通算No.60 正しい聖書の読み方

テキスト:Iヨハ2:18ー20
”18 小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。
19 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。
20 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。”
 
本日はどうすれば正しく聖書を読めるかということに関してメッセージします。
さて、テキストを見ていきます。ヨハネは反キリストが出て行ったことについて述べています。多くの反キリストが現われたといっています。そしてヨハネの時はもう終わりの時だと述べています。彼の時にもうすでに終末は始まっており、反キリストの教えが出ていたことがわかります。

さて、この反キリスト達は今どうなったのでしょう。2つの可能性があります。1つはその後のキリスト教会の努力の末、教会から全く消滅した。もう1つはキリスト教会の中にパン種のように広がった。

そして、イエスは教会に関するたとえの中で、女が3サトンの粉にパン種を混ぜるとパン種が広がったといわれました。このたとえが事実なら、教会の中にパン種ー反キリストの教えが広がった可能性もあります。

ヨハネは彼の時代に関してもうすでに終末だといっています。もし反キリストが現われたとしても教会がそれを阻止したなら、彼は今が世の終りだとは言わなかったはずです。しかし、彼はもう今は終の時だといっているのです。
ですから、ヨハネの時代にすでにこの反キリストの教えが教会に入ってきた可能性があることがわかります。

反キリストが来るとどうなるのでしょう。聖書の他の箇所では反キリストが出て多くの人を惑わすと書いてあります。すなわち、ヨハネの時代にすでに惑わしが始まっていることが暗示されます。

世の終りということばに託して神が我々に語っていることを読み取るべきです。何故ヨハネは
今から1900年も前の彼の時代をさして、世の終りなどといったのでしょう。実際、彼の時代からもう1900年程も経っているのにまだ、主の再臨はありません。彼は早まったのでしょうか。間違えたことをいったのでしょうか。いいえ、聖書で語られていることばはどれも意味のあることばです。聖書がヨハネの時が世の終りだといったなら、その時は世の終なのです。彼は反キリスト、間違った教えを語る人に関連して世の終りといいました。ですから、すでにヨハネの時から、教会に反キリストの教えが入ってきている可能性があるのです。そのことを示唆するために、”世の終り”ということばが使用されているのではないかと私は思うのです。

例としてイスラエルの王国をみます。王国はダビデ、ソロモンの時に黄金期を迎えます。しかし、ソロモンの子レハベアム、そしてヤロべアムの時、はやくも王国は2つに分裂し、また偶像崇拝も入ってきているのです。イスラエルの王国においては神の民の崩壊の働きは随分早い段階で始まっていることがわかります。
 
ですから、私たちは伝統的な教えも含めて全ての教えを吟味する必要があります。さて、今の時代、この反キリストの教えにだまされる人も多いでしょう。反キリストの教えは巧妙かもしれません。私たちが、それにだまされないためにはどうすればよいのでしょう。賢い人でもだまされるかもしれないのです。
さて、それに関してヨハネはこう書いています。
”あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。”

このことばをみてみましょう。注ぎの油とは聖霊です。この聖霊から来た知識があれば大丈夫だといっているのです。
ヨハネは人についてはいいませんでした。正しい教師がいれば大丈夫だとか、良い神学、教理があれば大丈夫だとはいいませんでした。かえって、聖霊について語ったのです。これは気休めにいったり、他に書くこともないので書いたというのではありません。彼はこの反キリストの偽りをあばき、正しい知識を与えるのは聖霊のみと思っていたのではないかと私は思うのです。というのは彼はもう一度同じ主旨のことを続けて書いているのです。

Iヨハネ2:26,27
”私はあなた方を惑わそうとする人たちについて以上のことを書いてきました。あなた方の場合はキリストから受けた注ぎの油があなた方のうちにとどまっています。それで誰からも教えをうける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなた方を教えるようにーその教えは真理であっていつわりではありませんーまたその油が教えたようにあなたかたはキリストにとどまるのです。”

