通算No.59 教会への預言

テキスト:エレミヤ23:18ー20
”18 いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。
19 見よ。主の暴風、「「憤り。「「うずを巻く暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。
20 主の怒りは、御心の思うところを行なって、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟ろう”

本日は教会への預言という題でメッセージします。旧約聖書を読むと神の民イスラエルに関する多くの預言が記されていることがわかります。イザヤ、エゼキエル、エレミヤ等多くの預言者が入れ替わり立ち替わりイスラエルの未来に対して多くの預言をしています。その量は聖書の多くのページを占めます。またその預言は微に入り細に入る詳細なものです。

さて、教会への預言について考えます。聖書の中で教会に関する預言は不思議と非常に量が少ないものです。黙示録に2、3章教会に関する預言があります。しかし、それ以外はまとまった預言がみあたりません。

この両者の預言を比べて見ると量的に圧倒的な差があります。正確に比較していませんが、その差は10対1、いや100対1、いやそれ以上かもしれません。一体どうしてこのような差ができたのでしょう。

そもそも聖書における神のみこころの中心は教会にあります。イスラエルはあくまで型です。それなのに何故このように教会に関する預言は少ないのでしょう。例えば次のような可能性が考えられます。

1 神には旧約のイスラエルに関しては預言できても、新約の教会へ詳細に預言する力がない。
2 神は新約の教会に関して詳細な預言は必要はないと判断した。だからしなかった。
3 神は聖書の中で詳細な預言をした。しかし、それは隠された形になっている。それで、わかりずらくなっている。

これをみていきましょう。1は論外です。神は全能です。2に関して、神が教会に関して詳細な預言を不必要であると思う理由はみあたりません。型であるイスラエルの歴史に関しては多くの預言、警告を与え、いざ本番の教会時代に関しては漠然とした簡単な預言しか与えなくてよいと神が思われるとは不自然です。これは、例えて言えばこんなことでしょうか。学校で学芸会があるとします。予行演習の日はプログラムが配られたので、観客はどのような順番、内容の歌や劇があるか前もってわかっていました。いざ、本番の日にはプログラムはなしということになりました。

これは少し不自然です。普通の人が考えることではありません。それで、私は上記3の考えを持っています。教会の歴史は隠れた形になっている。具体的には型であるイスラエルの歴史の中に表わされていると思っているのです。
このことを見ていきましょう。....聖書を読むと一つの原則があることに気がつきます。それは神はイスラエルの民とクリスチャンを似た者として表現していることです。それは以下のようです。
ー野性のオリーブ、元木のオリーブ
ー12部族と12弟子
ーヤコブの70人の親族と主の70人の弟子
ーどちらもアブラハムの子孫
ー旧約の神の民にも新約の神の民であるクリスチャンにもぶどうの木、オリーブの木といった同じ表現が使用されている。

何故神はこの両者を似た者として書かれたのでしょうか。それは、我々に一つのことに気付かせるためです。イスラエルへの預言はそのまま霊的イスラエルー クリスチャンへの預言だということです。前者に起きたことは後者にも起きるのです。それを悟らせるためにこのようにこの二つのものはいつも似た形で表現されているのです。
 

主はかつてみくにの奥義を知ることは弟子たちのみにしか許されていないと語りました。それ以外の人、すなわち弟子以外の人にはただたとえで語られるといわれました。ですから、こういうことになります。もし聖書の中で教会に関して多くの詳細な預言がされていてもそれが奥義に属するものなら弟子以外の者にはわからないように書かれているはずです。すなわちたとえが使用されているはずです。

そしてまさに教会に関する預言は奥義なのです。だから、弟子以外の人が読んでもその預言があることすらわからないのです。しかし、弟子に関してはそうであってはいけないはずです。ですから、私たちは聖書のたとえを読み、預言を読み取って行くべきなのです。

