通算No.21 たねまきのたとえ

テキスト:マルコ4:1ー13

この箇所から聖書が語るたとえに関する教えを受けて行きましょう。このたねまきのたとえの中に聖書に出てくるたとえに関して学びがあります。すなわち、主がたとえに関してどのような意図をもっておられるのかわかるのです。

群衆はみな岸辺の陸地にいた。イエスはたとえによって多くのことを教えられた。”
まずこの箇所からわかることはイエスの多くの教えはたとえにより語られたということです。この時代、イエスは弟子にも群衆にもたとえで話されました。イエスがたとえにより人々に語ったことをさすみ言葉は多いのです。例えば、”イエスはこのように多くのたとえで、彼等の聞く力に応じてみことばを話された。たとえによらないで話されることはなかった。”マコ4:33、34

イエスがこの当時の群衆にたとえにより、語ったことはわかります。しかし、このことは今の私たちにどういう関係があるのでしょう。これらのことばは今の我々に何を語りかけてくるのでしょう。これらのことを見ていきましょう。

まず初めにこの種まきのたとえが語られたシーンを思い浮かべて下さい。
岸辺にすわる”おびただしい数の群衆”、そしてわずかな数の弟子たち。イエスは”たとえによらないで話されることはなかった”という以上、この光景も一つのたとえであると思って良いのではないでしょうか。これらの光景がたとえなら、それを通して今の私たちに対して、何を語っているのでしょうか。

群衆:
まず群衆について考えてみましょう。群衆と対比される言葉は弟子です。
そして、群衆はイエスの話を喜んで聞く人たちです。またイエスの助けを受け、イエスを信じている人たちです。またイエスによりいやされます。だから群衆は今でいえばいわゆる一般の信者のことと思われます。

イエスのことば:
主はこの時、群衆に語りました。主は今でも群衆に語ります。今、主はどのように私たちに語るでしょう。もちろん人の言葉や環境を通したり色々な種類の語りかけを通して語るでしょう。しかし、基本的に今の時代のイエスの言葉は聖書を通して来るといえるでしょう。

たとえ:
さて、イエスはたとえにより話されたと度々書いてあります。それでは、これは今の私たちに何を語りかけてくるのでしょう。これはこういうことでしょう。今の時代に我々に語られるイエスのことば、すなわち聖書のことばはたとえに満ちている、多くのたとえが使われているということでしょう。聖書はたとえに満ちた書です。私たちが思う以上に多くのたとえに満ちた書です。

例題:
私にはこの種まきのたとえは他の多くのたとえを解くために、主が示してくれた例題ではないかと思えます。すなわち、主は例題として一つのたとえを語られたのです。そして、その例解、正しい答えを示すのです。実際、主は種まきのたとえを語り、その説き明かしを語っています。

私達はこのたとえの説き明かしにより、聖書的なたとえの解き明かしのパターンを身につけます。種は聖書的にみことばをさすこと、鳥は悪いものをさすことも知ります。麦は各信者をさすことも知ります。主のみこころはこれらのパターン、方法に基づいて他の聖書の多くのことば、たとえを弟子達が自分で理解することです。

まちがったことをいうな、聖書を勝手に理解すれば、誤りにはいるぞという意見もあるかもしれません。しかし、考えて見て下さい。もし弟子達が”勝手に”聖書のたとえを解釈するのが、主のみこころでないなら、イエスは”あなたたちは、私のいうことを聞くことのみでとどまりなさい。誤った教えに入らないために自重しなさい。”とでもいわれたはずです。

しかし、実際はどうでしょう。主がいわれたのは、”このたとえがわからないのですか。そんなことで一体どうしてたとえの理解ができましょう。”とのことばです。

このことばはたとえの理解が進んでいない弟子達を叱責することばであり、主が彼等のたとえの理解がすすむことを望んでいることを示すことばです。

”あなたがたには天国の奥義を知ることが許されているが、彼等には許されていません。”マタイ13:
11
ここで、はっきりと群衆には天国の奥義を知ることが許されていないと書いてあります。まず、一ついえることは、聖書の中には”奥義”と言われる種類の真理があることです。奥義とは原語で”隠れたこと”という意味です。例えば、パウロはエペソ書の中で、”男と女”を通して語っている神の奥義について語っています。これは実はキリストと教会をさす、隠れた真理だというのです。

聖書には特別隠されてはいない真理があります。神はお一人だとか、キリストは再臨するという種類の真理です。しかし、それとともに、隠された真理、奥義と呼ばれる種類の真理があります。それらの奥義はもう全て明らかになって、何も今では隠されていないとは聖書は述べていません。逆に今でも隠されていると聖書は語っているのです。

奥義なんて知らなくてもちゃんと信仰していればいいんだという考え方もあります。しかし、そうでもありません。律法学者やパリサイ人は熱心に聖書を読みながら、”苦難のしもべとしてくるキリスト”の奥義を知らず、自分の身にさばきを招いてしまいました。同じことが今の時代におこるかどうかは知りませんが、神が奥義を開こうとしておられるなら、それを受けていきたいものです。

この奥義をみこころの人に開くのが神の願いです。しかし、神はこの奥義を群衆には開こうと思ってはいないのです。普通の真理、開かれた真理は群衆にも語られるでしょうが、奥義は隠されているのです。神はそのように定めたのです。

