通算 No.19 岩の上に建てられた家

テキスト:マタイ7:24ー27 
”だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比
べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませ
んでした。岩の上に建てられていたからです。またわたしのこれらのことばを聞いてもそれを行わない者
はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が
吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。”

このたとえは私たちにみことばを行うことについて語っています。そして一目瞭然、わかりやすいたとえ
話になっています。みことばを行う人の家は洪水のあとでも残り、反対に行わない人の家は洪水の時、ひ
どく倒れてしまうのです。

単純でわかりやすいたとえ話ですが、実はこのたとえの中にはもう一面、主が語っていることがありま
す。”イエス多くのたとえで彼等の聞く力に応じてみことばを話された”と書かれてあるように、人によ
りたとえを聞きとる力は異なります。しかし、もし私たちが弟子として聞くちからを強めていく時、たと
えの深い面が開かれてきます。

このたとえの中で、主がさらに弟子達に語っていることがあるとしたらそれは何でしょう。それを見てい
きたいとおもうのです。まずここで書かれていることばの中で、家という言葉に注目します。家というこ
とばが聖書の中でどのように使われているのかを見ていきます。

IIペテロ1:20のみ言葉には、私的解釈、すなわち、そのテキストからのみの解釈をしてはいけな
い、他のテキストも参照することをすすめているので、この”家”についての他の聖句をみていきます。
他の聖句はこのようになっています。

”神の家とはいける教会のことであり。Iテモテ3:15”
他にも教会を神の家としてとらえたみことばは数多くあります。”みなさい私(キリスト)の母、私の兄
弟たちです.マタ12:49””家長(キリスト)をベルゼブルと呼ぶくらいですから マタイ10:2
5”教会は神の家なので、私たちは兄弟、姉妹なのです。そして、キリストは家長ー家の長なのです。聖
書の表現の一つの特徴として家という表現で教会をさすことが多いことがわかります。

さて、ここで2種類の家があるわけです。家自体には違いがないようですが、しかしそれぞれの土台が異
なります。片方は岩を土台としており、雨がきて、風が吹き付けても倒れなかったのです。しかしもう一
つの家は砂を土台としており、雨が降り、風が吹き付けた時、倒れてしまった。しかもひどい倒れかただ
ったというのです。

ひどい倒れかたとは、教会が困難の中で全く崩壊してしまったとでもいうのでしょうか。どちらにして
も、この2つの家ーおそらく教会をさすーの異なるところは土台であり、土台にこそ問題の核心があるこ
とがわかります。

さて、この土台の一つは岩であり、もう一つは砂です。砂は雨で崩れ、岩は崩れない、あまりにもあたり
まえなので、それ以上考える必要もないようですが、”(イエスは)たとえによらないで話されることは
なかった”とあるので、これらのことばにもたとえがあるかどうかさぐってみるのです。それが弟子とし
ての態度ではないかと私は思っているのです。

たとえに関して難しいのは、聖句のうち、どこまでが神のたとえなのかがわからないことです。しかし、
かといってさぐること、求めないことがよいともいえません。何故なら主は私達がたとえを理解しないこ
とを叱責されるからです。弟子たちを通して、聖書の多くのたとえが理解されていくことに主の大きなみ
こころがあります。

さて、岩とは何か、砂とは何をさしているのかをみていきます。

ます砂に関して、他のみことばを見ていきます。するとこのことばを見い出します。
”あなたの子孫を空の星、海の砂のように多く増し加えよう。 創22:17”
アブラハムの子孫はイスラエル民族です。またロマ書をみる時、クリスチャンも霊的にはアブラハムの子
孫であることを知ります。聖書はアブラハムの子孫、今でいえば、クリスチャンを一般的に”砂”と表現
しています。これが基本であり、普通のクリスチャンは砂なのです。しかし、それにとどまらず、岩と表
現されるクリスチャン達がいます。キリストに”あなたはペテロです。私はこの岩(ギリシャ語でpet
ra)の上に私の教会を建てます。マタ16:18”といわれたペテロが代表格です。

このペテロへのみことばと”岩の上に建てられた家”のたとえとの類似性に注目して下さい。たとえの中
では岩(petra)の上に家(教会)を建てるといい、ペテロとの会話でもキリストは”この岩(pe
tra)の上に私の教会を建てます”といわれているのです。

この岩ということばで、主はどのような種類のクリスチャンを指したのでしょうか。これを理解する助け
になるのは”あなた方は使徒と預言者という土台の上に建てらられており、キリストご自身がその礎石で
す。Iペテロ2:
20”とのことばです。ペテロは岩であり、教会ー神の家の土台であり、使徒や預言者も教会の土台で
す。”妨げの岩、つまづきの石”これらの人々に共通していることは何でしょうか。それは神の勇士、す
なわち弟子だということです。

