通算No.25 家にはいらないことのたとえ

テキスト: マタイ 24:16、17
”そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。”

このマタイ24章でキリストは終末における多くの注意すべきことについて述べています。

そして、この節では、家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけないと書いてあります。しかし、これは文字通りとるとよくわからない表現です。文字どおりとるなら、家の屋上に上った人は決して降りてはいけないことになります。あがったままでもし下で赤ちゃんが泣いたらほおっておくのでしょうか。または病人がいたらどうするのでしょう。また、屋上にいたまま何をしていればよいのでしょう。そこで寝たり、食べたりするのでしょうか。うまく屋上にふとんがあればいいけれどそんな家ばかりではないでしょう。患難時代は3年半あるとのことですが、ずっとそうしているのでしょうか。

降りてはいけないということは、屋上に上ったきりでいろということでしょうか。いったんは下におりなければ、山にも逃げられないし、車や自転車に乗って逃げることもできません。屋上に上ったきりというのは、それはかえって不自由に思うのですがどうなのでしょう。

屋上にいる人だけが、特別な助けにあづかるのでしょうか。屋上まで上れない人、体の不自由な人は見捨てられてしまうのでしょうか。

また、家の中の物を持ち出すなというなら、もしかしたら、反キリストが家の中に入ってくることをいっているのかもしれません。しかし、反キリストは家の中の人は捕まえても、屋上の人は捕まえないというきまりでもあるのでしょうか。逆に屋上にいる人の方が道の遠くから見えて発見されやすいと思うのですが、どうなのでしょうか。

要するにこの節は文字どおりとると、よくわからないみことばなのです。
しかし、イエスはたとえで多くのことを語られたと書いてありますから、このみことばはたとえかもしれません。そのたとえを読みとっていきたいと思います。

この節に書かれている”家”とは何をたとえているのでしょう。Iテモ3:15”神の家とは生ける神の教会のことであり”とあるように、聖書的には”家”とは教会をさすことがあるのです。

この箇所のすぐ前のマタイ24:15には、こう書いてあります。
”それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)”

私はこの聖なる所とは教会のことだと思っています。教会は神への礼拝を捧げるところであり、これ以上聖なるところは地上にはありません。

『荒らす憎むべき者』とは、反キリストのことであり、彼は教会の中で、自分は神であると宣言します。

IIテサ2:4”彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。”

反キリストが教会の中で神と宣言する時、教会は教会ならぬものに変質します。それで、主はクリスチャンが家に、すなわち”教会”に戻らないように勧めているのです。”家の中の物を持ち出す”と書いてあります。もし、私たちがその時、教会で高い地位を得ていても、また教会から収入を得ていたとしても、また仲の良い人がいたとしても、それを取り出すために戻るなということです。

いわば、中国の地下教会の人々のようです。彼等は政府公認の公の”教会”とは距離をおいています。

黙示18:4にはこう書いてあります。”それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」”

この教会は神からさばきを受けるべき教会であり、我々はここから出ることを勧められているのです。

その次の節にはこう書いてあります。
マタイ24:18”畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。”
畑は種、みことばの種をまくところであり、宣教地でしょう。そこからも家、教会へは戻るなということです。

どこの国の牧師でもどの時代の牧師でも信者に教会に来ないように、また教会を出るようになどという牧師はいません。しかし、これは世の終の大変特殊な状況のできごとです。この時に”教会”にとどまることは、反キリストを拝することを意味し、また、場合によっては他の兄弟姉妹を裏切ることになるかもしれません。普通の時代とは違うのです。それで、これらのことは比喩で書かれているのです。

標題のテキストに関して、ルカ伝の平行記事をみてみましょう。
ルカ21:21
”そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。”

この箇所はマタイ伝のテキストととてもよく似た箇所です。しかし、マタイ伝では、”山へ逃げよ、家にはいるな”と書かれ、ルカ伝では”山へ逃げよ、都に入るな”と書かれています。家に入らないことと、都に入らないこととが、同じ位置関係で書かれていることがわかります。

これは同じ一つのことを別の表現で語っているのです。すなわち、家は教会をさしますが、都も教会をさすのです。

都はエルサレムのことであり、それは神の花嫁、教会をさします。

黙21:2
”私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。”とあるとおりです。

しかし、ここでいう都は新しいエルサレムではなく、変質してしまった教会です。私たちは終末の時、そこから出るようにすすめられているのです。

マタイ23:37、38にはこの都と家を同じものとみなした表現があります。”ああエルサレム、エルサレム預言者たちを殺し、自分につかわされた者を石で打つもの...みなさい、あなたがたの家はあれはてたまま残される。”

ここでは、都そして家(単数)が同格で語られています。そして、ここでいわれている”あなたがたの家”は単数になっています。エルサレムの都には多くの家があるはずですが、ひとつの家について書かれているのです。一つの都、エルサレムは霊的には教会をさし、一つの家も霊的には教会をさすのです。

教会には色々な面があり、それを聖書は呼び方を変えることにより表現しています。家とは教会が神の家族の集まりであることを表現します。家の中には父、母、子、兄弟、姉妹がいるように、神の教会にも父、母、子、兄弟、姉妹がいるのです。神殿は教会が神の住まわれるところ、礼拝があるところであることを表現しています。また、都、エルサレムは神の民、イスラエル人の首都であり、教会が神の領土の中心であることをさしています。

終末の時代にますます主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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