通算No.55 みくにを受け継がないクリスチャン

テキスト:ガラテヤ5:19−21

”19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。”

今日はみくにを受け継がないクリスチャンに関してメッセージします。
ガラテヤ書には、霊的なクリスチャンと肉的なクリスチャンについて書いてあります。
さて、ここでとても恐ろしいことについて書いてあります。それは、クリスチャンではあっても、肉的な者はみくにを継がないということです。すなわち、このことばです。

”前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。”

ここに、神の国を相続することはありませんとはっきり書いてあります。これは文字どおり受けるべきなのでしょうか。それとも何かのたとえととるべきなのでしょうか。教会には肉的なクリスチャンも霊的なクリスチャンもいます。肉的だといけないことはわかりますが、みくにを受け継ぐことができないのでしょうか。クリスチャンであれば誰でもみくにを継げるのではないのでしょうか。この箇所をどうとるべきなのでしょうか。それをみていきたいと思います。

聖書をよく読んでいく時、この肉的なクリスチャンに関して聖書はいくつかの箇所で語っていることがわかります。これを見ていく時、この質問に関して正しい結論が出てきます。

同じガラテヤ書にはこうあります。
ガラテヤ6:7ー9
”7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
9 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば時期が来て、刈り取ることになります。”

ここに”思い違いをしてはいけません”と書いてあります。肉と霊ということを思い違える人が多いからでしょう。しかし、ここにはっきり書いてあります。
”御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。”
御霊のために、蒔く者、すなわちこの世にあって、聖霊にある歩みをしていく人は永遠のいのちを聖霊から刈り取るのです。

さて、それでは、肉にある歩みをする人はどうでしょう。人がちょっと気にいらないことを言えば、すぐ言い返し、自分の感情や思い、好みに従う、すなわち肉の歩みをするクリスチャンの報いはどのようなものでしょうか。これもはっきり書いてあります。”自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り”
みなさんはこのことばをどうとりますか。文字どおりのほろびととりますか、それとも何かのたとえなのでしょうか。これは個人的な見解ですが、私は文字どおりの滅びではないかと思っています。何故でしょう。それは、御霊のために蒔く者は、文字どおり御霊から永遠のいのちを刈り取るからです。このことが全くの事実なら、肉に属する者たちについて書いてあることばもみな事実になるはずです。
 
決して、聖書のことばを曲げてとったり、間違えたり、読み変えてしまうことのないようにしましょう。この聖書のことばのゆえに私たちは御霊にある歩みを苦労して行っているのです。自分のやりたいこと、自分の肉の思いや考えに基づいた歩みをしているクリスチャンはたくさんいるのに私たちはどうして十字架を負う歩みをしているのでしょう。

それは、”善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります”と書いてあるからです。失望せず、みたまにある歩みを行い続ける人々はある日永遠のいのちを刈り取るのです。このことばを信じているからです。

ここで、霊にあるものにはいのち、肉にある者にはほろびと対象的なことばが使用されています。聖書をよく読むとこの2つの対象的なことばが使われている箇所が他にもあります。

マタイ7:13、14
” 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。”

このマタイの記事はガラテヤ書の記事を補足しているように見えます。肉にある者は滅びを刈り取ります。霊にある者は命を刈り取ります。そして、滅びの門から入る者、すなわち、肉にある歩みをする者は多く、いのちの門を見い出す者、すなわち霊にある歩みをするクリスチャンは少ないのです。

さて、霊にある歩みをするか、肉にある歩みをするかということは我々が思っている以上に大きな問題です。それはクリスチャンの受け継ぐ相続と関係するからです。こう書いてあるからです。

ガラテヤ4:28ー31
”28 兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。
29 しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。
30 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」
31 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。”

ここでも恐ろしいことが書いてあります。肉の子供、すなわち、肉にあるクリスチャンは相続人になれないというのです。何を相続できないのでしょうか。みくにのことでしょう。ですから、文字どおりとるなら、ここには大変なことが書いてあるのです。

自分はクリスチャンだから、もう大丈夫といって、いつも自分の生まれつきの人、肉の思いのまま歩んでいる。するとある日主のみまえに立った時、自分には何の相続もない、みくにを受け継げないと言われるクリスチャンがいる、そういうことを言っているのです。

私のこのような言い方は伝統的な神学と一致しないことは知っています。しかし、問題は聖書がどういっているかということです。神は我々を神学ではなく、聖書のみことばに基づいて裁かれます。