ここでは”惑わそうとする人達”について書いています。この人達の惑わしにどうやって対抗するのでしょう。正しい教理の本を用意するべきでしょうか。優秀な神学校出の人を雇うべきでしょうか。ヨハネはここでもこう書いています。”あなた方の場合はキリストから受けた注ぎの油があなた方のうちにとどまっています。”聖霊こそが正しい導き手であり、真理を教える方なのです。そのことをここでも強調しています。
そして、人から教えを受けることに関しては逆にこう書いています。”誰からも教えをうける必要がありません。”

人から教えを受けることに関して彼は勧めていません。何故でしょう。神学校へ行ったり、良い教師につくことは有益ではないのでしょうか。そうかもしれません。しかし、人からの教えの中に惑わしがあるのです。ここでいわれている”惑わそうとする人たち”は人を教える中でその惑わしを伝えるのです。それで、ヨハネは”誰からも教えをうける必要がありません。”と書いたのです。

これは単に異端の教えのみを言っているのではありません。伝統的な教えの中にも誤りが入る恐れがあるのです。

”誰からも教えをうける必要がありません。”とのヨハネのことばは現在の終末の時代にはますます大事なことばだと思います。というのは現在は人からの教えを受けないと牧師になれない、教師になれない時代だからです。そして教えを受けた人を通して、その人からの教えは教会に広がっていくのです。

この箇所にもっとも正しく聖書を学ぶ方法について書いてあると私は信じています。
そして、ヨハネが一貫して語っているのは聖霊から教えられることです。人からの教えに関しては逆に誤りがはいりやすいことを述べています。さて、イエスはどう語られているのでしょう。下記のみことばをみて下さい。

ヨハ16:13
”しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。”

イエスご自身も人ではなく聖霊が全ての真理に導くといわれました。聖書を開くのは聖霊であり、真理に導くのは聖霊です。参考書ではありません。私たちがこのことばを信じ、聖霊に求めていく時、正しい真理に入るのです。

イエスご自身に関してはこう書かれています。
ヨハネの福音書 7:15” ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」”

また弟子の代表格であるペテロ、ヨハネに関してはこう書かれています。

使徒の働き 4:13 ”彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。”
 

これらの記述は意味があってなされたものです。ですからこのことに何かあるのです。人からの教えを受けないことに関して何か神が語っていることがあるのです。

パウロはどう語っているのでしょう。

ガラテヤ1:11、12
” 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。”

彼はここで彼が宣べ伝えた福音はイエスキリストの啓示によって受けたと書いています。そして人間からは受けなかったことが書かれています。

この箇所の特長はキリストの啓示と人からの教えとが対象的に書かれていることです。彼はこの福音がキリストから直接啓示されたことを強調し、人間からのものでないことを強調しているのです。この2つのものが対象的だということを覚えてください。彼は人からでないということを非常に強調しています。”人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。”

今でも聖書には多くの啓示が隠されており、教えが隠されています。しかし、黙示録を始めとする多くの終末の預言はまだ開かれていません。

それは何故でしょう。それは神に直接啓示を求めないからです。神に求めず逆に”人間によるものを求め、人間から受け、人間から教えられているからです。”

人の注解書を聖書の上においたなら、どうして神からの啓示を受けられるでしょうか。黙示録ということばにはギリシャ語で啓示ということばが含まれています。だから、これは啓示の書です。だから、この書は私たちが聖書の啓示を求めて読んでいるかどうかを試す試金石のようなものです。黙示(啓示)とは英語でrevelationであり、この言はベイルをはがす。隠れたものをあらわすという意味です。隠れたものを示すのは神ご自身です。
もし私たちが神に啓示を求め願う者ならこの書も開かれるでしょう。しかし、啓示を求めたことがないなら、どうして開かれるでしょう。この書はその人の神の啓示に関する態度をはっきりと示すものです。
 
人からの教えのみに頼っている時、いざ啓示のみの書を前にした時、対応できません。実際、多くの注解者がいますが、いざ啓示の書、黙示録を前にすると対応できないようです。これもわからない、あれもわからないという状態です。

啓示の書がわからないということは、他の書、福音書や書簡の啓示も正しくとらえているかどうかあやしいものかもしれません。反省する必要があります。

神が黙示録を聖書の最後に置いたのはそのことを私たちに教える意味合いもあるのではないかと私は思っています。

この啓示はどこから来るでしょうか。これは聖霊からきます。このように書いてあります。

エペ1:17
”どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。”

