通算No.56 神の国の奥義

テキスト:マルコ4:11、12
” そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」”

本日は神の国の奥義という題でメッセージしたいと思います。

さて、この箇所の中で主は神の国の奥義について語られています。弟子達にはみくにの奥義を知ることが許されている、しかし群衆には許されていないと語られたのです。

すなわち、聖書には2種類の知識があるということについて主は語られているのです。ひとつは奥義といわれる知識、そしてもう一つは普通の知識とでもいえるものです。普通の知識は我々が普通に読む時与えられる聖書の知識です。

さて、聖書は神の前に群衆が決して知ることのないもう1種類の知識、奥義といわれる知識があるといいます。これは弟子達にのみ知ることを許された知識です。

そして、この奥義はどこに隠れているのでしょう、それは聖書のたとえの中に隠れているのです。何故そう言えるのでしょう。それは、ここでイエスは神の国の奥義について語るとともにたとえについて語っているからです。この同じマルコ4章でイエスはたとえを理解できない弟子達を叱責していますが、その中で神の国の奥義ということばがでてくるのです。

このことばをよく読んで下さい。”「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。”

ここで”たとえ”と”神の国の奥義”が共に語られていることがわかります。だから、たとえを理解するものは奥義を理解するものであり、たとえを理解しないものは奥義を理解しない者なのです。
そして、このたとえ、奥義は神の知恵により解かれていくものなのです。以下のように書かれています。

1コリ2:6ー12
”6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。”

この聖書の箇所を順に詳しくみていきましょう。
 

”成人の間で、知恵を語ります。”
ヘブル書に書いてあるように、罪のゆるし、死人のよみがえり、あん手等の教えは大事ですが、これはあくまで基礎であり、幼児への乳の教えです。私たちが成人のクリスチャンとして立つなら、神の語る知恵について求めて行くべきです。

”この世の知恵でもなく”
多くの神学書はこの世の知恵に満ちているようです。しかし、それでこの神の知恵が得られるわけではないと神はいっているのです。

”隠された奥義”
奥義は隠されているということが聖書の主張です。普通の人は知らないし、隠されている以上探さなければみつかりません。さがすこと自体いけない、他の考えはだめだ、伝統的な解釈以外はだめという考えはこのみことばに反しています。また、すでに皆が知っている教理以外はみなおかしな教えだという考えも反しています。皆がすでに知っているなら隠されてはいないからです。

”この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。”
この世と訳されていることばはこの時代とも訳せます。すなわちイエスの時代です。支配者たちとは第1義的には宗教の支配者、指導者のことです。何故ならキリストを十字架にかけたのは彼等だからです。

イエスの時代の宗教指導者達の大きな失敗の一つはこの知恵をさとらなかった、そして栄光の主を十字架につけてしまったことなのです。イエスと律法学者やパリサイ人達との関係の中に正しくたとえ、奥義を理解する人とそうでなくたとえを理解できない人々との差がでています。彼等は数が多く、正当派でしたが、しかし、神の知恵を持たず、たとえを理解せず、奥義を理解しなかったのです。

これは今の時代も同じです。今の時代はどういう時代でしょうか。神の知恵を悟らない時代です。また、今の時代はあまりにもたとえを理解しない、また奥義を理解しょうとしない人々が多い時代です。それで、逆に正しくたと えや奥義を理解した人が異端扱かいされ、迫害される時代です。

”「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」”
神が隠しておられる奥義、知恵は人々の予想や常識をくつがえすものであることが書かれています。大工の子として来られたイエスはまさに宗教指導者の常識をくつがえすものでした。しかし、一方正しく幼子イエスを受け入れた人々もいたのです。

終末の時代であってもこの原則は同じです。神の知恵である以上、同じことが繰り返されても不思議はありません。しかし、多くの人々はこのことばを信じません。神ははっきり”目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの”を用意している、すなわち思いがけない奥義があるといわれているのに、それをうけいれようとはしません。逆に少しでも伝統的な解釈と違えば異端のレッテルを貼るのです。

”神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。”
ここで、正しく聖書の奥義や知恵、たとえを理解する方法について書いてあります。それは神学書や注解書に精通することではなく、御霊による啓示です。多くの人は聖霊が正しい真理を啓示するといってもまともにとりません。その結果、神の奥義に触れることができないのです。

”いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。”
同じ聖書の語句でもいろいろな人の解釈があります。まして隠された奥義に関しては人によって
考えが違うでしょう。しかし、正しく聖書を解釈し、奥義、知恵を理解する方法が一つあります。それはこういうことです。人間が書いた文章でも意味不明、難解、主旨を理解できないことがよくあります。その時、もっともよい解決方法があります。それは著者に直接きくことです。おなじように神の奥義、聖書のたとえについては神に直接きくことが最も賢い解決方法です。そしてそのために私たちはその”神の御霊を受けました”。それは、神の奥義を”私たちが知るためです”。ですから、このことを信じ聖霊にきく人は正しい理解に至るのです。

主にあって正しく奥義を理解していきましょう。 

ー以上ー

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