通算No.51 書記のいつわりの筆

テキスト: エレミヤ8章8、9
”8 どうして、あなたがたは、『私たちは知恵ある者だ。私たちには主の律法がある。』と言えようか。確かにそうだが、書記たちの偽りの筆が、これを偽りにしてしまっている。
9 知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕えられる。見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう。”
 
日は”書記のいつわりの筆”という題でメッセージしたいと思います。

テキストはエレミヤ書からとりました。エレミヤ書にはエルサレムと宮の崩壊について書かれています。私はこれらの崩壊は終末における教会のさばきの予表ではないかと思っています。

そう思う一つの理由はダニエル書の中では70週の記述と関連してエレミヤ書のことが述べられているからです。述べられているということはこれらが関連していることを神が示しておられると思われます。ダニエルの70週の預言には、終末におけるエルサレムー教会の崩壊について記されています。だから、エレミヤ書に記されているエルサレムや宮の崩壊はすなわち、教会に関する預言をも含むと思われます。

さて、エルサレムが主のさばきに会う一つの理由が”書記たちの偽りの筆”です。この書記ということばはKJV訳等いくつかの英語訳では”律法学者”と訳されています。その場合、”律法学者の偽りの筆”ということになります。

現在でいえば聖書の注解者の筆のことです。神のことばには間違いはないのに律法学者の筆のため、神のことばが偽りにされてしまう、そのことをいっているのです。

このようなことはありえるでしょうか。ありえます。たとえばイエスは”たとえによらないで話されることはなかった。”と聖書に書いてあります。しかし、聖書の注解書は”誇張的表現である。”と解説します。このようにして”律法学者の偽りの筆”は神のことばを偽りにしています。

この箇所に限らず、聖書の中には聖書のみことばを扱う人々が犯す誤りについて度々言及されています。ですから、私たちは聖書以外の本や人にあたる時、常にこのことをふまえて吟味して教師や注解書にあたるべきと思われます。

みことばを見ていくとき、聖書のことばを扱う人々へのさばきはきびしいことがわかります。たとえばイエスはパリサイ人、律法学者へ蛇よ、まむしの末よときびしいことばで叱責しています。またヤコブ書をみる時、教師へのさばきはきびしく、火で焼かれるとまで書かれていることがわかります。

”神のことばを退ける”と書いてあります。”私たちには主の律法がある”という人々がどうして神のことばを退けることになるのか不思議ですが、現実にこのようなことはありえます。神のことばを尊重しているようだが、実は曲解し、退けている、このようなことが有り得るのです。

例として多くの聖書の注解者はイエスのたとえについていわれたことば、すすめをしりぞけ、たとえをしりぞけようとしています。また私的解釈ということばを用いて、他の解釈を認めようとしません。

”主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう”と書かれていますが、彼等の結果は、まさにそのとおりになります。終末のことばを正しくとらえることができなくなるのです。これは神の知恵がなければとけないからです。

たとえを使うな、私的解釈ー注解書以外の解釈をするな(原意はそのテキストのみから解釈するな、他のテキストも参照せよの意味)ということはまるで手や足をしばられるようなものです。その上で終末の預言を解釈するということは、まるで、手足をしばられたままで泳いでみろというようなものです。とても、まともには進めません。

”彼等に何の知恵があろう”と書かれているように、このような人々に終末の預言が解けないとしても驚くにはあたりません。

たとえをとく、謎をとく、隠れたことを見い出すということは神の教えであり、主から聖書の奥義を見い出すために我々に与えられた方法、アドバイスです。これらを彼等が退けたならどうして正しい結論に行き着くでしょうか。

学校でもよく先生が生徒にアドバイスをします。”この公式をよく覚えておいたほうがいいよ、この問題をよく解けるようにしておいた方がいいよ。”それを無視して結局試験で失敗したりします。

神のことばを偽りにしてきたか、また主のみことばを退けたかはその人が終末のみことばにあたる時わかります。

”知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕えられる”
これは、この世の知恵で聖書を解釈する人々の上に終末の日におきる運命を語っているのではないかと私は思っています。

終末の日は試みの日であり、テストの日です。今はどのように神のことばが曲げられ、偽りにされても誰も文句をいわない、神でさえ何もいわないように見えます。逆に今はそのような教師が多くのクリスチャンから賞賛を受けるかもしれません。しかし、終末の日にこれらの教師は彼等の”聖書理解”のむくいをうけます。”恥を見、驚きあわてて、捕えられる”のです。

この終末の日はたとえていえば卒業試験の日のようなものでしょうか。試験の前まではそれぞれ勝手なことをいえるのです。”俺は秀才だ、何でもわかっている。”しかし”彼等の知恵”はその日に試され、明らかにされるのです。終末の日が、彼等が人々に解き明かしたような形ではなく、思いもかけない形で彼等の上に臨む時、”知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕えられる”のです。

しかし、私たちにあっては、終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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