通算No.66 姦淫の女のたとえ

テキスト:ヨハネ8:1ー11
”1 イエスはオリーブ山に行かれた。
2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」”

本日は姦淫の女のたとえという題でメッセージをします。
さて、テキストのかん淫の女の箇所は我々の罪の許しに関する話です。律法学者、パリサイ人達の真ん中に立たされ、モーセの律法に基づき、石うちにされようとしていた女は我々と無関係ではありません。これは、まさに私たちの問題であり、罪があり、神の律法に従えば、死刑が当然の私たちが、どうやってその罰から逃れることができるのか、という問題を取り扱っているのです。

さて、この箇所の中で一つかわった記述があります。それは主が地面に何か書かれていたということです。不思議なことは何を書いていたのかはわからないのです。また、何故地面に書かれたのかもわからないのです。

しかし、この地面に書くということがこの話の中では重要な位置を占めるらしいということだけはわかります。
何故なら、パリサイ人や律法学者が問い続けているまさにその真ん中で主は文字を地面に書かれていたからです。

この地面に指で書くということがこの物語の主旨を理解する大きなポイントであることがわかります。一体、このことを通して神は我々に何を語ろうとしているのでしょうか。それをみていきたいと思うのです。

簡単なように見える物語でも、聖書は神の知恵により書かれました。その知恵を求めていかないと、そこで語られていることは正しく開けません。

さて、神は聖書にたとえを使われるといわれました。ですから、多くのたとえや謎が聖書には使われているのです。
聖書に書かれた多くの話はそこに隠されたたとえを主の知恵により読みとっていく時、正しい理解ができてきます。またペテロの手紙には私的解釈ーそのテキストからのみ解釈するなと書いてあります。多くの人はそのテキストからのみ解釈して、誤りに入ります。しかし、他の箇所を参照していくとき、正しく解釈されていきます。

他の箇所をも参照して調べると一つのことがわかります。主イエスは指(単数)で地面にものを書かれています。そして、新約聖書全体を見回しても単数の指でものを書いているという記事はこのヨハネ8章の1箇所にしかないのです。

旧約聖書を見てみます。すると旧約聖書の中でも一箇所だけ、単数の指でものを書いている箇所があります。それは他でもない神が石の板に十戒を記述している箇所です。

出エジプト31:18
” こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。”

ですから、これらの2つの箇所は明らかに関係した箇所であることがわかります。そしてそれを通して聖書を記された主が語ろうとしていることがあるのです。

聖書には神ご自身を”おのれを隠される神”であると語っています。ですから、神は自分のことを隠されています。しかし、ただ隠しているというのでなく、真に神を求める者には開こうとされます。ですから、私たちは聖書が開かれるよう、神に求めていくべきです。

聖書はいわば隠されたような形で主イエスこそ神であると語っています。公然とではなく、求めている者、
聞こうとしている者に開こうとしているのです。そのような箇所は他にもあります。
それはヨハ18章でイエスを捕えようとしている者達に語っている”私がそれである。(エゴーエイミー)”ということばです。これは出エジプト記3章で神がモーセに自分の名を語っている時、使わ
れた私はある”ということばと同じです。

ですから、ここで主イエスはいわば隠された形で自分はどのような者かを語っておられるわけです。すなわち、かつてイスラエルの民に与えた神の名前を使用することによりご自分が神であることを暗に語っているのです。

これは公然とでなく、いわばことばの中に隠されたような形で表現されています。真に神を求める人にはみいだされ、そうでない人にはわからないような形です。

ですから、この面においても”求める者は受け、さがす者は見い出す”のです。これは聖書の一つの原則です。

さて、テキストのかん淫の女の箇所にも同じ原則が使用されています。このたとえの中でも真に求める人にはヒントが与えられています。そしてそれは”指”のヒントです。

ヨハネ18章で、主はご自分に関して”私はある”という表現を用いて自分がどのような者であるかを宣言しました。大祭司から送られてきた役人や兵隊は、大工の子であるイエスを捕えにきたつもりかもしれません。しかし、主はここにいるのは、かつてモーセがイスラエルの神の名を尋ねた時、”私はある”といわれた方、その方であると語っているのです。また、あのエジプトから全てのイスラエル人を引き出した方がここにいるといわれたのです。

そして、このテキストの箇所でも”指”という表現で、同じようにご自分について語られています。ここにいる方は他でもない、かつてモーセを通してイスラエルに律法を与えられたその方ご自身だと語っているのです。

さてテキストを見ていきます。

”律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」”

ここでの質問はモーセの律法がはっきり石打ちにしろ、死刑にしろといわれた者をどのようにしてイエスが救うことができるのか、という質問です。

”けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。”

彼等は当初、自分達にはさばく資格があると確信をもってイエスに問い続けていました。しかし、後では一人一人その場から出ていきました。自分たちに罪があること、この女に石を投げる資格がないことに気がついたのです。最初は他人を裁こうとしていた彼等が何故、自分の罪に気付いたのでしょう。その間に一体、何があったでしょう。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」というイエスのことばがありました。そして、もう一つ、”イエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた”のです。

だから、ここでイエスが地面に書かれたのは律法の文ではないかと私は思っています。律法は人に罪の自覚を与 えるからです。

”10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」”

私たちが有罪となるのは、罪に定める者がいる時だけです。しかし、今この時、この女を罪に定める者はいなくなりました。この女は罪のさばきから解放されたのです。

この女にイエスの語られたことば、”わたしもあなたを罪に定めない。”とのことばはとても重いことばです。モーセに律法を与えられた方、その方自身が罪のゆるしを宣言されました。律法を定めた方、ご自身がゆるされたのです。ですから、私たちの罪のゆるしは完全です。そして、私たちの罪はイエスの血により、代価を払われたことによりゆるされたのです。

ますます主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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