通算No.67 終末の教会とさばき

テキスト: 黙示2:21ー23(テアテラ)
”21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。
22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
23 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。”

本日は終末の教会とさばきという題でメッセージしたいと思います。本日、見ていきたい視点は一つです。それは、患難時代にさばきにあう教会とそうでない教会とを区別していきたいということです。

黙示録には7つの教会が記されています。これは教会に関する数少ない預言です。これらの教会の中でどの教会が患難時代に裁かれ、どの教会が裁かれないのでしょうか。それを見ていきたいと思います。

さて、7つの教会が記されていますが、そもそも終末まで残る教会はそのうち4つだけです。すなわち、テアテラ、サルデス、フイラデルフイア、ラオデキヤだけです。他の3つの教会には”わたしは、すぐに来る。”というような終末に関する記述がないので、終末には存在しないと理解できます。

それぞれの教会で勝利者に対する記述があります。だから、どのような教会でもその中で勝利を得ている神の民がいることがわかります。しかし、問題にしたいことは少数の勝利者ではなく、全体としての教会です。それがさばかれるのか、裁かれないのかを見ていきたいと思うのです。

テアテラの教会はローマカソリックであり、このイゼベルという女はマリアであるとW.ニー兄はいっています。私もそうではないかと思っています。この教会は終末にさばきにあうのでしょうか。あわないのでしょうか。少なくともこのイゼベルという女と姦淫を行う者達は裁かれます。そしてその裁きに関しては”大きな患難”に投げ込むと書いてあります。大きな患難とは何でしょう。他の聖書の箇所を見るとはっきりわかります。原語で、この”大きな患難”と全く同じことばが使用されている箇所があります。

マタ24:21
” そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい<苦難>があるからです。”

この節はマタイの24章、すなわち主が弟子達に終末のできごとを語った箇所に出てきます。ですから、これは3年半の大患難時代における患難をさすことがわかります。ですから、この教会に与えられている警告はこのようなことです。まず、この教会にはイゼベル(マリヤ?)とかん淫を行っている人々がいると現在の教会の現状に関する主からのはっきりとした指摘があります。そして、もしこのまま主の再臨の時まで同じ状態で進み、悔い改めー方向転換ーがないなら、それらの人々は終末の大患難の中に投げ込まれる、これがここで言われていることです。

ですから、この教会は基本的には終末には裁かれる教会です。少なくともイゼベル(マリヤ?)を拝している人々は裁かれます。少数の勝利者のことは今考えず、教会全体としてみるなら、ここに属している大部分の人々は裁かれる教会なのです。

さて、裁かれるとはどういうことでしょうか。これは、金の冠を受けるところを失敗して、銀の冠になってしまった、そのようなことをいってはいません。逆に淫婦バビロンへのさばき、これが下されるのです。

”「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。”
 
 3:1ー3(サルデス)
”1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。”

さて、終末の2番目の教会、サルデスをみてみます。サルデスはニー兄によれば、プロテスタントだとのことです。サルデスにも少数の勝利者がいます。しかし、今は少数の人のことではなく、その教会に属する大部分の人は終末に裁かれるのかどうか、それだけを見ていきたいと思うのです。

サルデスはギリシャ語で、”赤いもの”という意味です。旧約聖書で赤いものとはエドムであり、エサウの子孫です。エサウはヤコブの兄であり、長子の権利を放棄した者です。ですから、これはとても暗示的な名前です。この教会の名前自体、みくにを相続をしない者の名前なのです。

”あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。”これがサルデスの現状だといわれています。生きている、死んでいるとは何をさすのでしょうか。同じことばが他の聖書の箇所でどのように使われているかみてみます。

ロマ6:11
”このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。”

このロマ書で使用される、<死、生きる>ということばには上記と同じ原語が使用されています。ですから、死ぬ、生きるとは罪に関して使われていることがわかります。罪にあり、死んだ状態の教会、それがサルデスなのです。

”もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。”
この節は何を意味するのでしょう。聖書をよく見ていくと上記の2つのことば、目をさます、盗人という原語が使用されている箇所があります。

マタイ24:
”39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
42 だから、<目をさましていなさい。>
あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、<どろぼう>
が夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。”

ここでは終末の携挙のことが、ノアの洪水のことと関連して述べてあります。ですから、目をさまさないでいるなら携挙されない、そのことをいっているのです。

主の再臨に気ずかないとはどういうことでしょう。すなわち、ノアの時、洪水に気ずかず、滅んで行った人達と同じ運命をたどるということなのです。そして主ははっきり述べています。
”あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。”

