世の終りに関する多くの警告がマタイ24章には書かれています。その中にその日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女であると書いてあります。このことばをみていきたいと思います。
世の終りは大変な時代なので、確かに身重の女や、乳飲み子を持つ女は大変でしょうし、また悲惨だと思われます。しかし、何故ここには特別に身重の女と乳飲み子を持つ女のことだけが書かれているのでしょう。
例えば現在でも、大変な時代があります。戦争の時とか、地震の時とかです。そのような時、身重の女や、乳飲み子を持つ女は確かに苦労をします。自分だけでなく、子供の世話をしなければならないからです。または、身重だと、体に自由がきかないでしょう。敵が町に押し寄せてきても他の町へ逃げるのに遅くなったりするでしょう。しかし、他にも逃げるのが遅そうな人は色々います。老人で足が弱っている人はもっと遅いでしょう。小さな子供だってそうです。体が不自由で松葉杖をついている人とかもまだ遅いでしょう。いいえ、それどころか病人で寝たきりの人はどうでしょう。その人の方がもっと悲惨ではないでしょうか。
あるいは食料のことかもしれません。乳飲み子をもっていればよくたべなければならないからです。しかし、もっと食べる人、太った人は悲惨ではないのでしょうか。
しかし、聖書はことさらのように、終末における身重の女、乳飲み子を持つ女の悲惨さについて書き、そして他の人、すなわち老人や幼児、体の不自由な人、寝たきりの病人の悲惨さについては全く書いてないのです。
それで、この身重の女、乳飲み子を持つ女という表現には何か特別なことがあるのではないかと思われます。
私は他のマタイ24章のことばがそうであるように、これらの表現もたとえではないかと思っています。それで、そのたとえをといていきたいと思うのです。
身重の女、乳飲み子を持つ女の共通点は赤ちゃん(胎児)です。すなわち子供です。子供は当然、人間の親から肉体をもって生まれるのですが、聖書にはもう一つの親子関係が書かれています。
すなわち、パウロが”私は..あなたがたを生んだ”と書いた関係です。また、彼は他のところで、”キリストにある養育係が一万人あろうとも父は私一人である”とも書いています。
即ち、新しく救われた人は子供であり、救いに導いた人は父であり、母なのです。
また救われて間もない人は乳飲み子であり、まだ求道中の人は身重の女の胎児にあたるでしょう。
ペテロの以下のことばはこの乳飲み子について書いてあります。
Iペテロ2:2
”生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。”
この節には生まれたばかりの子、信者は乳飲み子であると書いてあります。そしてみことばの乳をしたい求めなさいと書いてあります。このことばに注目してください。”みことばの乳”ということばです。乳飲み子でもまた身重の女から生まれてくる赤ちゃんでも必ず必要なものは何か、それは乳であり、みことばです。
そして、患難時代とはそのみことばが得られなくなる時代なのです。このことこそ、”身重の女と乳飲み子を持つ女”ということばで主が表現しようとされたことなのです。
アモス書にはこの日についてこう書いてあります。
アモス8:11”見よ。その日が来る。「「神である主の御告げ。「「その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。”
みことばのききん、主のことばのききんの中では乳飲み子は成長しません。
これは私の想像ですが、その時には今の共産圏の国々のように、聖書の所持も印刷も禁止されるのではないでしょうか。ですから、私たちはこのみことば、”身重の女、乳飲み子を持つ女”ということばに隠された終末の状況、みことばのききんということを読みとらねばなりません。
そして末の日の備えをしていきましょう。
ー以上ー
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