通算No.23 太陽と月のたとえ

テキスト: エレミヤ8:2
”それらを、彼らが愛し、仕え、従い、伺いを立て、拝んだ日や月や天の万象の前にさらす。それらは集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。”

旧約聖書の記述の中には、太陽や月や星、すなわち天の万象を拝する人々のことが度々出てきます。たとえば以下のような多くの似たような記述があります。

申命記4;19
”また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。”

II列21:3
”彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。”

II列21:5
”こうして、彼は、主の宮の二つの庭に、天の万象のために祭壇を築いた。”

”イエスはたとえによらないで話されることはなかった”と書いてあるように、聖書の多くの記事にはたとえが隠されています。もしこの月、日という表現に関して神がたとえている意味、隠された教えがあれとすればそれは何でしょう。それを見ていきたいと思うのです。

聖書のみことばを学ぶ時の原則はIIペテロの手紙にあるように、”私的解釈”すなわちそのテキストのみで判断しない、同じことばに関して、他のテキストで語っていることをも参照する、これが大原則です。何故なら聖書は霊感されたものである、すなわちどの書の著者も人間の著者は異なるようですが、実際は神ご自身なので、それらに書かれた一つ一つのことばを見ていく時、神が与えた隠された意味があり、各書のわくをこえた深い意味が隠されているからです。

まず、星ということばに関して聖書でどう述べているかを見ていきます。するとつぎのようなみことばを見いだします。創世記22:17”わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。”

これはアブラハムへの神のことばです。アブラハムは全てのイスラエル人の父祖であり、また全てのクリスチャンの信仰の父でもあります。

ここで、アブラハムの子孫は空の星のようであるといわれています。イスラエル人そしてクリスチャンは星のような存在なのです。

この世は霊的に暗いところですが、クリスチャンは暗い中に光を放つ星の存在として作られたのです。”あなたたちは世の光です”と書かれているとおりです。

さて、アブラハムの子孫であるクリスチャンは基本的に星ですが、なかには太陽、月といえるクリスチャンもいます。

1コリ15:41”太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。”と書かれている通りです。彼らは普通のクリスチャンよりも光の強い、いわば大きな器です。

星と太陽と月との間には本質的な違いがあるわけではありません。天体ということでは同じです。ただその大きさ、光が違うのです。同じようにこれらの人々の間にはクリスチャンとして基本的な部分に区別があるわけではありません。ただ、その光、働きがちがうのです。

創世記の初めにはこのようなクリスチャンに関して比喩的な記述が記されています。
創世記1:16ー18
”それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。”

この記述は天の万象に関して私たちに神が何かを悟らせようとして書かれたものであると私は思うのです。それにきづかなければなりません。

ここでは太陽と月について書かれていることは明白です。大きいほうの光る物は太陽であり、小さい方の光る物は月です。しかし、不思議なことにはこれらの節のどこにも太陽、月との文字は出てこないのです。ことさらのようにこれらの言葉は省かれています。逆に太陽に関しては”大きいほうの光る物”、月に関しては”小さいほうの光る物”と表現されています。

これらの記述のいわんとしていることはこういうことです。聖書的にいって太陽とは”大きいほうの光る物”であり、月とは”小さいほうの光る物”であるということ、これが聖書の太陽、月に関する定義だというのです。

別の言い方をすると、星といえば、クリスチャンの暗い世における世の光としての面をあらわすように、太陽、月に関してもこの世で光るということに聖書的な強調点があるということです。

また、”大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。”と書いてあります。すかさどるとは即ち、治めるということです。すなわち、彼等は神の民を治めているのです。

さて、冒頭のエレミヤ書のみことばに戻ります。ここで、聖書は”日や月や天の万象”に”愛し、仕え、従い、伺いを立て”る罪について語っています。これがクリスチャンに対する警告だとしても、キリストの教会に通いながら、なおかつ空を巡る太陽や月を拝み、仕えるクリスチャンがいるとは思えません。もし、いるとしても例外的に少ない人でしょう。

また私たちの気がふれて、天空の太陽に仕えたいと仮に思ったとしても、遠い太陽の声も聞こえないので、”仕え、従い、伺いを立て”ることは実質的に無理なことであり、この罪は現在の私たちが警戒をすべき罪とも思えません。

しかし、このことばは文字どおりとるべきというより比喩的にとるべきことばと思われます。比喩的にとり、いわゆる”器崇拝”に関する罪について語っているととるなら、はっきりとその意味すること、警告の内容がわかってきます。

たしかに私たちクリスチャンは、信仰の歩みにおいて目に見えない神に聞くより見える器を”愛し、仕え、従い、伺いを立て”やすいのです。そして、それは偶像崇拝につながる大きな罪となることをはっきり認識しなければなりません。

申命記4;19
”また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。”

神の器は神により全天下の神の民、各教会に与えられたものです。私たちはその器を通して神のいけるみことばを知ります。また、その聖さ、高潔さに魅せられるかもしれません。しかし、神を拝むこととそれらの器を拝み、つかえることとは異なるのです。それをはっきりさせない時、私たちは別の誤った道にはいります。

II列21:5
”こうして、彼は、主の宮の二つの庭に、天の万象のために祭壇を築いた。”

主の宮は神を拝む所です。その二つの庭は宮に近い所です。ですから、私たちは神を真に礼拝することと、器を拝し、仕えることとは非常に近い位置にあること、ともすれば混同しやすいことを知らなければなりません。
 

この器を拝さないという原則は新約聖書の中にもはっきりあらわれています。イエスが地上の誰をも先生、主、父と呼ぶなといわれた時、このことをさしています。また使徒であるペテロもパウロも自分達が拝まれそうになった時、それをやめさせています。

ぜひ私たちはこの面においても正しい道を歩みたいと思います。

ー以上ー

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