通算 No.16 教えのわなを外す


テキスト:

エゼキエル13:4〜5
”イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃虚にいる狐 のようだ。あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせ ず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。”

エゼキエル13:17〜18
”人の子よ。自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに、あなたの顔を向 け、彼らに預言して、言え。神である主はこう仰せられる。みなの手首に呪法の ひもを縫い合わせ、あらゆる高さの頭に合うようにベールを作って、人々をわな にかける女たちにわざわいが来る。あなたがたはわたしの民である人々をわなに かけて、自分たちのために人々を生かしているのだ。”


終末の教師への警告

 主の日と書いてあるので、これは終末に臨んでいる今の時代に関する預言 です。この主の日を前にした預言者達はなすべき働きをなしていない、その結 果、教会は終末に備えて当然なすべき備えができないということを、警告、預言 しているのです。ここに預言者ということばが使われています。”全ての預言者 が預言したのはバプテスマのヨハネの時まで”と書いてあるように、旧約聖書で いう意味の預言者はバプテスマのヨハネの時で終わっています。また、-ノペテロ 2章のみことばを読む時、聖書の中の旧約の預言者は新約の教師になぞらえられ ているように見えます。それで私はこれらのみことばは終末における教師−みこ とばを教え、語るものへの警告、預言ととります。

 さて、もう一つの預言は同じく終末の預言者−教師への預言で す。この女−預言者は、どの人の高さの頭にもあうようなベールを作り、わなに かけると書いています。これが教師への預言なら、みことばの教えに関する警告 でしょう。間違った教えをわなのように、人々にかけるはたらき人が出ると警告 しているのです。

教えのわな

 そのようなわけで終末の時代に生きる私たちは間違った教えのわ なにかからないようにしなければなりません。

ローマ・カソリック教会のばあい

 今の教会の状態、たとえばローマ・カソリック教会を見る時、こ こには多くの敵のわながあることを見ます。教会に集う信者達は神を正しく信じ たい、正しく歩みたいと思っているのでしょうが、しかし敵のわなが巧妙なの で、はまってしまうのです。

 私はローマ・カソリックの教えを詳しく学んだわけでもないの で、たくさんのことはいえませんが、しかし少なくとも以下の2つの間違いがあ るようです。

  1. ローマ法皇をペテロの後継者、キリストの代理者と定め、その間違った教え を各教会に広める
  2. 彼等の間違った教えを継続する体制をつくる
 上記1.の教えの根拠はペテロとキリストとの間で交わされた”あなたはペテ ロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには 打ち勝てません。”(マタイ16:18)とのことばです。彼等はこの岩とはペ テロのことをさすととります。そして代々の法皇はペテロの後継者といわれてい ます。

 しかし、キリストが”この岩の上にわたしの教会を建てます”と いわれたのは事実ですが、”ペテロを全教会の最高権威と認める”といわれたわ けではありません。また”ペテロの後継者に代々教会を治める権威を与える”” ペテロの後継者のいうことはどのように間違った教えでも受け入れるように”と 言ったわけでもありません。彼等がこのみことばに付け加え、その間違った解釈 を受け入れたため、ローマ・カソリック教会には多くの間違った教えが法皇の名 前、権威の下で入ってきました。れん獄の教え、マリヤ崇拝、偶像崇拝。そして どのように間違った教えを法皇が語ったとしても、彼がキリストに認められたペ テロの後継者なら、反対はできない。反対することはキリストの権威に逆らうこ とになるという論理につながっていくのです。

「私的解釈」について

 2.の理論の根拠になったのは、-ノペテロ1:20のみことばで す。”私的解釈を施してはならない”と訳されているみことばです。彼等は伝統 的にこのみことばを、教会で語られている教理以外の教えを語ってはいけない と、禁止する時の根拠として使用しています。従わないものは異端者として排斥 されるのです。

 このことばについてバーナード・ラムの”聖書解釈学概論”(以 前他の牧師に紹介された本です。良い解釈学のテキストだとのことです)にはこ う述べてあります。
” この聖句(-ノペテロ1:20)には3つの重要な解釈がある。 第一はカトリックの解釈で、個人ではなく教会が聖書を解釈すべきである、とい う主張の証明に用いている。あるプロテスタントの解釈では、預言的章句は他の 章句と切り離して解釈されてはならない、という主張の証明に用いている。これ こそ正しいと思われる第3の解釈は、それが扱っているのは預言解釈のことでは なく、預言の神的な起源についてである、とするものである”

 この説明を見ると、次のことがわかります。すなわち、解釈学の 領域では-ノペテロ1:20のみことばを”私的解釈−教会で定めた聖書の解釈以 外はだめ”ととる見方が必ずしも、最も正しい理解とは思われていない、という ことです。むしろそのような理解には異論がある、少なくともこの著者のラムと いう人はこのことばをそのようには理解していないことがわかります。

