本日はカナの婚姻のたとえについて見ていきたいと思います。
聖書は”イエスは...たとえによらないで話されることはなかった”と書いてあります。キリストのいわれたこと、なされたことには文字どおりの意味とともにたとえが隠されているというのです。それで、このカナの婚姻の物語に記されているたとえを理解していきたいと思います。
まず始めに見るべきこと、それはこれは婚礼の話だということです。聖書の中で出てくる他の結婚、婚礼の話に関する箇所を見てみます。すると多くの話はキリストと信者との関係を表すものであることがわかります。例えば”賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえ”がそうです。
また黙示録にはこう書いてあります。
黙19:7”私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。”
これも婚姻について書かれたものであり、それはキリストと真のクリスチャンとの関係を表わすものです。
ですから、このカナの婚姻の箇所がたとえならキリストとのクリスチャンとの婚姻に関することをさす話であると思ってよいといえます。
さて、この話の中心は水が葡萄酒に変わったことです。葡萄酒についても聖書の他の箇所をみてみます。いくつかの聖書の箇所を参照してわかることは聖書的に見て葡萄酒は聖霊を象徴することです。
以下の箇所を見て下さい。
使徒2:12、13
”12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。
13 しかし、ほかに「彼らは甘い(新しい)ぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。”
これはペンテコステの記事ですが、聖霊に満たされた人達をぶどう酒に酔っていると表現しています。聖書はここで、聖霊とぶどう酒に関連があることを語っているのです。
また”酒に酔うな。むしろみ霊に満たされよ。”とも書いてあります。
さて、このたとえをよくみるとこれは2回にわたって供される葡萄酒について語っています。すなわち、先の葡萄酒と後の葡萄酒です。先の葡萄酒はこの婚礼の初めに既に出されている葡萄酒であり、後の葡萄酒はイエスが後で水から変えて人々に与えられたものです。葡萄酒が聖霊をさすなら、これは2回にわたる聖霊の傾注について述べています。
そしてこの葡萄酒ー聖霊は婚礼の中で供されています。教会時代は別の言い方をすると、主キリストの花嫁をめとる婚礼の期間ともいえます。この時代を通して多くの聖徒がキリストにつなぎあわされていくからです。そしてそのためにはぶどう酒ー聖霊の働きは欠くことができません。
教会時代における2度にわたる聖霊の傾注について聖書は何度か語っています。それは先の雨と後の雨と呼ばれています。先の雨は初穂をもたらし、後の雨は大収穫をもたらします。そして、象徴的には初穂はペンテコステにあたり、収穫は終末における魂の大収穫にあたります。
エレミヤ5:24
”24 彼らは心の中でも、こう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与え、刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる。』と。”
ですから、ここで述べられているイエスが水を大量のぶどう酒に変えるたとえは終末における聖霊の大傾注ー大リバイバルについてのたとえととるのが妥当と思えます。
イエスはここで手伝いの者達(しもべ)に”水かめに水を満たしなさい”と命じています。大リバイバルが起きる前に水がめに水を満たすわざが必要だったことがわかります。
さて、聖書をよく読むとこの水がめはペンテコステにも関係していることがわかります。このような箇所があります。
ルカ22:10ー12
”10 イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。
11 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。
12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」”
過ぎ超しの食事をするための客間を教えてくれる男がいます。その男の目印は水がめを運んでいることです。ずいぶん重そうな目印ですが、そうなのです。そしてこの2階の大広間はペンテコステの時の2階屋でもあります。聖書はペンテコステと水かめが関係があることをこのような形で語っています。そして、同じ水かめは大リバイバルの時のたとえでも用いられているわけです。
さてテキストを見ていきたいと思います。
”ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った”
ここで婚礼の席で葡萄酒がなくなったことが記されています。盛り上がるべき婚礼の席でぶどう酒がなくなれば、せっかくの場が沈んでしまうかもしれません。また、日本における伝道にしても働きにしても聖霊の働きがないことには何も期待できないのです。リバイバルが待たれるところです。
また、この奇蹟は母マリヤのイエスへの依頼から始まっています。イエスが自発的にしている奇蹟ではないのです。終末のリバイバルも祈りと求めの中でおきます。
”「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」”
”何の関係があるのでしょう”ということば、は本来関係はないのだというニュアンスを含みます。何故、イエスはこのような失礼なことばをいったのでしょう。人間的には不可解です。しかし、聖書のどのようなことばも意味があって語られています。ここでいわれている”女よ”とのことばに注目して下さい。ここで問題になっているのは親子関係でもなく、イエスとマリヤの関係でもありません。イエスは母でもなく、マリヤでもなく”女”について”本来自分とは関係がない”といわれたのです。
女ということばを聖書でみてみます。最初の女は男から作られ、男を助ける働きをします。この関係は奥義であり、キリストと教会をさします。
しかし、この終末のリバイバルの前にイエスは女に向かって自分と関係がないといわれました。女は教会を表わし、このことばは終末における教会の状態をさします。キリストと関係がなく、神から離れた状態の女ー教会に求めと祈りに基づき、聖霊の葡萄酒の傾注が与えられるのです。これはあわれみのリバイバルといえると思います。確かにリバイバルは与えられます。
しかし、それによって女ー教会がキリストとあまり関係がないー神から離れているという実情には大きな変化がおきるるわけではありません。これは一時的なものであり、さばきは定められており、終末は定められています。その事実がこのことばから伺えます。
”母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。”
手伝いの人はしもべです。しもべがキリストが語ることには何でも従っていくことがリバイバルの条件です。
”さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。”
これは随分な量です。この婚礼に多くの客が出席していたのかもしれませんが、それにしても多すぎる量です。
これをもって聖書が語っていることがあります。すなわち、この葡萄酒は多くの人のためのものであるということです。すなわち大収穫のためのものであることを語っているのです。
”イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。”
彼等は水がめのふちまで水をいっぱいにしました。彼等のしたがい、祈りはきわみまできたということでしょうか。
また水が6個の水かめのふちまで一杯になった時、一瞬にしてイエスによりぶどう酒に変えられたことに注目すべきです。1個の水かめが満ちたらすぐぶどう酒に変え、次の水かめが満ちたらまた変える、そのような形ではないのです。6個の水かめ全てがふちまで満たされるまでは一滴のぶどう酒にも変えられないのです。
そうです、リバイバルは突然そして大規模に起きるのです。
”宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、「「しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。”
ここで水が葡萄酒にかわりました。リバイバルがおきたわけです。しかし、その時、2種類の人達がいます。それがどこから来たのか知らない、しかしぶどう酒を味わう人。それからそれを知っている水をくんだしもべです。この2者には区別があると聖書は語っているのです。
”彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」”
ここで後の葡萄酒は初めの葡萄酒に勝るとも劣らない質のぶどう酒であることが語られています。終末の大リバイバルの時の聖霊の働きはペンテコステの時のものにおとりません。主はその時まで良いぶどう酒をとっておかれます。
終末における主のみこころを行っていきたいと思います。
ー以上ー
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