この聖書の箇所に出てくる群衆は”種まきのたとえ”をイエスから聞きましたがそれを理解することができません。たとえに出てくる種が何をさすのか、また鳥が何をさすのかわかりません。色々想像するかもしれません。種は”人類”のことではないか。鳥に食べられるとは戦争で死ぬことではないのかとか。しかし、正しく奥義を理解するには至りません。群衆にはみくにの奥義を知ることが許されていないので、たとえを理解することができないのです。彼等がどんなに熱心に聞いたとしても彼等はたとえの理解からは遠く離れているのです。

群衆はみくにの奥義を知ることが許されていないのです。これはイエスの時代、真実でした。そして実は今でも真実なのです。今でも多くの群衆はたとえの理解、聖書の奥義からは遠く離れているのです。

今、群衆は聖書を読みます。そしてそこに書かれている、旧新訳の聖書のことばを聞きます。そこには多くの記事が書かれています。アダム、アブラハム、ダビデ。そこには多くのたとえが隠されているのですが、群衆はそれを理解せず、たとえがそこにあることも理解しないのです。彼等はただたとえの外側を聞くだけにすぎないのです。例外的に新訳聖書で解かれている記事、例えば”アダムは多くの人を義とするキリストの型”だというようなことはわかるでしょうが、それ以外のことには全く目が開かれないのです。

もう一つわかることは、弟子も群衆もイエスから同じたとえを聞くということです。その点では弟子と群衆は平等です。そしてたとえを聞いた時点では弟子も群衆もどちらもたとえを理解することができないのです。

”おびただしい数の群衆”(a great multitude)と書いてあります。だから、たとえを理解しない人が圧倒的に多いことがわかります。マタイ、ルカにも平行記事がありますが、そこでも同じ表現を用いて群衆の数が多いことを記しています。ここで聖書は対象的な光景、シーンを私たちに見せようとしています。それはこの多くの群衆と限られた数の弟子達との対比を見せることにより、たとえしか聞けない、その理解をすることのできない人達の数がいかに多いかを語っているのです。すなわち、今の時代でも聖書を読んでもたとえを理解せず、そこにたとえにより隠されている奥義を理解しない人の数の方が圧倒的に多いのです。

一方弟子たちは群衆と違う立場にいます。彼等はみくにの奥義を知ることが許されています。つまり、権利があるのです。彼等もたとえを自分ではわからないのです。しかし主にきくのです。そして正しい理解を受けていきます。

たとえはどうすれば理解できるでしょう。そのためには、まず弟子であることが大事です。そしてもう一つのことを聖書は書いています。イエスにきくことです。よく注意して聖書を見て下さい。この種まきのたとえにしても、また他の福音書のたとえでも、弟子達がイエスにきいた時、主はその説き明かしを弟子にしています。

”いつもつき従っている人たちが、12弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた”マコ4:10 ”すると弟子たちがみもとに来て「畑の毒麦のたとえを説明して下さい」といった。”
マタ13:36

うらがえせば、もしこの時、弟子たちがイエスに種まきのたとえをたずねなかったら、今でもこのたとえはかれらに開かれなかった可能性があるのです。弟子がきく時、主が解き明かす、これが聖書の原則なのです。そしてそれは今もそうなのです。主にきく人はたとえを理解することができるのです。だから、たとえを理解できない弟子は主にきいていないのです。またはイエスのみにきいていないのです。他の声に耳を傾けているのです。

聖書の正しい理解のために、多くの教師がおり、多くの参考書があります。もちろん、これらも有益でしょう。しかし、聖書的にはイエスにきくということ、これがもっとも正しいたとえを理解する方法なのです。私たちは聖書の理解、たとえの理解に関しても主が教えて下さるという信仰を持たなければなりません。何故なら聖書ははっきりと”イエスは弟子達にたとえを解きあかした”と書いてあるからです。逆にいうとそれ以外の方法でたとえの理解を求めていく人は間違った解釈に至る可能性があるのです。

福音書に書いてあるように、イエスがいやしぬしであるということ、悪霊からの解放者であるということは今も真実です。同じように、福音書の時代、イエスが弟子達にたとえを解きあかしたように、今もたとえはイエスにきく人にのみ解き明かされるのです。

弟子であるからといって全ての人にいやしや預言のたまものが何もせず現われるわけではありません。求める人にあらわれるのです。同じようにたとえの理解も求める人、主にきく人に開かれるのです。

繰り返すようですが、聖書的にはたとえを理解しない人の数の方が圧倒的に多いのです。だから、今の時代、多くの人がたとえについて何もいわない、またわからないとしても驚くにはあたりません。

しかし、多くの人がいわないからといって、たとえを理解することが、またそれを勧めることが信仰的に逸脱しているわけではないのです。ただ、たとえを理解する人が少ないのです。

逆にたとえを理解しない人の数がキリスト教会においても圧倒的な多数なので、たとえを理解しないこと、強調しないことが正当的な考えだと思われているのにすぎません。しかし、聖書の世界に多数決の原理はないのです。今は群衆の時代でしょうか。聖書の解釈においても群衆の論理が優先されているように思われます。

しかし、私たちは群衆の常識に従うように召されているのでなく、主のみこころを行うよう召されているのです。

主のみこころはたとえの理解であり、(聖書の)全てのたとえの理解です。”そんなことで一体どうして(全ての)たとえの理解ができましょう”と書かれている通りです。

そもそも神御自身がたとえを全ての人に理解させようと思われていないのです。主に従う他の道でもそうであるように、この道においても主は真に求める人にのみ、奥義を開こうと思っておられます。そうでない人に無理に開こうとは思っていないのです。

主にあってたとえの理解をしていきたいと思います。

ー以上ー  moku.html