聖書は全てのアブラハムの子孫、またクリスチャンを砂であると表現しています。その中で特に弟子は
岩、石であると表現しているのです。福音書をみてもキリストを信じる人達に2種類の区分があることが
わかります。すなわち、弟子と群衆です。

石、岩と砂との違いは何でしょう。一つはっきりしていることは、岩も砂もその成分は同じものだという
ことです。
岩や石が川を流れ、砕かれて砂となるのです。その成分、生まれは同じです。同じように主の弟子も群衆
もクリスチャンである、救われているという基本的な部分では同じです。しかし、主の前にその従いにお
いてはっきりとした区別があります。

砂は群衆を、そして岩や石は弟子をさすのだというととっぴなことをいうように思う方もいるかもしれま
せん。しかし、問題は実際神がどのように聖書を書かれ、意図されているかということです。私たちが聖
書をとびこえて神が言っていないことまで主張するのはまちがいです。しかし、主が明確にたとえの中で
語っているのに、それを聞きとれないということも、”見るには見るが理解せず、聞くには聞くが悟ら
ず”と主に叱責されてしまうのです。

岩、砂というたとえに含まれた聖書の教えをうらずけるものとして、バプテスマのヨハネの”この石ころ
からでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。”ということばがあります。石からアブ
ラハムの子孫ー砂ーが生みだされるのは自然です。同じように石(弟子)からクリスチャンが生みだされ
るのも自然なのです。

とても面白いのは聖書は砂という表現だけでなく”星”というアブラハムの子孫をさす表現に関しても同
じ様な区分を設けていることです。すなわち、このように書かれています。Iコリ15:41”太陽の栄
光があり、月の栄光があり、星の栄光があります。個々の星煮よって栄光が違います。”

アブラハムの霊的な子孫ークリスチャンは星であり、この暗い世の中にキリストの光を照らすように召さ
れているものです。しかし、その中にも違いがあり、ある人達は月や太陽のように星よりも大きな光を放
ちます。太陽、月と星はその光や大きさ(みかけの)はまったく異なるようですが、しかし本質的な部分
では同じです。みな天体だからです。それは岩と砂が本質的には同じものであることと似ています。

さて、長々と説明してきたようですが、初めのたとえ、”岩の上に建てられた家”のたとえに戻ります。

この2つの家の違いは土台の違いです。その土台が岩か、砂かで家が崩れてしまうか、しまわないか結果
が異なります。

そして、この土台の違いが明白な結果の違いを生みだしました。それは砂ー群衆を土台にした教会か、そ
れとも岩ー弟子を土台とした教会かの違いです。このたとえは”みことばを行う”ことについて書かれて
いますから、言い替えると弟子としての聞き従いの土台に建った教会とそうでない教会の違いともいえる
でしょうか。

普通の時にはこの二つの教会の違いはわかりません。たとえ土台が砂でも岩でも平時には区別がないので
す。
平和なときは2つの家は同じように安泰して建っているように見えます。しかし、雨や風が吹くときその
実態がはっきり区別されてしまいます。

この雨や風が吹くという表現はエゼキエル書13章の表現に似ています。
エゼキエル13:13、14”それゆえ神である主はこうおおせられる。私は憤って、激しい風を吹き付
け、怒って大雨を降りそそがせ、いきどおってひょうを降らせてこわしてしまう。あなたがたがしっくい
を上ぬりした壁を私がうちこわし、地に倒してしまうので、その土台までもあばかれてしまう。それが倒
れおちて、あなた方がその中で滅びる時、あなた方は私が主であることを知ろう。”
 

このエゼキエル書の箇所は前後を見ると主の日、終末の試みについて書かれていることがわかります。そして、マタイ伝の”岩の上に建てられた家”の上に下る雨、風、洪水といった表現とよく似ています。で
すから、私はこのたとえも終末の困難をさしているのではないかと思っています。

またたとえの中に”賢い人””おろかな人”という対象的な表現が用いられています。これは”賢い花
嫁””おろかな花嫁”のたとえで用いられている表現と同じです。後者はやはり終末のたとえです。です
から、この意味からもこの”岩の上に建てられた家”のたとえは終末への警告ととるべきではないかと思
われます。

終末の患難に耐える教会とはどのような教会かーそれは弟子を教会の土台とし、弟子の聞き従いをしてい
る教会なのです。そのようにこのたとえは語っています。

この終の時代にますます弟子として主に聞くあゆみをしていきたいと思います。

ー以上ー  目次へ戻る moku.html