 しかし、カソリックの人々は彼等のいう神の正しい教えを守るた めにこのみ言葉にしたがって、他の教えを排除しました。彼等はこうすることが 神に従っていることだと思っていたのです。しかし、実際は逆であり、彼等のし たことは間違った教えをどこまでも継続する結果に終わったのです。

 ですから、これらのことから、サタンがローマ・カソリック教会 にかけた2つのわなを見なければなりません。

 誤った教えを教会内に行き渡らせること。そして、その間違いを 修正できないような、理論、体制を作りあげることです。そして、これはみごと に成功しているのです。多くの敬虔な信者がローマ・カソリック教会の中にもお られるでしょうが、皆等しく”あらゆる高さの頭にあうようにつくられたベー ル”を受けているのです。

 気がつくことは、同じ様な誤りのパターンを多くの異端の教えも 守っていることです。聖書の教えをもとに間違った教えをつくり、そしてその間 違いが変更できないような体制を作りあげるのです。

ものみの塔のばあい

 例えば、私はかつて一度”ものみの塔”の聖餐式に出席したこと があります。その頃、私はものみの塔の信者を伝道しており(向こうも私を伝道 しているつもりだったのでしょうが)、いきがかり上、出席した方がよいと判断 して出たのです。出席してみて驚いたことがあります。パンと葡萄酒が確かに出 席者−皆信者です−の間を行き渡るのですが、ただ過通りするだけであり、誰一 人、手をつける人がいないのです。
 司会者が、どうして我々はパンと葡萄酒を受けることができないのか、それは 私たちは別の囲いの羊だからだという説明をヨハネの福音書の”わたしにはま た、この囲いに属さないほかの羊があります”(ヨハネ10:16)とのみこと ばから説明していました。
 出席している何百人もの信者の手から手へとただパンと葡萄酒がただ過通りし ていく、これは異常な光景です、そしてそのことに誰も異をとなえないというこ とにさらにびっくりしました。そして、このような体制をみごとに作りあげるサ タンのまどわしの巧妙さを改めて感じたわけです。

プロテスタントではどうか

 私たちはカソリックでもないし、ものみの塔でもない、だから惑 わされてはいない。確かにそうかもしれませんが、しかし、プロテスタントであ る私たちにもサタンが同じ様な攻撃をしかけていないか一度は振り返ってみる必 要があるのではないでしょうか。サタンがローマ・カソリック教会のみ攻撃し、 プロテスタント教会にはえこひいきしているとも思えないので、警戒は必要なの です。

 ローマ教会のようにプロテスタント教会にも誤った教えが入って くる可能性はあります。このことも大きな問題ですが、しかしもう一つ大きな問 題があります。

 それはプロテスタントの中にもローマ・カソリックの教えのよう に-ノペテロ1:20のみことばを根拠に公的解釈以外の解釈を許さない風潮があ ることです。すなわち、公けと認められた以外の解釈をしてはいけないとの教え です。

 ローマ・カソリック教会は伝統的に-ノペテロ1:20のみことば を、公的解釈以外の解釈をしてはいけないというように読みとってきました。そ の結果、彼等の間違いは変更されることなく、修正されることなく現在まで続 き、そしてもしかすると再臨まで続くのです。

 プロテスタントの多くの教えは間違っているわけではありませ ん。しかし、全てが完全に正しいかどうかはわかりません、神のみ知るのです。 私たちの目には全く正しく見えても、ある日、神によりその間違いを示される人 があるかもしれません。しかし、その人にはそれを指摘する方法がありません。 何故なら、私的解釈−すなわち公けに認められた解釈以外はだめなので、語る余 地はないのです。公けにいわれている以外の解釈を考えたり、まして公表するこ とは、このみことばに反することなので、彼には永久に教会の誤りを正す機会は ないのです。

 しかし、たとえそのような不合理があっても、この-ノペテロ1: 20のみことばがそのように−公的解釈以外だめ−と確かに語っているならそれ に従うべきなのです。すなわち、神がそのように意図して語られたなら、それに 従わなければならないのです。神が語ることこそ正しいからです。しかし、この 言葉、”私的解釈”と訳されていることばの原意は”それ自身の解釈”という意 味で、”公的解釈以外はだめ”との考えにはつながらないのです。

 ローマ・カソリック教会が”わたしはこの岩の上にわたしの教会 を建てます”とのことばの解釈において間違えてしまった時、教会にわなをかけ られてしまいました。

誤りの霊的な力−サタンの築いた砦−

 ローマ教会にかけられた同じわなは”私的解釈”とのことばに関 して、プロテスタントのいくつかの教会にもかけられているのではないかと私は 思っています。誤りには霊的な力があるのです。何故なら、これはサタンの築い たとりでであり、ここを死守している限り、サタンの優位は揺るがされないので す。

 このとりでを攻撃するつもりなら、サタンの大きな反対と攻撃を 覚悟しなければならないのです。しかし、主はみことばの中でこのわなを外し、 ベールを取り去り、人々を解放すると約束されました。

 私たちは主が語っておられることを正しく捕え、神のみことばに 関する主のみこころをなしていきたいと思います。


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