アルゼンチンの悲劇 (助けにならないIMF)

 
          南米の国アルゼンチンの経済発展は、冷凍設備を組み込んだ冷凍船が19世紀末に開発
         されたことに始まる。アルゼンチンは温暖な平原の国で、広大で豊かな牧草地があるた
         め、肉牛を育てて輸出する牧畜業に向いていたが、肉の主な消費地であるヨーロッパなど
         北半球の市場に遠かった。北半球に肉を輸出するには熱帯の赤道を通らねばならないた
         め、輸送手段として船しかなかった時代には、途中で腐る心配があった。その問題を解決
         したのが冷凍船の登場だった。

          アルゼンチンは牛肉の輸出によって急速に経済発展し、第1次世界大戦で中立を維持し
         たこともあり、1930年代には国民一人当たりの収入がフランスと並んで高い、世界で
         最も豊かな国の一つとなった(当時はまだヨーロッパが世界の中心だった)。

          ところが、繁栄は長く続かなかった。第2次大戦後、ペロン大統領が労働者保護、社会
         保障の充実など、国家社会主義的な政策をとったが、短期的な人気取り政策に終わって失
         敗し、混乱の挙げ句クーデターで軍事政権になった。1950−70年代は、軍政とペロ
         ン派の政治が交互に続く中で経済は上向かず、軍事政権に反対する左派と右派とがテロを
         行う中、軍の弾圧で反政府派の3万人が行方不明にされて殺されたといわれている。

          1980年に入ると、軍事政権が国民感情の高揚を狙ってイギリスとの係争地フォーク
         ランド諸島を軍事占領するが、イギリスの反撃に破れて敗戦し、国情はますます悪化し
         た。89年には年率5000%という超インフレに襲われ、商店の値札が毎日値上がりす
         る状態になった。

          ところが1990年代になると、アルゼンチンは一転して模範的な経済体制だといわれ
         るようになる。行き詰まりを打開できたのは「冷戦終結」という時代の転換に、上手に乗
         ったためだった。1989年に就任したカルロス・メネム大統領は、関税を下げて貿易を
         自由化し、国営企業を民営化し、投資制限を解除して海外からの資金流入を増やし、政府
         による経済規制を減らして市場原則に任せるという「経済自由化」を行った。

          これは冷戦の勝者となったアメリカが「グローバル・スタンダード」として世界に広げ
         ていった経済体制で、アルゼンチンはいち早くその体制に転換し、90年代前半には年率
         8%近い高度経済成長となった。1940−50年代、冷戦体制が作られたときの世界の
         変容に乗り遅れて不遇の時代を送ったアルゼンチンだったが、冷戦体制が終わるときの世
         界の変容をつかむことには成功したのだった。

         ▼固定相場で投資を呼び込んだ

          このときアルゼンチンが成功したもう一つの理由とされたのは、通貨ペソの為替変動を
         抑えるため、ペソの為替相場を1ペソ=1米ドルで固定する政策をとったことだった。為
         替相場を固定することによって、海外の投資家、特にアメリカの投資家が、為替変動のリ
         スクを気にせず、米国内の企業などに投資するのと同じように、安心してアルゼンチンに
         投資できるようになった。

          日本も1970年代はじめまで1ドル=360円などの固定相場制だったが、当時は第
         2次大戦前に激化した通貨切り下げ戦争の反省から、為替相場の安定を加盟国に義務づけ
         た「ブレトンウッズ体制」がまだ生きていたころで、しかもまだ為替取引には大きな制限
         が加えられていた。これに対して冷戦後のアルゼンチンの固定相場制は、それよりはるか
         に自由になった世界の為替市場の中で固定相場を維持するものだった。

          アルゼンチン政府は手持ちの米ドル資産の総額を越えない範囲でペソを発行し、人々が
         すべてのペソをドルに替えようとしたとしても政府が対応できるようにしておくことで、
         人々に不安を抱かせず、ペソの価値を維持するというものだった。アルゼンチン政府だけ
         で対応しきれなくなった場合は、国際金融機関であるIMFがアルゼンチン政府に融資し
         て支える体制だった。