ですから、ヨハネ、ペテロ、パウロ、イエスの時から、聖書は神の啓示により読むものであることがわかります。人の参考書に従って読むものではありません。

さて、ここに書いてある知恵について詳しくみていきましょう。

1コリ2:6ー12
”6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。”

この箇所を詳しくみていきましょう。

”成人の間で、知恵を語ります。”
ヘブル書に書いてあるように、罪のゆるし、死人のよみがえり、あん手等の教えは大事ですが、これはあくまで基礎であり、幼児への乳の教えです。私たちが成人のクリスチャンとして立つなら、神の語る知恵について求めて行くべきです。

”この世の知恵でもなく”
多くの神学書はこの世の知恵に満ちているようです。しかし、それでこの神の知恵が得られるわけではないと神はいっているのです。

”隠された奥義”
奥義は隠されているということが聖書の主張です。隠されている以上探さなければみつかりません。さがすこと自体いけない、他の考えはだめだ、伝統的な解釈以外はだめという考えはこのみことばに反しています。

この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。”
この世と訳されていることばはこの時代とも訳せます。すなわちイエスの時代です。支配者たちとは第1義的には宗教の支配者、指導者のことです。何故ならキリストを十字架にかけたのは彼等だからです。

イエスの時代の宗教指導者達の大きな失敗の一つはこの知恵をさとらなかった、そして栄光の主を十字架につけてしまったことなのです。イエスと律法学者やパリサイ人達との関係の中に正しくたとえ、奥義を理解する人とそうでなくたとえを理解できない人々との差がでています。彼等は数が多く、正当派でしたが、しかし、神の知恵を持たず、たとえを理解せず、奥義を理解しなかったのです。

これは今の時代も同じです。今の時代はどういう時代でしょうか。神の知恵を悟らない時代です。また、今の時代はあまりにもたとえを理解しない、また奥義を理解しょうとしない人々が多い時代です。それで、逆に正しくたと えや奥義を理解した人が異端扱かいされ、迫害される時代です。

”「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」”
神が隠しておられる奥義、知恵は人々の予想や常識をくつがえすものであることが書かれています。大工の子として来られた初降臨のイエスはまさに宗教指導者の常識をくつがえすものでした。しかし、一方正しくイエスを受け入れた人々もいたのです。

終末の時代であってもこの原則は同じです。神の知恵である以上、同じパターンが繰り返されても不思議はありません。しかし、多くの人々はこのことばを信じません。神ははっきり”目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの”を用意している、すなわち思いがけない奥義が隠されているといわれているのに、今の人々はこの神の言をうけいれようとはしません。逆に少しでも誰かが伝統的な解釈と違うことをいえば異端のレッテルを貼るのです。

”神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。”
ここで、正しく聖書の奥義や謎、たとえを理解する方法について書いてあります。それは神学書や注解書に精通することではなく、御霊による啓示です。多くの人は聖霊が正しい真理を啓示すると神が語ってもまともには受けとりません。聖書の学びを人から受けるため、海外の神学校へ行く人はいます。しかし聖書の学びと解き明かしと知恵を神から受けるため、断食して祈る人のことは聞いたことがありません。人の知恵を求め続けるその結果、神の奥義に触れることができないのです。

”いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。”
同じ聖書の語句でもいろいろな人の解釈があります。まして隠された奥義に関しては人によって意見や
考えが違うでしょう。どのようにして真理に達するのでしょう。しかし、正しく聖書を解釈し、奥義、知恵を理解する方法が一つあります。それは神にきくことです。人間が書いた文章でも意味不明、難解で主旨を理解できないことがよくあります。その時、もっともよい解決方法があります。それは著者に直接きくことです。おなじように神の奥義、聖書のたとえについては神に直接きくことが賢い解決方法です。

”それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。”
そしてまさに神はそのもっとも賢い解決方法についてここで語っているのです。すなわち、神に直接きくことです。そのために私たちはその”神の御霊を受けました”。それは、神の奥義を”私たちが知るためです”と書いてあります。ですから、このことを信じ聖霊にきく人は正しい理解に至るのです。

ますます終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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