通算No.53 終末の3種類の弟子について

テキスト:ヨハネ21:18ー23
”18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
23 そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。”

本日は終末の弟子はどのような最後を迎えるかということについて聖書の預言を学んでいきたいと思います。さて、ここで二人の代表的な弟子が出てきます。イエスはこの二人の最後について象徴的な預言をしています。

これはこの2人に関する個人的な預言のようですが、もう一つの面が隠されています。この預言のもう一つの隠された面とはこういうことです。すなわち、この預言は終末における弟子の2種類の最後について語っているのです。

このことをもう少し詳しくみていきたいと思います。

初めに主の弟子であるペテロについて見ていきたいと思います。イエスには多くの弟子がいましたが、ペテロがその弟子達の中でどういう位置を占めているのか、それを理解して行くことはペテロへの主のことばを理解していく助けになります。

ペテロは多くの弟子の筆頭格であり、代表です。だから、ペテロに対していわれている言はある意味で彼個人というよりも弟子全体に対していわれていると思ってよいと思われます。聖書はペテロを弟子達の代表的な位置に定めています。

このことはイエスのいわれた。”あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。”ということばに、はっきりあらわれています。聖書は弟子は砂ではなく基本的に石や岩として表わされることを語っています。

そしてシモンペテロこそ主からはっきり、石、岩だと名指しでいわれている弟子なのです。だから、シモンペテロの歩み、ことば、できごとのなかに石や岩である弟子全体に関する語りかけ、教えがみな隠されていると思ってよいのです。聖書はそのように語っているのです。イエスがもしたとえば、アンデレのことを石、岩とよんだなら、その時はアンデレの歩み、言動に注目すべきです。その歩みの中に聖書は弟子に関する多くの語りかけを与えているはずです。しかし、イエスはシモンペテロを石、岩と呼びました。彼に注目しなければいけないことがわかります。これは決してペテロを個人として特別視しているのではなく、聖書が用いる方法がそうなのです。

ですから、ペテロに語られたこのイエスのことばはペテロ個人への預言としてとどまるものではありません。彼は12弟子の筆頭格であり、またその後に教会時代に現われてくる多くの主の弟子の代表です。彼が優れている、特別ということではなく、聖書は彼をそのような位置に置いているのです。聖書がある人をある位置に置いたなら、そのようにその人をとらえなければなりません。そうしない時、その人を通して聖書が語ろうとしているたとえ、語りかけを読みとることができないからです。

例えば聖書はダビデを王であるキリストの型として、聖書内で位置づけ、扱っています。彼の生涯を学んでいくとき、その中で神が王としてのキリストについて語っている多くの預言、教えを見ることができます。同じことがペテロにもいえるのです。ペテロを個人的に信用できないとか、好きとか嫌いとかは別の問題であり、聖書が彼をある位置においたならそのように見ていかないと正しい知識には至らないのです。

さて、ペテロに関する預言をみていきます。ペテロに関しては明らかに殉教による最後が示されています。そして、史実によれば彼は実際、イエスのことばどおりに殉教したようです。

さて、これはペテロ個人の歩み、生涯に関する預言です。しかし、先程述べたようにペテロが聖書的におかれた位置に注目してください。彼は12弟子の代表格であり、また教会時代全体を通した弟子の代表でもあるのです。ですから、彼に与えられた預言は教会時代全体を通した弟子の歩みに関する預言ともとれるはずです。

このような考えはとっぴに過ぎるでしょうか。しかし、このことの一つの鍵として、もう一人の弟子、ヨハネへの預言に目を留めてください。

ヨハネへの預言には”私の来るまで”ーすなわちイエスの来臨までの長い期間が述べられています。
イエスの再臨は終末です。それなら、同じ弟子であるペテロについての預言も同じくイエスの再臨までの長い期間についてのものだと考えてもよいはずです。

その場合、若い時とは、教会時代の始まりから終末に至る前までの間のことです。その間、それぞれの弟子は自分で帯をしめ、自分の行きたいと思うところへ行きました。牧師でも宣教師でも伝道師でも、それぞれ苦労はあるもののしかし、自分の望んだ働きにつき、自分が望んだ歩みができたのです。もちろん多少は殉教する人もいたでしょうが一般的にはそうなのです。

しかし”年をとると”すなわち、終末の時代は違います。終末の弟子の歩みの大きな特徴は殉教が避けられないということです。もちろんたとえ弟子でもそれを望んではいないのですが、しかし他の人に帯をされ、自分では望まないところ、殉教の地へいくこと。これが終末における弟子の一般的な歩みなのです。このことを語っているのです。