例えばイスラエルの王国(kingdom)の歴史は神の国(kingdom  of God)ー教会の歴史の予表であると私は思っています。この時代は一つの区分された期間です。何故なら、マタイ伝にはこのように書かれています。”アダムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン移住までが14代、バビロン移住からキリストまでが14代”
ですから、ダビデからバビロン移住までは一つの区分された期間であることがわかります。そしてこの期間はまさにイスラエルの王が支配する”王国”ーkingdomの時代であり、それはそのまま神の国ーkingdom of God−教会時代の予表になっています。
この両者は下記のように類似しています。

 イスラエルの歴史:*実質的にはキリストの型であるダビデから始まる。
彼は30才でエルサレムで王となる。前王サウルにより命をねらわれる。
教会の歴史:キリストから始まる。30才で公生涯にはいる。この世の君サタンから命を狙われる。

:王国は分裂する。神を求めるが少数派であるユダ王国とイスラエルという名前は残し、多数派ではあるが、神には熱心ではないイスラエル王国に分裂する。
:神の王国ー教会は分裂する。神には熱心だが少数派であるプロテスタントとキリスト教の代表としての名前はあり、多数派ではあるが、神には熱心ではないカソリックに分裂する。

:何度か神に熱心な王が起こり、そのつど改革が行われるがしかし、また偶像礼拝に戻ったりし、王国全体としては滅びに向かっている。
:何度か大きなリバイバルが起こるが、しかししばらくするとまた世に戻ったりする。世俗化したクリスチャンが増えている。

:彼等のそむきの結果、王国はバビロンに捕え移される。彼等は先祖の約束の地から移されたものである。
:クリスチャンの背きの結果、教会は全体としてバビロン化する。彼等はみくにを継がない。

:少数の人々がバビロンから帰り、新しいエルサレムを再建する。
:少数の人々はバビロン化された教会から出てさばきから逃れる。また黙示録には新しいエルサレムが描かれている。

このように見ていくと両者の歴史は非常に似ていることがわかります。さて、このイスラエルの王国の歴史について多くの預言者が預言しています。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった預言者です。彼等はイスラエルの罪が満ちることについて語り、またバビロンに捕囚されることについて語っています。これらの預言はイスラエルの国に関する預言であるとともに教会にあてた預言ととるべきだと私は思っています。終末の預言である”主の日”に関すること等がこれらの預言に出てくるのはその理由とおもわれます。

イスラエルの歴史の中でも、特に”王国”のバビロン捕囚について列王、歴代史また多くの預言書が語っています。イスラエルの民がどのようにして真の神である主を離れ、偶像を拝し、その不信の結果、自分たちの受け継ぐべき地から離されてバビロンの地へ移されたのかということを詳細に語っています。これはもちろんイスラエルの民に関する預言ですが、また教会に関する預言でもあるのです。神の教会がどのように真の神を離れ、この世のものを愛し、不信仰になり、その結果、多くの者がみくにからきり離されていん婦バビロンとなってしまったかを語っている箇所なのです。

多くの人は何故黙示録に突然いん婦バビロンが出現するのかその理由を知りません。そして黙示録のテキストの中からのみこのバビロンを理解しようとして失敗します。しかし、ペテロがはっきり書いているように聖書の預言は私的解釈ーそのテキストのみからの解釈をすべきではありません。

他の聖書の箇所をも参照すべきなのです。バビロンに関しては旧約聖書に多く出てくるので、それを見ていくべきです。旧約の神の民の歴史を見る時、バビロン捕囚はその歴史の一つのクライマックスであることがわかります。これは神の民の王国の最終的な結末であり、また不信の結果であることがわかります。またこのバビロン捕囚の時、イスラエルの王国が崩壊していることをもみます。

これは現在の神の民であり、神の王国であるクリスチャンの歴史の予表なのです。

”見るには見るが悟らず、聞くには聞くが理解しない”と聖書にあります。私たちが聖書を何度も通読することは大事です。しかしそうであっても、聖書の中で神が隠されたことを読みとっていかなければ真の意味で神の意図を正しく見たり、聞いたりしたことにはなりません。

正しく教会に関する預言を理解し、終末における主のみこころを行っていきましょう。

ー以上ー

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