          1ドル=1ペソに固定するなら、ペソの代わりにドルをアルゼンチン国内で流通させ、
         ペソを廃止してもいいではないか、という考え方もある。中南米では、パナマが事実上こ
         の方法を採っている。この方法の問題点は、自国通貨をなくしてしまうと、通貨の発行量
         を調節することで経済の過熱や景気悪化をある程度防ぐことができるのに、その機能を自
         ら放棄することになってしまう、ということだ。

          逆に、厳密に相場を固定しなくても、為替が変動し始めたら、中央銀行が変動を止める
         ように自国通貨を売り買い(市場介入)することで、為替変動を最小限にとどめることも
         できる。テントが風で飛ばないように地面に打っておくクギ(杭)を「ペッグ」という
         が、その仕組みに似ているので、この手法は「ペッグ制度」と呼ばれる。一方、アルゼン
         チンのような本格的なやり方は「通貨評議会方式」と呼ばれる。

          ペッグ方式の方がお手軽なので、多くの国がそちらを選んだが、タイやマレーシアなど
         は、1997年に中央銀行をしのぐ巨額の資金を持ったアメリカの投機筋からの売り攻撃
         を受け、中央銀行が手持ちの外貨を使い果たした結果、固定されていた相場が外れて急落
         し、アジア通貨危機を起こして破綻してしまった。

         ▼固定相場が輸出の足かせに

          アジア通貨危機は、その後ロシアに飛び火した後、1999年に南米のブラジルを襲っ
         た。ブラジルも隣国アルゼンチンと同様、1ドル=1レアル前後の為替を維持していた
         が、為替を固定する方法がペッグ方式だったので、投機筋の攻撃を受け、レアルは大幅な
         切り下げに追い込まれた。

          アルゼンチンのペソは無傷で、危機に強いことが証明されたが、問題はその後に起こっ
         た。ブラジルもアルゼンチンも、輸出を増やして経済発展することを目指しているが、ブ
         ラジルのレアルが大幅に切り下げられたため、ドルで換算したブラジル製品の価格がかな
         り下がり、その分アルゼンチン製品の方が割高になった。通貨切り下げの後、ブラジル経
         済は立ち直り始めたが、アルゼンチンは逆に不況になった。

          中南米では1994年にメキシコが通貨危機に襲われて切り下げを断行している。通貨
         切り下げに追い込まれる国が増えるほど、切り下げができない制度をとっているアルゼン
         チンの輸出産業は苦しむことになった。

          これはアルゼンチンだけでなく、アメリカにとっても困ったことだった。ウォール街を
         中心とするアメリカの投資家にとっては、アルゼンチンのように対ドル為替が固定してい
         る国の方が、ブラジルやメキシコのように通貨の対ドルの価値が下がってしまう国よりも
         投資先として好ましいからだった。

          このためアメリカはIMFなどを通じて、アルゼンチン以外の中南米の国々にも、ドル
         との固定相場制を広げ、最終的には中南米諸国の通貨をドルそのものに置き換えてしまう
         という構想を描いた。だが、その後ドル化したのは経済が破綻したエクアドルだけで、他
         の国は乗ってこなかった。

         南米発、怪しげな世界通貨統合

          そんな中でアルゼンチンの不況は1997年からしだいにひどくなり、2001年には
         経済成長率はマイナス11%というひどい落ち込みとなった。アルゼンチンのペソがドル
         と等価というのはペソが高く評価されすぎているという市場の懸念を和らげるため、アル
         ゼンチン政府はペソ建ての国債の金利を上げ、ペソの価値を高めようとしたが、金利の高
         止まりは企業の資金調達コストを上げてしまい、景気への悪影響が増えることになった。

          失業率も20%に達し、政府は税収の落ち込みから、公務員の給与や年金を支払えなく
         なり、4000万人近い国民の4割にあたる1400万人が貧困層になり、今日明日の食
         べ物にも困る人々が国民の1割以上、500万人もいる状態になった。1950年代まで
         豊かな先進国の一つに数えられていたアルゼンチンの姿は、もはや見る影もなかった。