ペテロに示されたこの弟子の最後、これが教会時代の最後の弟子達の一般的な歩みです。最初の弟子達の死は殉教が多かったそうです。事実ペテロを初め12弟子のうち11人までは殉教したと伝えられます。終末にも一般的な弟子はそうなるでしょう。

さて、一般的ではないのでしょうがもう一種類の弟子の歩みについても聖書は語っています。それはヨハネのことです。

ヨハネについてイエスは不思議なことをいっています。”わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても”といわれています。イエスの時代のヨハネが2000年も後の主イエスの来臨の時まで生き残り、また再会するということはありえないことです。

このイエスのことばのゆえに他の弟子達の間にこの弟子は死なないという噂まで出てしまったようです。何故、主は誤解を生むような危険をおかしてまで、このようなことをわざわざいわれたのでしょうか。その理由はこの箇所が終末における弟子達の歩みを述べる箇所だからです。ペテロが一つの弟子の型であるように、ヨハネももう一つの弟子の型だからです。患難時代におけるもう一種類の弟子の型、すなわち生き存える弟子の型だからです。

ペテロと違い、ヨハネに関しては殉教が語られていません。しかも驚くべきことは死についてさえ語られていないのです。ペテロと違い、あなたは安楽にベッドで死ぬとさえ語られていないのです。ですから、彼は死なずに患難時代を通ってキリストの再臨まで”生きながらえる弟子”の型です。これはいわゆる”残りの者”の型です。聖書の中ではこの表現が度々出てきます。

Iテサ4:15には
”私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。”

”生き残る”という言い方がされています。原語でも”生きる”ということばと”残る”
ということばの両方のことばが使われています。すなわち死んでいく、殉教していく弟子が多いなかでわずかの弟子が生き残るのです。

実際12弟子がほとんど殉教した中で、ヨハネのみは殉教しなかったようです。
また12弟子の中で、他の誰でもない、ヨハネに黙示録が与えられたことも象徴的です。このなかでヨハネは再臨するキリストの黙示をみています。

二人の弟子達の姿が書かれています。私たちは患難時代の中で、どちらの弟子になるかはわかりません。しかし、大事なことはその中でも、主に従うことです。この箇所で、ペテロに語られた主のことばに耳を止めてください。”こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。”
また、ヨハネが従っていたと書かれていることに目を止めてください。”ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来る(従ってくる)のを見た。”

この箇所にはこの2種類の弟子しか書かれていないように見えます。実際は患難時代にはもう1種類の弟子がいます。実はそのこともこの箇所に書かれているのです。あまりさりげないので、わからないのですが、しかし書かれています。この節を見て下さい。

”この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である”

この弟子とはヨハネのことです。ヨハネのことを書くなら、”晩餐のときイエスの胸によりかかっていた者”とか”イエスの愛された弟子”とでも書けばわかります。しかし、ここでわざわざ裏切る弟子について書いてあります。これは偶然ではなく、聖書を書かれた主が意図して入れた文です。

それは、主はここで、終末における3種類の弟子を全て示したかったからです。すなわち、患難時代を迎える主の弟子にとっては殉教か、それとも患難時代を生き残って再臨の主に会うか、そしてユダのように裏切る弟子という3つの可能性があるのです。

患難時代を経ない、その時は空中にいるという弟子は少なくともここには、出てきません。ですからこれは個人的な見解ですが、私は患難前けいきょ説とは人を惑わす教えではないかと思っています。

何故なら、ここに書かれている弟子の姿はみな患難時代を経由することを暗示する姿ばかりです。裏切り、殉教はもちろんですが、生き存えるとは患難時代を通過することを暗示するのです。

終末の預言者を非難していることばがエゼキエル書にあります。
” あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。”

これから始まる終末は長い間この世の敵と戦ってきた教会にとっては最後の戦いの時になります。

すでに戦いの前哨戦は始まっていると思えます。敵は多くの情報のかくらんを行っています。患難時代を教会が通過するのかしないのかという大事なことさえ、教会では、正しい情報は定かではありません。しかしこれは大事なことです。患難時代を教会が通過しない、すなわちその前に全教会がけいきょされるなら戦いの備えは不必要だからです。

もし、戦いが避けられないという情報が確かなら、誰でも無理をしてでも一生懸命準備をします。防空ごうをほったり、備蓄を用意したりするのです。しかし、戦いがないという意見や情報が確かな情報であり、皆そう信じこんでいるなら、誰がそんな面倒な準備をするでしょうか。誰も戦いの準備をしません。ですから、正しい知識を主から受けることはいかに大事なことでしょうか。

終末における主のみこころを行っていきましょう。

ー以上ー

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