通算No.64 盲目なしもべ

テキスト: イザヤ6:8ー13
”8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」
11 私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
12 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。
13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」”

本日は盲目なしもべという題でメッセージしたいと思います。
聖書の中ではよく目があっても見えない、耳があっても聞こえないという表現があります。度々出てくるので、何かこのことに意味があることがわかります。重要なみ言であり、主がこれを通して語っておられることがあるということがわかります。

さて、このイザヤ書6章の記事は新約聖書の中で度々引用されている箇所です。マタイ、マルコ、ヨハネ、使徒行伝等で引用されています。ですから、この箇所は旧約のイスラエルの民への預言であるとともに、新約の我々に対する預言でもあるのです。それで、この箇所でたとえを通して語っていることを読み取っていくことが大切です。

このテキストを見ていきたいと思います。

”行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」”

見ても見ていないということがあると聖書はいっています。これは神の民、すなわち聖書を読み、神の教えをいつも聞いている我々に関する警告です。

”私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。”

”いつまでですか”というようにイザヤはその期間をきいています。その答えはこうです。
”「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。”
これは新約の我々に対する預言でもあります。ですから、新約の目でこの答えを見ていくべきです。町が荒れ果てる、家に住む人がいなくなるとはどういう意味でしょう。聖書では教会のことを町、家という表現で語ることがよくあります。 ですから、これは教会が荒れ、教会に人がいなくなる日のことを述べているのです。

”主が人を遠くに移し”とはどのような意味でしょうか。これは捕囚のことをいっています。捕囚とは旧約のユダの民にとってはバビロン捕囚のことです。さて、新約の終りにもバビロン化された教会がでてきます。彼等は捕え移されたものであり、先祖のゆずりの地ーみくにの約束の地から外された者です。
すなわち、教会があれ果て、人がいなくなるまで、そして教会がバビロン捕囚されるまで、その時まで民ークリスチャンの群衆は盲目であるというのです。また、逆にいうと、彼等の目が開かれなかったゆえに、教会はあれ果て、教会はバビロン化してしまったのです。

”しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。”
荒れ果てる、人がいなくなる、捕え移されるということが終末の教会に対する基本的な預言です。しかしその中にも多くはありませんが主のみこころにとどまる人々がいます。そのことが、書かれています。

このイザヤ書6章の箇所が新約の中で度々繰り返されて引用されるのは、新約の教会の歴史の中でも同じパターンが繰り返されるからです。

ですから、私たちが、神のみことば、わざを正しく見る、聞くということがたいへん大切だということがわかります。

さて、このイザヤ書の箇所では見る、聞くということと関連して滅び、さばきのことが書かれています。
彼等の目がみえず、きこえないことと彼等がほろぼされることとは直結していることがわかります。

この事実は以下のキリストの言葉とも似ています。主を正しく見ず、滅んでいったエルサレムに対することばです。
ルカ19:41、42
”41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。”

このエルサレムは現在の教会の予表です。
旧約の律法、またキリストを正しく見、聞くことのできなかった律法学者、パリサイ人達はエルサレムの裁きとともに滅んでしまいました。彼等は神のこと、神の言に携わっていたのに、見ておらず、聞いていなかたのです。
これは、終末においても繰り返されるパターンです。

さてこの見えるとか聞こえるとはどういうことかを見ていきたいと思います。以下の箇所には上記、イザヤ6章が引用されています。

マルコ4:10ー13
”10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」
13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。”

このマルコ伝の箇所を読む時わかってくることがあります。それはすなわち、見る、聞くということは神の国の奥義を理解することであり、またたとえを理解することであることがわかります。

神の国の奥義はたとえや謎、隠れた形で聖書に含まれているのです。だから、たとえを理解する、神の国の奥義を理解するということはひまがあったり、気が向いた人がすればよいということでなく、クリスチャン、特に終末に直面している今の時代のクリスチャンにとり、必須であることがわかります。

さて、これは知識的な面だけではありません。以下の箇所にもイザヤ書が引用されています。
 
 ヨハネ12:37ー40
”37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」”

正しくイエスを見ない時、信じることができないのです。
さてもう一箇所、このイザヤ書の記事が引用されている部分を見ていきましょう。

使徒28:23ー27
”23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。
26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』”

これは使徒行伝の最後の箇所です。ここでも、見る、聞くことに関して語られています。使徒達の宣教の働きの記述の最後にこのような記事が記されているのは暗示的です。これらの言葉は直接的にはユダヤ人に語られています。しかし、また、教会への預言的な意味合いもあるのかもしれません。

