通算 No.22 たとえによる弟子と群衆の区分

テキスト: マタイ13:14”わたしが彼等にたとえで話すのは、彼等は見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。”

この箇所はJ.N.Derbyの訳ではこのようになっています。(原文は英語)”私はこの理由のために彼等にたとえで話します。見るには見るが見ず、そして聞きながらも聞かず、また理解しないためである。”

この聖句の中でいわれていることは”たとえ”の意義もしくは目的です。

イエスは何故、人々にたとえで語られ、また神は何故聖書の中にたとえを置かれたのでしょう。何故聖書はたとえで充ちているのでしょう。その理由は何でしょうか。

ある人達は聖書の真理をわかりやすくするために神がたとえを使うと思っています。しかし、少なくともこのみことばはそうは語っていません。

そうではなくて、神は彼等ー群衆が神の真理、奥義を理解することができなくなるために、その理由のために、たとえを語るというのです。別のいいかたをすると、神はみことばを聞く民に2つの区分をもうけるといわれているのです。すなわち群衆は見ても見ず、聞いても聞こえないように、そして弟子にはみくにの奥義を理解するようにさせるといわれるのです。そしてその区分は”たとえ”によりなされるのです。

同じ聖書を持っている、同じイエスのみことばを聞くという点では弟子も群衆も同じなのです。しかし、弟子にはみくにの奥義を知ることが許され、群衆には許されていません。両者とも同じ聖書を読んでいるのにどうやってその区分をすることができるのでしょう。その区分はたとえによりなされると神はいわれるのです。

ですから、この聖書の箇所からいくつかのことがわかります。ひとつは神は必ずしも全ての人にみくにの奥義、聖書に書かれている奥義を説き明かすつもりはないということです。

すなわち神は弟子でない者、すなわち群衆が聖書を読むとき、彼等が”見ても見ず、聞いてはいるが聞こえない”状態にするといわれているのです。そして、それはたとえを通してなされるのです。
 

たとえの不思議なところは、誰でも平等に聖書のことばにふれている、しかも区分があるということです。

2番目に”たとえ”とはこのように人々を区分するために設けられたものなので、これは基本的には難しいものなのです。理解できず、理解したと思っても間違えやすいものなのです。一見やさしいように見えるたとえもありますが、実際は誤りやすいものなのです。

主の知恵と助けの中で初めて正しく理解できるものなのです。それがない時には逆にたとえにより正しい理解からよりわけられてしまうことが多いのです。

例えば黙示録には多くのたとえが使われています。7つの頭と10の角を持つ獣とか、いん婦バビロンとか。これらはみな実在するものでなく他の何かをたとえているのです。

しかし、とても難解なのです。多くの黙示録の解説書を読んでもその解釈はまちまちです。この書はたとえで書かれているのです。そして、主のみこころはこの書のことばを万人に開くことではなく、主の弟子に開くことです。

再臨の前に黙視録のあらゆるたとえ、啓示が全てのクリスチャンに開かれるということはありません。反対に一部の弟子には開かれるでしょうが、それ以外の人々には最後まで正しく理解できないでしょう。何故ならこれは、”たとえ”だからです。

再臨の時は、イエスの初降臨の時と同じ状況になるかもしれません。イスラエルの人々、特に律法学者、パリサイ人達には多くの聖書の学びがあり、知識があったにもかかわらず、聖書に何度も記述されているメシヤに関する預言、たとえを正しくとらえきれず、受け入れることができませんでした。イエスの生涯において成就した、旧約聖書に記されている預言は300以上あるということですが、彼等はそれらを理解しなかったのです。まさに彼等の目は”見るには見るが見”えなかったのです。

何が悪かったのでしょう。彼等の聖書の学び方が悪かったのでしょうか。そうではありません。ただ一つの理由があります。彼等がキリストの弟子ではなかったからです。それで聖書のたとえを理解することができなかったのです。まさにたとえにより区分されてしまったのです。

繰り返すようですが、たとえは、話をわかりやすくするために用いられているのではありません。逆に人々を区分するために用いられるのです。そして、それは黙視録のたとえにおいても同じです。

聖書はこのようにはっきりたとえを理解することの重要性を述べているのに多くの人々はそれを認めようとしません。律法学者、パリサイ人は聖書の学びには熱心だったが、彼等はキリストの弟子ではなくまたたとえの理解もしませんでした。いざキリストがイスラエルの国に来た時、彼等の今までの聖書の学びは何の役にも立たなかったのです。メシヤを正しく受けることができず、自分の身を滅ぼしてしまいました。このようにはっきりした警告があるのですから、今の時代の私たちはたとえを通して主が語っている奥義を理解していくことは大事です。

たとえが弟子と群衆を区分している箇所はいくつも聖書の中に見い出せます。たとえば、キリストの弟子の中でも、パウロは聖書のたとえを理解することにおいて、すぐれた人でした。彼の書簡を読むとき、聖書のたとえをどのように理解すればよいかわかります。

そのパウロはユダヤから下って来た人達とアンテオケの教会において論争をしました。いわゆる”信仰による義か律法による義か”という論争です。(使徒15章、カラテヤ書)パウロもこのユダヤ人達もどちらも同じ聖書を読んでいました。しかし、両者共全く正反対の主張をしているわけです。その差は何か。それが、聖書のたとえを理解する人とそうでない人との違いなのです。

興味深いことにはこれらの”律法による義”を主張するユダヤ人達に対して聖書は”弟子”ということばを使っていないのです。彼等はわざわざエルサレムからアンテオケの教会にくるくらいですから、熱心なクリスチャンだったことでしょう。しかし、彼等は弟子ではなく、従ってたとえの外にいる人達だったのです。

彼等のモーセの割礼を守るべきである、律法を守るべきである、という主張に対して、パウロは聖書のたとえを理解した上で反論、また説明しています。(ガラテヤ書参照)例えば、アブラハムの2人の子を通して語っている聖書のたとえを読み取っています。すなわち自由の子ーキリストにある自由、奴隷の子ー律法の下にある奴隷状態、という聖書に隠されたたとえを読み取っているのです。

一つ気をつけなければいけないことは、弟子にははみくにの奥義を理解すること、真理を知ることが許されています。しかし、だからといって全ての弟子がそのままで、みくにの奥義を理解できるというわけではないことです。そこには訓練が必要なのです。

イエスは弟子達が子供にひきつけを起こす霊を追い出せなかった時、叱責されました。彼等には悪霊を追い出す権威は授けられていました。しかし、弟子達に信仰、祈りと断食がない時、この権威はうまく機能しません。かれらの訓練は不十分だったのです。それで主は弟子を叱責されたのです。

同じ意味合いで、たとえの理解にも訓練が必要です。そしてそれが主の弟子として、不十分なものである時、主は叱責されるのです。”そんなことでどうしてたとえの理解ができるでしょう。”

だから、私たちは同じようにたとえを理解する訓練を続けることが大事なのです。

イエスの時代、たとえにより弟子と群衆は区別されました。これは今も同じです。聖書の中には多くのたとえが隠されていますが、しかしこれは真にイエスの弟子としてたとえの訓練を受けた弟子に開かれ、そうでない人には”聞くには聞くがさとらない”ということになるのです。
 

主のみこころの中でたとえの理解を進めていきたいと思います。

ー以上ー

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