         ▼トルコは支援してもらえたのに・・・

          それでも、アメリカで金融界とのつながりが深かったクリントンの政権が続いている間
         は、IMFはアルゼンチン政府が固定相場を維持できるよう融資を増やしていた。クリン
         トン時代のアメリカの世界戦略は、発展途上国にカネを貸す米金融界を政府がサポート
         し、途上国を経済発展させることで、アメリカの政府と金融機関、それから途上国の政府
         に成功をもたらす、というシナリオを建て前として持っていて、その中にアルゼンチンの
         固定相場や、中南米のドル化政策があった。

          ところが97年のアジア通貨危機以来、そのシナリオはあちこちで破綻し始め、クリン
         トンの任期が終わる2000年末には、アメリカ本体の経済も、もはや不況突入が間違い
         ない状態になっていた。そのため次のブッシュ政権は、国際金融を操作して成果をあげる
         ことを放棄し、代わりに軍事やエネルギーの分野から世界を動かす戦略に変えた。

          こうした政策転換の中で、行き詰まる2001年のアルゼンチンはアメリカから放置さ
         れることになった。IMFは予定されていた27億ドルの融資を実施する条件として、政
         府予算の収入と支出を均衡させることを求めた。アルゼンチンは不況で税収が減ってお
         り、ひどく楽観的に見積もっても、2002年度は支出を前年度より20%減らさないと
         均衡予算にならない。公務員給与や公的年金の支払いが滞っている中で、そんな歳出削減
         は無理だった。

          この手の厳しい条件は、クリントン時代にもIMFがインドネシアなど世界各国に対し
         て行ってきたことで、ブッシュ時代になって始まったことではなかった。とはいえ、緊縮
         財政の一方で、アルゼンチンはブッシュ政権に好意を持ってもらおうと「テロ戦争」が始
         まると、600人の兵士をアフガニスタンへ平和維持軍として送り出し、パキスタンでは
         難民支援の病院も経営している。だが、そんないじましい努力も、アメリカとその配下の
         IMFの対応を変えるには至らず、アルゼンチン国民の間から「アフガニスタンより、自
         国民の支援にカネを回せ」という非難が増えただけだった。

          2001年初め、トルコが通貨危機に陥ったとき、ブッシュ政権はそんなに冷たくなか
         った。IMFを通じて75億ドルを緊急融資させ、連立政権が壊れそうになっていたトル
         コ政府を救った。トルコではイスラム原理主義勢力が元気で、経済が破綻して連立政権が
         崩壊すれば、イスラム原理主義の政権ができるかもしれなかった。トルコはイラクを攻撃
         する米軍に軍事基地を使わせており、アメリカが中東を支配する際には欠かせない国だっ
         たから、すぐに緊急支援が行われたのだった。緊急支援をしてもらえないアルゼンチン
         は、中東から非常に遠いという地理的な自国の運命を恨むしかなかった。
 
 

          アルゼンチンの経済危機が政治危機に発展する最初の兆候は2001年夏、議会で検討
         されていた国家予算が、IMFが融資の条件として求めていた予算の均衡(財政赤字を増
         やさないこと)を達成しようと、政府の支出を大幅に削ったことだった。

          アルゼンチンの財政赤字の総額はGDPの半分以下(45%)だった。この数字は特に
         悪いものではなく、アルゼンチンの財政が放漫すぎるとはいえず、IMFのやり方は間違
         っていた可能性が高い。

          支出を切り詰める必要がない国に切り詰めを迫り、その国の経済自体を破壊してしまう
         IMFのやり方は、1997年に東南アジアに対しても行われ、インドネシアなどはその
         ときの混乱から抜け出せず、地域紛争で毎月何人もの人々が殺されているが、当のIMF
         はその後もやり方を変えていない。

          IMFは金融が破綻した国を支援するのが役割なのに、実際にはウォール街など国際投
         資家の代理人として厳しい借金の取り立てをすることが仕事になっている。警察だと思っ
         たら実は泥棒だった、というわけだ。(中南米には警官が暗闇で強盗する国もあるが)

