通算No.52 神の知恵

テキスト: ルカ11:49
”だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。』”

本日は神の知恵という題でメッセージしたいと思います。この箇所で主は律法学者、パリサイ人達の罪について語っています。その中で、イエスは”神の知恵”ということばを使っています。この”神の知恵”とは具体的にはイエスのことです。何故なら他の福音書の平行記事では、この言葉とまったく同じ内容をイエスご自身が語っているからです。

ここで、疑問があります。何故主はご自分のことをここであえて、<神の知恵>と呼んだのでしょうか。このことばを特に使用したのは何か意味があるのでしょうか。このことばをどうとらえるべきでしょうか。その理由は、こうです。すなわち、聖書が神の知恵ということばを使って、特別に語ろうとしていることがらがあるからなのです。

この箇所に限らず、聖書をよく読む時、その中でたびたび”神の知恵”とか”知恵”ということばが使用されていることがわかります。これをもって何を語ろうとしているのでしょうか。それを考えてみたいと思うのです。

聖書の中で知恵ということばと関連づけられるのは、謎とかたとえということばです。
この”神の知恵”ということばが出てくる聖書の箇所をよく見るとき、一つの共通事項があることがわかります。それはすなわち、このことばが出てくる箇所は”神の知恵”を持たなければ理解できない難解な謎やたとえが含まれた聖書箇所が多いということです。すなわち、この”神の知恵”ということばはヒントなのです。このことばが出てくるとき、私たちはその聖書箇所をありのまま読んではいけない、その箇所に謎やたとえが使われていないか、気をつける、考える、そのために書かれているのです。

ですから、私たちは聖書のなかで、”神の知恵”ということばは一つのキーワードであることを知らなければなりません。何を示すキーワードでしょう。すなわち、このことばがあるところでは、必ずそのまま読むべきでない、逆にその箇所には神の知恵による解釈が必要である、それを示すキーワードなのです。

例えば、知恵の輪というおもちやがあります。これは鉄の輪を2つうまくからめたものです。簡単に解けそうですが、なかなか解けません。ひっぱっても解けません。色々考えたり、試行錯誤して、すなわち知恵を使って初めて正しく解けます。知恵の輪といわれるゆえんです。

同じようなことが神の知恵ということばにもいえます。”神の知恵”ということばとともに与えられる聖句やたとえや謎もこれと同じなのです。普通に考えてもこれらのたとえは解けません。神の知恵をいただいて謎やたとえを解いて初めてそのみことばの真の意図がみえてくるものなのです。

例をみてみましょう。

 ダニエル5:11”あなたの王国には、聖なる神の霊の宿るひとりの人がいます。あなたの父上の時代、彼のうちに、光と理解力と神々の知恵のような知恵のあることがわかりました。ネブカデネザル王、あなたの父上、王は、彼を呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長とされました。”

ダニエル書の中にはバビロンの知者、学者が集まっても解明することのできない難解な夢や啓示がでてきます。
ダニエルによりこれらの啓示は解き明かされました。しかし、全てが説き明かされたわけではないのです。彼が解きあかした夢に関してさらに説き明かし、解釈が必要なのです。金の像は地上の王国であることはわかった、しかし、この10の足に相当する国はどのような国なのか、これらのみことばに対してさらに説き明かしが必要なのです。

与えられた夢がネブカデネザル王が獣のようになり、7つの時を過ごす夢だということはわかった。しかし、更なる説き明かし、すなわち、その7つの時とは何をさすのか、それをさらに解きあかすことを神は語っておられるのです。

70週のこと、星の軍勢のこと、これらは語られ、預言されてはいます。しかしこれらについて、さらに説き明かしが必要なのです。その説き明かしが神の知恵によらない時、正しい解釈に至らない、そのことを語っているのです。

そして、これらを解き明かすには、神の知恵によらなければ正しい結論には至りません。この書ダニエルを読む時、もっとも大事なことは何か、それは神の知恵により説き明かし、解釈することなのです。それがこの書のなかで、度々”神の知恵”という言葉が使われている理由なのです。

すなわち、この”神の知恵”ということばを使うことにより神はそのこと、さらにたとえ、謎を解く必要があることを悟らせようとされているのです。

ですから、私たちはこのことばが出てくる時、それこそその箇所で神の知恵を求め、解き明かしを求めなければなりません。
 

創41:38、39
” そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」
パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて<知恵>のある者はほかにいない。”

