通算No.58 ヨハネの福音書の終末の記事

テキスト: ヨハネ14:1ー3
 ”1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
 2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです”
 

本日はヨハネの福音書の終末の記事という題でメッセージします。
聖書には4つの福音書があり、その3つの福音書にはそれぞれ終末の記事があります。すなわち、マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章です。それぞれ1章をあてて終末に関する記事が書かれています。しかし、4つ目の福音書、ヨハネの福音書には終末の記事が書かれてないようです。

たしかに、1見するとヨハネの福音書には終末に関する記事は特にまとめて書かれていないように見えます。しかし本当にそうでしょうか。よく見ると、実際は書かれています。今日はそれを見ていきたいと思います。

ヨハネ伝は他の福音書と比べて少し変わった書です。例えば、イエスの誕生についての記事を見て見ましょう。 マリヤとヨセフの子として生まれたイエスの誕生のようすをマタイ、ルカ伝とも伝えています。また系図を記しています。ヨハネ伝にもイエスの誕生のようすはしるしてあります。

しかし、その記述の方法が他の書と若干異なります。この書には神であられる方の誕生のようすが描かれているのです。”初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であた。”

さて、終末の記事の話に戻ります。ヨハネ伝には他の福音書に書かれているようなまとまった形での終末に関する記事は何もないかのようです。しかし実際はそうではありません。実は終末に関する記事は書かれているのです。しかし、一見しただけではわからないように書いてあるので、すぐにはわからないのです。

主から弟子たちへの終末への警告はヨハネ書14ー17章のいわゆる最後の晩餐のことばの中に含まれています。

ここに書かれているのは形を変えた終末への警告です。マタイ、マルコ、ルカには誰にもわかるような形で終末への警告が与えられています。しかし、ヨハネによる福音書にはたとえを読む人、すなわち弟子にしかわからないような形で書かれています。

終末に関する4つの福音書の記事を読むと一つ共通したことがわかります。それはどの書でもイエスは終末に関しては弟子にのみ語っているのです。マタイ、マルコ、ルカではこのように述べられています。
” イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」”そしてヨハネ伝における最後の晩餐のことばも12弟子へのことばです。

ここではっきりした事実が浮かび上がります。終末への警告は弟子にあてて書かれていることです。福音書は4つありますが、4つともそうなのです。この事実を通して聖書は何を我々に語るのでしょうか。断定的なことはいえません。しかし、わたしの個人的な見解はこうです。患難時代を経ても主に留まるのは主に、主の弟子であり、逆に弟子の歩みをしていない人は患難時代は危ないのではないか、それをさすのではないかと思っています。

さて、冒頭のテキストを少しずつ見ていきます。

”あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。”
何故、こころを騒がすなと書いてあるのでしょうか。それは、患難時代がクリスチャンにとって、心を騒がし、また信仰がゆるがされる時だからです。
 
また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます”
イエスがまた来ることは再臨であり、”迎える”ことは携挙です。これらのことからもこれらのイエスのことばは終末のことに関することであることがわかります。

さて、ヨハネ各章にある終末に関する記事を順にみていきます。

ヨハネ14章
”27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
28 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
29 そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。
30 わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。
31 しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。”

各節をみていきます。

”わたしは、あなたがたに平安を残します。”
ここで主は弟子たちに平安を残すと言われました。このことばは直接的には12弟子に語られたものです。イエスが捕まってしまった後は彼等も不安になるでしょうから、それを見越して主は語られました。しかし、12弟子は単に12人の個人をさすのでなく新約の全ての弟子の総称なのです。ヤコブの12人の息子の名前はそのまま、イスラエルの12部族の名前でした。イスラエル人であるならどこかの部族に属します。同じようにどの時代のキリストの弟子もこの12弟子の中に含まれます。ですから、12弟子に語られた平安を残すとのことばは患難時代を迎える12弟子のすえへのことばでもあります。私たちが主の弟子であるなら、患難時代を迎えても平安があることを期待してよいのです。

”そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです”
”そのこと”とは直接的にはイエスの逮捕、裁判、十字架刑といった一連の”患難”です。
主が十字架については前もって語られていたので、その後の問題の中でも弟子たちは完全に信仰を失う事態には至りませんでした。同じように神が前もって患難時代について語るのはその中で我々が信じ、信仰をなくすことのないためです。

”わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。”
”神の言”であるキリストが多くを話さないといわれました。患難時代には神のことばが制限される、多くは語られないことが暗示されます。

”この世を支配する者(この世の君)が来るからです。”
終末には反キリストの出現をとどめている者が除かれ、反キリストが出現します。患難時代の患難時代たるゆえんはこの世を支配する者ー悪魔が地上に来るからです。同じ貸事務所でも花屋さんが借りればきれいな花があふれるでしょう。しかし暴力団の人が借りれば悪が満ちるでしょう。この時代もこの世を支配するものが来た時、そうなります。

”彼はわたしに対して何もすることはできません。”
この箇所はKJV訳ではin me he has nothingと訳されています。
サタンがキリストの内に何の分もないといっているのです。要するにキリストの内側にはサタンにつけいれられる何もなかったのです。これは終末に歩む弟子にとっても大事なことです。サタンは多くの惑わしを持ってきますが、私たちの内側には彼と何の関わりも持ってはいけないのです。

”しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。”
イエスは苦難を受けます。しかし、これを通してこの世の人は神を愛し、神に命じられた人がこの世にいることをしります。これはたしかにその通りでした。イエスの逮捕、裁判、鞭うち、あざけり、十字架刑、これらのことを見守った百人隊長がいいました。”本当にこの人は正しい人でした。”
同じように終末の時代における弟子たちの受ける苦難、そしてその時の従いははそのままこの世への証となります。