          IMFに求められた緊縮財政を実行するアルゼンチン政府に反対して、2001年7月
         に、労働組合や各種団体がゼネラルストライキを敢行した。ところが、これによってアル
         ゼンチンに対する外国投資家の目が厳しくなり、国債の格付けが下がった結果、アルゼン
         チン政府は国債を買ってもらうのに金利を上げねばならなくなり、これがさらに経済に悪
         い影響を与えることになった。

          アルゼンチン経済を悪化させた元凶の一つは、1ペソ=1ドルという固定相場にあるの
         だから、この固定相場をやめて、ペソの価値を市場が自由に決める変動相場制に移行させ
         れば、ペソの為替相場が切り下がり、輸出産業が再び息を吹き返すはずだった。しかし、
         固定相場をやめることは、政治的には無理だった。

          住宅ローンや自動車ローンなど、国民が借りているお金の80%はドル建てで、1ドル
         =1ペソなら人々が稼いだペソでそのまま返済できるが、ペソが切り下がって1ドル=
         1・5ペソにでもなったら、人々の借金はその日から5割増しになってしまう。ローン会
         社はドルの方が潜在的な為替リスクが少なく、ドル建てローンの方が金利が安かった。ウ
         ォール街の投資家たちは1ドル=1ペソが続くことを前提にアルゼンチンに投資していた
         から、固定相場の撤廃には、アメリカやIMFからの反対も強かった。

          ペソの対ドル固定相場を維持したまま、第三の通貨「アルゼンチーノ」を新たに発行す
         る、という構想も取りざたされた。ドルとリンクしているペソは自由に紙幣を刷ることが
         できないが、新通貨はそうではないので、公務員給与や年金の支給は新通貨で行ってはど
         うか、という考えだった。しかし、何の裏付けもなく新通貨を発行すれば、2カ月もしな
         いうちにペソやドルに対する新通貨の価値が暴落してしまうことは目に見えていた。

         ▼国民の預金封鎖の裏で外国銀行が資金逃避

          アルゼンチン政府は12月1日、国民が銀行から引き出せる額の上限を1カ月に250
         ドルに制限した。アルゼンチンには1989年以来の外国資本歓迎策に乗って入ってきた
         外国の銀行が多かったが、金融界は自国の先行きに不安を持った人々が銀行の預金を引き
         出し始めているのを見て、アルゼンチン政府に圧力をかけた。

          その一方で、いよいよ資金難に陥ったアルゼンチン政府は外国から借りた金の利払いが
         難しくなり、IMFからの緊急支援を必要としたが、融資の条件となっていた緊縮予算案
         は議会を通らないままだったので、IMFは融資を断った。

          これに対して怒った国民は、12月13日に再びゼネストを敢行した。国民が250ド
         ルしかおろせなくなっている間に、外国系金融機関は大口取引が規制されていないため、
         12月から1月にかけて150億ドルもの資金をアルゼンチン市場から引き出してしまっ
         ていた。アルゼンチン政府が国民から「欧米金融機関の手先」と思われるのは当然だっ
         た。

          アルゼンチンは、労働組合を重用した1940年代のペロン大統領以来の伝統で、人々
         が政府に何かを要求するときは、労組の旗を押し立てて行う傾向が強かった。だが人々は
         すでに、政府の擁護しかできない多くの組合に対して愛想を尽かしていた。今回のデモに
         は組合の旗はほとんど出ず、旗として出てきたのは「愛国心のない政府など要らない」と
         いうメッセージを持ったアルゼンチン国旗だった。(関連記事)

          国内と外国の両方からの圧力が高まる中、国民の反政府デモが暴動と化し、12月19
         日には暴動が悪化し、全国で20人ほどの死者が出る事態となった。大統領のフェルナン
         ド・デラルアは進退を迫られた。

          デラルアの最後の切り札は、連立政権への移行だった。デラルアは、1999年の選挙
         でペロニスト党(正義党)を破って政権についた急進党の大統領である。野党となってい
         たペロニストを政権に引き入れて連立を組めば、自分への反発を抑えられるかもしれな
         い。そう考えて12月20日にデラルアはペロニスト党に連立を申し込んだ。しかし、ペ
         ロニスト党の方は、このままデラルアに経済政策失敗の責任を押しつけて辞めさせ、自分
         たちが政権をとる道を選んだ。その日の夜、デラルアは議会に辞表を提出した。