ここで書いてある、”奴隷”という言葉はおそらく罪の奴隷をさすのでしょう。

聖霊にある時、罪から解放され、自由な歩みができます。”自由の女の子ども”と書いてある通りです。しかし、肉にある時、罪の奴隷になります。”奴隷の女の子ども”と書いてある通りです。

クリスチャンと名がつけば、地上でどのような歩みをしてもみくにを受け継げる、怒りを好きな時にぶちまけ、人に好きなようにひどいことばを浴びせる、それでもみくにを受け継げるなら、霊にある歩みをする者との差はありません。”しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」”

この肉にあるクリスチャンに関して聖書が憂えている箇所があります。それは以下の箇所です。

ロマ9:3ー8
”3もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて呪われた者となることさえ願いたいのです。
4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
5 先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。
6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。
8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。”

この箇所はパウロが自分の同胞であるイスラエル人について憂えて書いてある箇所です。しかし、ここにはもう一つの意味がたとえにより隠されています。それは霊的イスラエルークリスチャンのことです。

ですから、この箇所は霊的イスラエルであるクリスチャン、その中の”肉にあるクリスチャン”について憂えている箇所でもあるのです。具体的にみてみましょう。

”私の同胞”とは英語では私の兄弟と訳されています。すなわちクリスチャンの兄弟のこともふまえてかたられているのです。
”肉による同国人”と書いてあります。肉にある人々、肉にあるクリスチャンのことをも踏まえたことばです。

ですから、ここで、肉にある兄弟、すなわち肉にあるクリスチャンへの憂いが語られているのです。

”キリストから引き離されて呪われた者”
肉にあるクリスチャンの行く末はどうなるか。キリストから引き離されて呪われた者となるのです。

” 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。”

肉的クリスチャンも霊的イスラエル人です。(神の)子とされることも、(神からの)栄光も、契約も律法も、すなわち聖書のことばもそして神からの約束も彼等のものです。

” 先祖たちも彼らのものです。”
歴史に残る教父も大聖徒達も信仰の偉人も彼等のものなのです。

”しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。”
このようなすばらしい約束を受けているクリスチャンであるのに、何故彼等が肉であるからといって、みくにを受け継がないなどと言うのでしょう。神の言葉は嘘なのか、それとも効力のない(無効)ものなのでしょうか。
 

なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。
 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。”

ここでも肉の子、約束の子との表現がでてきます。イスラエルから出る者がみなイスラエルなのではないのです。かえって約束の子、すなわち霊の子こそ真のイスラエルークリスチャンであると神は認めているのです。すなわち同じクリスチャンの中に明確な区別があるのです。そして、最後にこう書いてあります。

” どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。”

ここで、はっきり基準ということばが使用されています。基準にあうクリスチャンと、あわないクリスチャンがいることを暗示しているのです。私たちはパウロの同胞であるイスラエル人が神のみこころにかなわない歩みをした時、どのようにきびしい神の取扱いを受けたのかを知っています。しかし、これは他人ごとではなく、肉にある歩みをするクリスチャンへの警告なのです。そのことを正しく捕えていきたいと思います。

もう一箇所、肉的クリスチャンについて書いてある箇所があります。

ハネ8:30ー45
”30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
39 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。
40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。
41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」
42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。”

この箇所には上述したガラテヤ書やロマ書と同じような表現がいくつもでてきます。すなわち、アブラハム、奴隷、自由といったことばです。だから、ここは同じ主旨のことをいっているのです。

この箇所の概要はこうです。

*このユダヤ人はキリストを信じている、だからクリスチャンの型です。
”そこでイエスは、その<信じた> ユダヤ人たちに言われた”

*しかし、彼等は罪の奴隷です。そして、真の神の子ではありません。
”「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。”

*その結果彼等は家、みくにを受け継ぎません。しかし、真のクリスチャンは受け継ぎます。
”奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。”

*彼等は信仰の父アブラハムの子孫であるクリスチャンの型です。
”わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。”

*彼等は助けぬしである真理の聖霊を殺す、すなわち霊の声に耳を傾けない肉のクリスチャンの型です。何故なら、彼等は助けぬしーイエスを殺そうとしているからです。
”ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。”

*肉であるクリスチャンは毒麦であり、その父は悪魔です。
”あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。”

しかし、私たちにあっては聖霊にある歩みをしていきたいと思います。

ー以上ー

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