通算No.65 残りのパンのたとえ

テキスト:マルコ8:14ー21
”14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。
15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」
16 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。
17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。
19 わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
20 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」
21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」”

本日は残りのパンのたとえという題でメッセージしたいと思います。福音書には5000人の給食、4000人の給食の記事が記されています。

これらの箇所をもって主が語ろうとされていることは何でしょうか。それを見ていきたいと思うのです。
主は確かに多くの人を養い、また多くの人に食べるパンを与えられる方ですが、それのみがこの箇所の主要な教えではありません。それはこう書かれているからです。

”「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。”

主はここでパンのことをいっているのではないといわれています。そして、わからないのか、悟らないのか、心が堅く閉じているのか、と何度も繰り返して私たちの理解を求めています。ですから、ここで主が言われていることを正しく理解、受け止めることはとても大事です。

また主は”目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。”ともいわれました。
これと同じ表現がマルコ4章にもでてきます。

ルコ4:11ー13
”11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」
13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。”

このたとえの箇所には上記テキストと同じ”見る、聞く、わかる、悟る”ということばが使われています。
これにより、この給食の物語にはたとえが使用されていることが暗示されます。
ですから、この箇所はたとえとして読まなければ正しく読めません。

この箇所をたとえとしてテキストに沿って理解していきたいと思います。
 
 ”そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」”
 

ここで主はこのたとえの理解に関していくつかヒントを与えています。ヒントを与える理由は我々に正しい理解を望んでいるからです。ですから、このたとえは私たちがどうしても理解しなければならない重要なたとえであることがわかります。

そのヒントは以下の2つです。
1 このたとえはパンのことではない。
”「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。”といわれています。すなわち、食物に関してのたとえではないということです。

2 このたとえはパン種のたとえでもない。パリサイ人達の教えのことである。

ルカ12:1
 ”「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。”

マタイ16:12
” 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。”

この5000人、4000人の給食と関連して主が語りたかったことは実はパリサイ人、サドカイ人またヘロデのパン種ー教えに気をつけること、そのことだとこれらの聖書の節は語っています。ですから、私たちがそのように理解しないなら、ここでのたとえを正しく理解したことにはならないのです。

さて一つ見るべきことがあります。それはこの給食の箇所で主がパンを祝福して裂かれたと書いてあることです。これは以下の聖餐に関する聖書の箇所と類似しています。

1コリ11:23ー24
23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

ですから、この給食のたとえは、主の福音が弟子たちを通して配られ、多くの民がその祝福にあずかり、救われ、バプテスマを受けていく、そして聖餐にあずかる、そのことをたとえとして語っているのです。4000人、5000人の祝福され、裂かれたパンにあずかった人々は主の救い、聖餐にあずかる多くのクリスチャンをたとえているのです。

さて、このたとえの中で注目すべきことがあります。それは残りのパンを集めている箇所です。聖書の中で食事をしたり、パンを食べる箇所は多く記されています。しかし、残ったパンを集めるという記事はほとんどみあたりません。ですからこのことは何か特殊なことであることに気ずかなければなりません。また実は、イエス自身もこの残りのパンかごにヒントがあることを自ら語っておられるのです。

よく聖書の記述を見て下さい。主は”まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。”と弟子達に悟ることを求めたあと、このように”残りのかご”について、聞いています。

” わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。”

ここで、ヒントを語ってもまだ悟らない弟子にイエスは最後のダメ押しのようにいっています。
”「まだ悟らないのですか。」”

ですから、どうぞ覚えてください。ここで弟子たちは結局このたとえを悟らなかったのです。何故なら、最後のイエスのことばは”「まだ悟らないのですか。」”で終わっているからです。これが彼等の状態なのです。

彼等はこのたとえがパンのことー食物に関するたとえでないことを理解しました。またこのたとえがパリサイ人のパン種ー教えに関することであることを理解しました。しかしイエスはこういわれました。”「まだ悟らないのですか。」”ですから、なにかまだ彼等には悟っていないことがあるのです。この箇所は現在に至るまで解き明かされていないのです。ですから、もし我々の理解が彼等と同じ程度なら我々も主からいわれてしまうかもしれません。”「まだ悟らないのですか。」”

これは何を意味しているのでしょう。これは我々への警告です。教会時代の弟子たちの中でも多くの人々はこのたとえを悟らないでしょう。主の知恵があって、初めて悟るたとえなのです。

さてこの残りのパンのかごがこのたとえの重要ポイントだということがわかります。それでは、12かごまた7かごのパン切れが残ったということで何を主は語っているのでしょうか。

これを理解するために、このたとえはパリサイ人、サドカイ人、ヘロデのパン種について語っていることを思いおこすべきです。これらに”十分注意”しろということが主の警告です。さて、パン種に関連してこのようなみ言があります。

マタイ13:33
” イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」”

この言が語っているのは良い結果ではありません。教会は本来パン種のない粉だったのに、パン種をとって粉の中に入れたので、全体がふくらむ、パン種がいきわたったーすなわち罪や間違った教えが教会の中にいきめぐった、このことをさしているのです。このたとえは悪い結果を語っているのです。

同じように給食のたとえも悪い結果について語っています。パリサイ人、サドカイ人、ヘロデのパン種がいきわたったその結果について語っているのです。

5000人で12かご、4000人で7かごのパンが残ったとたとえは語っています。こののこりの数は多いととるべきでしょうか。それとも少ないととるべきでしょうか。我々がどう感じるかは別にして、このたとえはこれだけしか残らなかったということをいっているのです。パン種が教会のすみずみまでいきわたる結果、残りの者は限られた数しか残らないというたとえなのです。

ですから、このたとえのの中心は多くの人が主の聖さんにあずかる、主の救い、交わりに入る。しかし、教会に彼等のパン種がいきわたる結果、最終的に残るものの数はすくないということを語っているのです。

これは終末のことをも含むのではないかと私は思います。

聖書の多くの箇所で残りのものという表現が使われています。残りのものの数は少ないのです。
以下のイザヤ書の記事を見て下さい。
 
イザヤ書 1:9 もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。

イザヤ書 10:22 たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。

イザヤ書 17:3 エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。「「万軍の主の御告げ。「「
イザヤ書 28:5 その日、万軍の主は、民の残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾り輪となり、
イザヤ書 37:32 エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。
イザヤ書 46:3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
エレミヤ書 23:3 しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。

終末における主のみこころを行っていきましょう。

ー以上ー

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