優勝者のみでしたが、我々にもそのような歩みが望まれています。
 

(2)マタイの福音書 6:13 ”私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』”

主の祈りには終末における試みの時に関する祈りが含まれています。何故なら、ここで使われている”試み”ということばは黙示録の”試練”と同じ原語だからです。神が私たちにこの祈りを与え、我々が毎週この祈りを捧げるようになりました。それには意味があるのです。その意味とはこの試練の時への備えです。何故、この祈りを繰り返し繰り返し祈らなければならないのでしょう。それはこのように祈っていても終末には試みの中で落ちていく人々が多いからです。

この試練のことについて言及している箇所は多くあります。

(3)ペテロの手紙第一 4:12 ”愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、”

この試練に関しては火の試練と呼んでいます。

(4)ルカの福音書 8:13 ”岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。”

”主の日の戦いに備える”ということばがエゼキエル書にあります。終末の日、試練の日に備えて土台をすえ、根をつけていかなければなりません。そうでないと”しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。”

(5)コリント人への手紙第一 10:13” あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。”

私たちは患難時代に試練に入るかもしれません。しかし、その中にも脱出の道も備えられます。

(6)マタイの福音書 26:41 ”誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」”

ここで使用されている”誘惑”ということばは”試練”と同じ原語です。ゲッセマネの闇の中で主についていこうと思いながら眠りこけてしまった弟子たちの姿は終末の弟子たちに語りかけるものがあります。私たちが目をさまし、祈りを続けていく時、誘惑の時から守られるのです。

(7)ペテロの手紙第二 2:9 ”これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。”

この試練ー誘惑の時は信者がふるいにかけられる時です。敬虔な者たちは誘惑から救い出されます。しかし、真に主についていない者、不義な信者は裁きの日まで、惑わしの中に入ります。

(8)ルカの福音書 22:28 ”けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。”

これは弟子達に語られたことばです。弟子の歩みをしていく時、試練の時にも主についていけます。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。
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