通算No.24 宮がくずされる日

テキスト:マタ24:1−3
イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

このマタイ24章には終末のことが記されています。またマルコ13章、ルカ21章にも平行記事があります。イエスはここで世の終末に起きるさまざまなできごとについて語っています。

終末についてイエスが語られた時、とても特徴的な方法でその話を始めたことに注目して下さい。マタイ、マルコ、ルカのどの記事においても、示し合わせたようにイエスの終末に関する話は宮がくずされる話題から始まっています。

イエスが”ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。”と宮の崩壊について述べます。それについて弟子が”お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう”とききます。その後、イエスが終末のしるしについて色々と述べます。このことに何かの意味があるのです。

終末とはどのような時なのでしょう。これらの記事が語っていることはこういうことです。終末とはまず第一義的に宮がくずされる日のことだと述べているのです。このことがある意味では終末の1番大きなできごとなのです。

このことに何か意味があるのです。”宮の石がくずされる”ということを通して聖書が何か語っていることがあるのです。

この意味をみていきたいと思います。
第沂`的に宮とはエルサレムのユダヤ教の神殿のことといえるでしょう。しかし、エルサレムには現在ユダヤ教の神殿はありません。代わりにイスラム教の寺院が建っています。この寺院の代わりに新しくユダヤ教の神殿が建設され、そしてさらにそれがくずされる日のことを言っているのかもしれません。事実そのようにこのみことばをとらえている人が多いようです。そうすると現在はまだ、ユダヤ教の神殿の影も形もないので、終末はまだまだ先のことと思ってよいのでしょうか。

確かにイスラム教の寺院のかわりにユダヤ教の神殿が建てられる日が来るかもしれません。しかし、イスラエルの神殿がくずれても直接的には日本のクリスチャンである我々にはあまり関係なさそうです。しかし、マコ13:37には”私があなたがたに話していることは、全ての人にいっているのです。目をさましていなさい。”と書かれています。そのことを思うと、このことが我々日本のクリスチャンにとって必ずしも関係しないとはいいきれないとも思えます。

宮に関してもう一つの意味、第2義的な意味があります。それは聖書がたとえの中でいっていることです。

第1義的なことについては多くの人が述べています。今日は第2義的な意味、たとえについて見ていきたいと思っています。

イエスは神殿に関してこのように述べました。

ルカ2:19ー21
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。人々の考えは神殿とは建設物のことです。しかしイエスの考えでは神殿とはイエスのからだのこをさすのです。さてもう一つのことを考えなくてはいけません。現在、イエスのからだとは何をさすのでしょう。新約聖書を読めばすぐわかるように現在のイエスキリストの体は教会をさすのです。

このことについて、別のみことばをみてみましょう。宮について他の聖書の箇所では何といっているでしょうか。次のようなみことばを見い出します。
エペソ2:20ー21
”あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり”

ここでも教会について述べています。聖書的に宮は教会をさすのです。そしてこのエペソ書のみことばはテキストのマタイ24章の聖句とぴったりと符合します。宮は多くの石が組み合わされてできています。そして、その宮は教会であり、それは使徒と預言者という土台の上に建てられた石の建物なのです。そしてその積まれた石が
崩される日が来ると主はいわれるのです。一つの石も他の石の上に残らない、すなわち徹底的に破壊される日がくるというのです。この日とは何でしょう。それは教会が崩壊する日です。

だから終末とはどのような日でしょう。第一義的にそれは教会が崩壊する日なのだと主はいわれているのです。

何故教会が崩壊するのでしょうか。そのような考えは聖書の教えと一致しているのでしょうか。それを見ていきたいと思います。

終末における教会のさばき、崩壊について確かに聖書は度々述べているのですが、それらはみな奥義、隠された教えのようにして書かれています。それで多くの人の耳にはあまりにもとっぴな考えのように聞こえます。

しかし大事なことは隠されたことであっても、たとえであっても正しく神が聖書でいわれたことをとらえることです。

IIテサ2:4
”彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。”

ここでも宮について書かれています。そして反キリストについても書かれています。反キリストがエルサレムの宮の中で君臨してもあまりこわくなさそうですが、しかしこの宮が教会をさすなら話は別です。反キリストが教会の中に座を設け、そして自分は神だというということになるからです。そして他の聖書の箇所を見る時、ここで書かれている宮は教会ととった方が正しそうです。