サルデスの人々には主がいつこられるかが決してわからないとはっきりいわれるのです。すなわち、私たちがサルデスの信者であり、サルデスとして信じ、歩き、日々を送っているなら、主の再臨を決して悟ることがなく、ノアの時の人々のように滅んでしまう、みことばはそのことを述べているのです。もしこれが本当にプロテスタントの人々への警告なら、大変なことが書かれているのです。明確な方向転換がなければ終末に裁きにはいってしまう、それがサルデスなのです。

それなのに何故、真剣にこのことを語る人は少ないのでしょう。

後の日のリバイバルの時にサルデスは悔い改め、大きく歩みが変わるかもしれません。しかし、今のまま歩むなら終末の日には裁かれる、そのことをこの黙示録のみことばは述べています。少数の勝利者は別として、全体としてはサルデスも終末には裁かれる教会です。

黙示3:10ー11(フイラデルフイア)
”10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。”

フイラデルフイアは4つの教会の中では、例外的に終末の日に守られる教会です。単に教会の中の少数の勝利者が守られるというのでなく、教会全体として守られるのです。すなわち、私達がこの教会に属し、この歩みをしているなら、基本的に誰も彼も終末の日に守られるのです。こう書かれているからです。
”全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう”

この試練ということばは以下で使用されていることばと同じです。

2ペテロ2:9
”これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを<誘惑>から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。”

不義な者共は終末の誘惑の中で捕えられていきます。しかし、フイラデルフイアの人々は敬虔な者達であり、誘惑から救い出されるのです。
 

"試練の時には、あなたを守ろう"とのことばから、この教会は携挙されるという考えが多いようです。
私は個人的には、これは携挙をさすことばではないと思っています。

というのはこの守るという同じ原語が以下の箇所にも使われているからです。

ヨハネの福音書 17:15 ”彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。”

ここで使用されている”守る”ということばはフイラデルフイアの教会へのことばと同じ原語です。これは最後の晩餐の時、主が弟子達と過ごした時の祈りのことばです。ここでの主のことばに注目してください。
”この世から取り去る”とは、患難時代には教会はみな天に上げられ、苦しみにも患難にもあわないという教えを予見したかのようなことばです。しかし、これは主の願いでも、祈りでもありません。逆に患難時代の間も”悪い者から守って”下さいということばが主の願いです。これは患難時代には弟子達もこの世にいることを前提とした祈りです。

さて、この教会だけが何故患難時代に守られるのでしょう。それは彼等が主にあって弟子の歩みをしている教会だからです。”あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから”とのことばにそれが伺えます。

これは最後の晩餐の時、主が語られた弟子達へのことばと似ています。

ヨハネの福音書 17:6 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました

多くの人は主を拒否しました。しかし、弟子達は最後まで神のことばを守りました。同じようにこの教会の人々も最後まで主のことばと名を否まないのです。

黙示3:17ー20(ラオデキヤ)
”17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”

ラオデキヤも全体としては終末に裁かれる教会です。それは多くのことからわかります。例えば、”あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。”と書いてあります。
白い衣を買いなさいといわれているのは彼等が白い衣を持っていないからです。この白い衣とは何を意味するのでしょう。他の箇所をみるとわかります。

ヨハネの黙示録 7:13、14” 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。”

この人々は小羊の血で洗って自分の衣を白くしたことがわかります。ですから、逆に白い衣を持っていない人とはキリストのあがないの血を受けていない人々です。キリストのあがないをはっきり受けていない人々が終末の時を無事に抜け出るとは思えません。

この一事をもっても彼等は終末の時に裁かれる教会であることがわかります。

また”あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。”と書いてあります。

同じ表現が黙示録の他の箇所にあります。

ヨハネの黙示録 16:15 「「見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。「

この節は主の再臨のことをいっています。ですから、彼等が悔い改めない限り、彼等は終末の主の再臨の時、裸の恥をさらす教会です。

” 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく”

この”戸”と同じことばが以下の箇所にも使われています。

マタイの福音書 24:33 ”そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が
戸口>まで近づいていると知りなさい。”

このことばも主の再臨を示しています。主の再臨の前の教会、それがラオデキヤです。

さて以上のように、終末の4つの教会のうち、3つの教会が裁かれる教会であることがわかりました。さばかれるということは、それこそ、淫婦バビロンの運命のことを述べているのです。

黙示録で語られる教会への警告は真剣に受け止めるべきです。何故なら、エペソの教会への以下の警告はすでに成就しているからです。

ヨハネの黙示録 2:5 ”それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。”

この預言は現在、成就しておりエペソには燭台(教会)はありません。ですから、終末の4つの教会への警告も、その声に耳を傾けない限り、同じように成就していくと思った方がよいのです。
 

これらの警告を正しく認識し語って行きたいと思います。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上-

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