ここでも知恵ということばが書かれています。”知恵”や”神の知恵”ということばは”謎”や”たとえ”と対比されます。何故なら、神が聖書の中に隠された”謎”や”たとえ”を解くためには、”神の知恵”が必要だからです。

この箇所でヨセフはパロ王の”牛と麦”の夢を見事に解きあかしました。すなわち、7年の豊作と7年のききんであることを示したのです。しかしこれで、全てが説き明かされたわけではないのです。まだ、私たちが”神の知恵”により、説き明かさなければいけない部分があります。それを暗示する意味で、”説き明かし”ということば、そして、”神の知恵”ということばが使用されていると思えます。

冒頭のテキストに戻ります。

ここでも主は”神の知恵”ということばを使われました。だから、それにより暗示していることがあります。すなわち、この箇所にはたとえや謎が使われているのです。それに注意して読まないと真意は読みとれないのです。

そのたとえとは何でしょう。ここの箇所は普通に読めばイエスの時代の律法学者やパリサイ人に対する預言のように読めます。もちろんそうである面もあります。しかし、それはあくまで一義的なことがらです。これはイエスの時代の律法学者やパリサイ人に語っているようですが、実際は彼等の全ての末、すなわち教会時代における後の律法学者やパリサイ人の立場の人々への預言なのです。そして、そのことを我々に悟らせるためにここに”神の知恵”ということばをこの箇所に挿入しているのです。これは聖書の用いる一つの書き方の方法です。

さて、他の例をみてみましょう。

エレミヤ書9:11、12
” わたしはエルサレムを石くれの山とし、ジャッカルの住みかとする。ユダの町々を荒れ果てさせ、住む者もなくする。
 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれか。主の御口が語られたことを告げ知らせることのできる者はだれか。どうしてこの国は滅びたのか。どうして荒野のように焼き払われて、通る人もないのか。”

エレミヤ書にはエルサレムや宮の崩壊のことが書かれています。文字どおりとれば、エルサレムはイスラエルの主都であり、宮はそこに建設されるユダヤ教の神殿です。終の日にこれらが敵の手により滅ぼされる、そのような預言ととれます。しかし、これはあくまで第一義的な解釈です。

ここでも知恵ということばが使用されていることに目を留めなければなりません。知恵は神のたとえを解くためであり、かくされた謎を開くためです。表面的に読んでわかることに知恵は必要ありません。

エルサレムも宮も教会をさし、これらの預言は教会の崩壊の預言です。しかしそれを悟るためには神の知恵が必要なのです。この預言はそのことを語っているのです。

”主の御口が語られたことを告げ知らせることのできる者はだれか”と書かれています。”できるものは誰か”と反語的に書かれているのは、正しく告げ知らせることのできる人が少ないからです。しかし、主のみこころは正しくこの預言を解釈し、主が語られた警告を正確にその民に告げ知らせることのできるしもべがおきることです。

さて。もう一つのことがあります。
聖書の中で神の知恵、知恵ということばが示されている時、必ずといっていいほどもう1種類の知恵、すなわち人間の知恵が記されていることです。真の神の知恵以外の知恵、人間的な知恵、この世の知恵、また器による知恵。これらの知恵が神の知恵と対象的に記されているのです。

すなわち以下のような知恵です;

ダニエル4:6ー8
”それで、私は命令を下し、バビロンの知者をことごとく私の前に連れて来させて、その夢の解き明かしをさせようとした。
 そこで、呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちが来たとき、私は彼らにその夢を告げたが、彼らはその解き明かしを私に知らせることができなかった。
 しかし最後に、ダニエルが私の前に来た。「「彼の名は私の神の名にちなんでベルテシャツァルと呼ばれ、彼には聖なる神の霊があった。「「私はその夢を彼に告げた。”

創41:8
” 朝になって、パロは心が騒ぐので、人をやってエジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。パロは彼らに夢のことを話したが、それをパロに解き明かすことのできる者はいなかった。”

エレミヤ14:14
”主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。”

このような人間的な知恵に惑わされず、正しく神の知恵を求めていくことが必要です。

これらの記述が語ることはこういうことです。正しい神からの知恵の周りには、多くのこの世の知恵、人間敵な知恵があるということです。私たちにとって必要なことはそれらの人間的な知恵に惑わされず、真に上からの知恵を求めることです。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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