ダニエル書ではこう書かれています。
ニエル8:24
”彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行ない、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。”

聖徒の民が、この反キリストにより滅ぼされることが書いてあります。聖徒の民がクリスチャンをさすなら、そしてクリスチャンが反キリストにより滅ぼされるというなら、その時が宮ー教会が崩壊する時なのです。

ダニエル10:11ー12
”それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじり、軍勢の長にまでのし上がった。それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされる。軍勢は渡され、常供のささげ物に代えてそむきの罪がささげられた。その角は真理を地に投げ捨て、ほしいままにふるまって、それを成し遂げた。”

ここでは反キリストの力が強くなり、天の軍勢にまで達すると書いてあります。天の軍勢、星の軍勢とは何のことでしょう。これは天使の軍勢について書いてあるものでしょうか。

我々クリスチャンは霊的なイスラエル人ですが、イスラエルとは”神の兵士”という意味です。すなわち我々クリスチャンは軍勢なのです。またクリスチャンは霊的にアブラハムの子孫であり、アブラハムの子孫は”海辺の砂、空の星”のようなものです。だから”天の軍勢、星の軍勢”とはクリスチャンのことをたとえて書いてあることを読みとらねばなりません。地に落とすとはどういう意味でしょう。我々クリスチャンはこの世にありながら、霊的には天に座しているものです。エペソ書に”わたしたちを..天のところにすわらせて下さいました。”と書いてある通りです。地の人ーこの世の人とは違うのです。だから、天から地に落ちるとは信仰が覆えされてしまうことをいうのでしょう。

だから、ここにはこのような恐ろしいことがたとえを用いて書かれているのです。反キリストの力により教会、クリスチャンのグループのいくつかはその信仰をくつがえされてしまう。そのことを言っているのです。軍勢の長とは何でしょう。我々クリスチャンの長は一人しかいません。他でもない、主キリストです。キリストこそ我々神の兵士の長であり、司令官です。しかし、その時には教会の長は反キリストにより占められてしまいます。教会ではキリストの代わりに反キリストを拝するようになるのです。

また常供のささげものとは何でしょう。今の時代、キリスト教徒であろうと、ユダヤ教徒であろうと、牛や羊を殺して神に捧げている人はいません。ですから、これは何かをたとえた表現であることを知らなければなりません。
常供のささげものについて民数記にはこう書かれています。

民28:3
”彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭。”

この旧約時代に捧げられた雄の子羊には霊的な意味があります。その意味はロマ書の以下の記述をみるとき判明します。

ロマ12:1
”そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。”

ささげものとはすなわち私たちクリスチャンが神の前に自分自身のからだをささげることなのです。そしてそれは常供と書いてあるように毎日ささげられるべきものなのです。しかしその常供のささげものークリスチャンのキリストへの献身が取り除かれる時が来るというのです。

反キリストは”半週の間、いけにえとささげものをやめさせる”
ダニエル9:27 と書いてあります。3年半の間、キリストへの従いも検診も奉仕も禁止されるのです。

マタイ伝にはこの反キリストのことを以下のように書いています。

マタ24:15
”それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)”

何故、マタイはここでこの『荒らす憎むべき者』について書く時、わざわざ(読者はよく読み取るように。)などという注釈をつけたのでしょう。これは他の聖書の記事には見当たりません。だから、何か特別なことであることを知らなければなりません。

一つ言えることはこのことが終末のクリスチャンの生死にかかわる大事なことだからです。もう一ついえることは、この記述は読み間違えやすい、そのまま読んでも意味を正確にはとらえられない、たとえを用いた表現だからです。数学の試験などで、誰でもひっかかりやすい問題だと、つい先生は生徒にひとこと言うものです。(みんな、よく問題を読みとるようにしなさい。)

間違えやすい部分はどこか、マタイ伝で”聖なるところ”、ダニエル書で”神殿ー70人訳”と書かれた部分です。多くの人がこれらのことばを文字通り理解して間違えています。実際はこの神殿とはたとえであり、教会をさすのです。教会の中に『荒らす憎むべき者』が立つことについてこの聖句は述べているのです。

私たちはこの終末の時代、ますます主に仕えていきましょう。
 
 

ー以上ー

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