ハネ15章:6
” だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。”

ここで主は2種類のぶどうの枝について書いています。1種類はキリストにとどまる枝であり、もう1種類はキリストから外れる枝です。どちらの枝も外見は同じです。しかし、一つは木にとどまるので、命があり、もう1種類には命がありません。これはクリスチャンと未信者の区別ではありません。何故なら、どちらの枝も初めはぶどうの木ーキリストにつながっていたからです。未信者は始めからキリストにつながりません。これは終末における2種類のクリスチャンをさします。1種類のクリスチャンはキリストにとどまり実を結び、もう1種類のクリスチャンはキリストから離れ、外に捨てられて火で焼かれます。この火で焼かれるという表現は”麦と毒麦”のたとえで出てくるものと同じであり、いん婦バビロンへのさばきに出てくる表現と同じです。
例)マタイ13:40 ”ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。”

ヨハ15:13ー21
”13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
20 しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
21 しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。
22 もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。”

ここも各節を見ていきます。

” 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。”

ここではキリストのために殉教することについて書いてあります。我々とキリストとは友であると書いてあり、また友のために命を捨てることについて書いてあります。すなわち、キリストのために私たちが命を捨てることについて書いてあるのです。殉教の時代、それが患難時代です。

”もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。”
世が弟子達を憎むことについて書いてあります。この世がキリストの弟子を憎む時代、これが患難時代です。

”もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。”
”この世のもの”という表現に注意して下さい。世に属しており、世から愛されるクリスチャンもこの時代にはいるのです。

”しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。”

ここで世から選びだされた弟子について書いてあります。”招かれる者は多いが選ばれる者は少ない”と書いてあります。終末においても真に主につく弟子は少ないのです。そしてその人達は世から憎まれます。

” しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。”

主は知恵のある方です。しかし、その主でもこの世でうまくやることはできませんでした。この世に憎まれ、命をうしなったのです。それでは私たちはどうすべきでしょうか。主より知恵のあるものになり、もっとうまくすべきでしょうか。”しもべはその主人にまさるものではない”とはっきり主はいわれました。だから、終末の時代になって主の弟子がこの世で迫害されるのは普通のことなのです。
また主を迫害したのはどのような種類の人々でしょうか。同じ種類の人々がまた終末でも弟子を迫害します。
 

”しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。”

”わたしの名のゆえに”とはすなわち人々が”自分はキリストのためにしている”と思い迫害するということです。キリストのために人を迫害するくらいですから、この人達は当然神の民であり、また”クリスチャン”です。何故クリスチャンなのに弟子を迫害したりするのでしょうか。”それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。”と書いてあります。彼等は真の意味で神を知らないのです。ですから、今の時代に真の意味で主を知ることは大事です。そうでないと患難時代には逆に真の弟子を迫害してしまうからです。

”もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。”

神の子であり、助けぬしであるイエスが地上に来て語られたのにエルサレムの人々は主を受け入れませんでした。そのことは彼等にとって罪となり、彼等に弁解の余地はありません。
終末の時代のクリスチャンにも、もう一人の助けぬしー聖霊が来られ、彼等の心に語りました。しかし、彼等はそれを受け入れませんでした。彼等は肉にあって歩む者達であり、聖霊にあって歩まない人々です。彼等には弁解の余地はありません。
 

ヨハネ16:1ー4
”1 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。
2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
3 彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。
4 しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。”

各節をみます。

”これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。”

終末には多くの人がつまづきます。”また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。”と書かれている通りです。

”人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。”

人々が弟子を会堂から追放する日がきます。これらの人々は自分は神に奉仕していると思うのです。そしてこれらの人々は神の民であり、クリスチャンなのです。これは聖書の他の箇所で度々語られていることです。

コ13:9” だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。”
マタイ24:9”そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。”

ヨハ16章21ー22、32ー33

”21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
32 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」”

各節をみます。
 

 ”女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。”

ここは2重の意味があります。第一義的には聖霊が来られることについて語っています。もう一つの意味があります。それは終末の患難のことです。しかし、その中で男の子ー勝利者が生まれてきます。こう書かれています。
マタイ24:8 ”しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。”
黙12:2、5
”この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。”

 ”あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。”

患難時代は弟子にとって、悲しみがあります。しかし、私たちはもう一度再臨の主にあうのです。

”見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます”

患難時代には激しい迫害の中で弟子がみな教会から散らされる時がきます。

”あなたがたは、世にあっては患難があります。”

この患難ということばは患難時代という時のことばと同じことばが使われています。弟子は終末に患難時代を通ります。

ヨハネ17:12ー15
”12 わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。
13 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。”
 

”御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。”

終末の時代、患難時代は世が滅びる時であり、キリストにつながっていないクリスチャンが滅びる時です。
しかし、主はその中でも弟子を保ち、守るといわれます。また弟子はだれも滅びないと言われました。しかし、弟子であっても滅びの子は滅びるといわれます。

”わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。”

キリストは弟子にみことばを与え、世は弟子を憎むと書かれています。世に憎まれることとみことばは関係あるようです。サタンの願いはこの地上に主のみことばを行う者を絶やすことであり、そのため、弟子達は憎まれるのです。

”彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。”

取り去ることはすなわち、携挙のこととおもわれます。我々の願いは患難時代の苦しみ、悩みを全く経験することなく、それが始まる前にこの世から”取り去”られることです。しかし、聖書は違うことをいっています。そうではなく、弟子達が患難時代の間、”悪い者から守”られることです。これは弟子達が患難時代を経由することを暗に語っているように思えます。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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