すなわち、キリストのみことば、福音は教会時代を通して、これからも述べ伝えられる。しかし、その末は結局、神の民の耳は聞いても悟らず、見てもわからない状態に行き着く、このようなことを暗示しているかとも思えるのです。

さて、これらに関連して似たような表現が他のイザヤ書に出てきます。

ザヤ42:18ー25(口語)
”18 耳しいよ、聞け。目しいよ、目を注いで見よ。
19 だれか、わがしもべのほかに目しいがあるか。だれか、わがつかわす使者のような耳しいがあるか。だれか、わが献身者のような目しいがあるか。だれか、主のしもべのような目しいがあるか。
20 彼は多くの事を見ても認めず、耳を開いても聞かない。
21 主はおのれの義のために、その教を大いなるものとし、かつ光栄あるものとすることを喜ばれた。
22 ところが、この民はかすめられ、奪われて、みな穴の中に捕われ、獄屋の中に閉じこめられた。彼らはかすめられても助ける者がなく、物を奪われても「もどせ」と言う者もない。
23 あなたがたのうち、だれがこの事に耳を傾けるだろうか、だれが心をもちいて/後のためにこれを聞くだろうか。
24 ヤコブを奪わせた者はだれか。かすめる者にイスラエルをわたした者はだれか。これは主ではないか。われわれは主にむかって罪を犯し、その道に歩むことを好まず、またその教に従うことを好まなかった。
25 それゆえ、主は激しい怒りと、猛烈な戦いを彼らに臨ませられた。それが火のように周囲に燃えても、彼らは悟らず、彼らを焼いても、心にとめなかった。”
 
 このテキストを見ていきます。

”わがしもべのほかに目しいがあるか。”
神のしもべでありながら、使者でありながら、献身者でありながら、耳しい、目しいである、それが問題であると主はいっているのです。さて、耳しい、目しいと書いてあります。では何に関して見えない、聞こえないといっているのでしょうか。その答えはその後の節に記入されています。

”主はおのれの義のために、その教(律法)を大いなるものとし、かつ光栄あるものとすることを喜ばれた。”
その教えとは律法であり、神のことばのことです。ここで言われていることは神はそのみことばを大いなるものとし、光栄あるものされたということです。すなわち、神のことばに欠けがあるわけではない。しかし、そのしもべたちはこのことばに対して盲目であるということです。

最新の故障のないコンピューターを購入しても正しい計算結果が出てこないのはそれを使いこなす技術者の問題です。同じようにここでの問題は主のことばではなく、それを見る、聞く、しもべの問題だといっているのです。

そして、その結果どうなるでしょう。

ところが、この民はかすめられ、奪われて、みな穴の中に捕われ、獄屋の中に閉じこめられた。彼らはかすめられても助ける者がなく、物を奪われても「もどせ」と言う者もない。”

神のしもべ達が盲目である、その結果、その教えを聞く民は(悪い者に)かすめられ、奪われて、穴の中、獄屋の中に閉じ込められたというのです。ですから、ことばを扱う者の責任は大きいことがわかります。

”あなたがたのうち、だれがこの事に耳を傾けるだろうか、だれが心をもちいて/後のためにこれを聞くだろうか。”

後のためにとは来るべき時ー終末のことです。ですから、これらは終末のことを語っているのです。誰が耳を傾けるか、聞くかという表現は反語的です。
多くの人は耳を傾けない、聞かないというニュアンスが含まれています。

確かに多くのしもべの耳は終末のことに関して、耳しいであり、目しいかもしれません。しかし、主のみこころを行う人々は正しくそれを聞きとっていかなければなりません。

”ヤコブを奪わせた者はだれか。かすめる者にイスラエルをわたした者はだれか。これは主ではないか。われわれは主にむかって罪を犯し、その道に歩むことを好まず、またその教に従うことを好まなかった。
25 それゆえ、主は激しい怒りと、猛烈な戦いを彼らに臨ませられた。それが火のように周囲に燃えても、彼らは悟らず、彼らを焼いても、心にとめなかった。”

ここでもさばきのことが書いてあります。見る、聞くことはさばきと直結しているのです。何故終末の日の神の民へのさばきに対して、民は目が開かないのでしょうか。それは彼等のそむきの罪のためです。

終末における主のみこころをおこないましょう。
 

ー以上ー

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