         ▼8日間で終わった暫定大統領の野望

          デラルアに代わって大統領になったのは、ペロニスト党のアドルフォ・ロドリゲスとい
         う人物だった。彼はサンルイスという小さな州の州知事から昇格した。アルゼンチンは州
         ごとの政治勢力が強く、ペロニスト党の中でも人口が多い州の知事や上院議員が強い政治
         力を持っていた。

          そんな中で小さな州の知事にすぎないロドリゲスが党内協議で大統領に選ばれたのは、
         2002年3月までの90日間の暫定政権だったからであった。3月に選挙を行い、そこ
         で正式な大統領を決める予定だったから、大きな州の知事たちはその選挙に打って出るこ
         とを目指し、国民の反感をかうに違いないこの難しい時期の暫定大統領には、誰もなりた
         がらなかった。

          とはいえ、ロドリゲスも彼なりの野心を持っていた。彼は就任した翌日から矢継ぎ早
         に、前政権が決定した公務員給与と公的年金を13%削減する政策を破棄すると発表した
         り、最低賃金を2倍の額に引き上げると宣言したり、100万人分の雇用を生み出す計画
         を打ち出したりした。また、外国から借りている資金に対する利払いを停止すると宣言し
         た。アルゼンチンの対外債務は1500億ドル(約20兆円)で、史上最大の国家の破産
         宣言となった。

          ロドリゲス大統領は、これらの政策で国民の歓心をかい、3月の大統領選挙に自分も立
         候補しようという腹だったようだが、発表された政策はいずれも素人が見ても、難局の真
         っ最中にいるアルゼンチンには実現不能なものだった。伝統的なペロニスト政策は、今や
         国民から見向きもされず、国民の政治不信を募らせ、やかんやフライパンを騒がしく叩き
         ながら大統領官邸に押し寄せる、反政府デモ隊の人数が増えただけだった。

          ロドリゲスが大統領になって1週間後の12月30日、上院議員や知事など政界の有力
         者を集めて政策会議を開いた。しかし、会議に集められた人々のうち、出席したのは半分
         もいなかった。野党ばかりでなく、与党であるペロニスト党の有力者たちも大半が欠席し
         た。この会議の後、大統領を支えるはずの閣僚も全員、辞表を大統領に提出するに至っ
         た。暫定大統領としての権限を越えたふるまいに対して周囲からそっぽを向かれたロドリ
         ゲス大統領は、この日の深夜にテレビ演説し、辞任を表明した。彼の在任期間はわずか8
         日だった。

         ▼大統領になりたい人がいない大晦日

          アルゼンチンの憲法では大統領が辞任した場合、上院議長が大統領に昇格することにな
         っている。しかし、上院議長のラモン・プエルタは、ロドリゲス大統領が辞任した数時間
         後、自らも議長を辞めてしまった。国民に憎まれる政策を実施する暫定大統領をあえて引
         き受ける人材がもう与党内にいない以上、自分が上院議長のままでいたら、その暫定大統
         領を3月まで続けねばならなくなるからだった。

          上院議長も辞任してしまったので、大統領職は下院議員に移り、ペロニスト党の下院代
         表が「形式的に」という条件をつけて引き継いだ。一国の大統領という地位が、これほど
         人気のないものになる状態も珍しいといえる。

          窮したペロニスト党内では、大統領になる条件を変えることが協議され出した。3月に
         予定されていた大統領選挙を取りやめ、次に大統領になった人は暫定ではなく、任期が2
         003年までの正式な大統領になる、というものだった。大統領選挙をやらないとなる
         と、野党になった急進党などには不利になるが、彼らはデラルア元大統領の政策失敗が国
         を破綻させた責任を有権者から問われ、選挙で勝つことはまず無理だったから、選挙なし
         の新政権づくりに同意した。

          こうなると話が違ってきた。ペロニスト党はアルゼンチンの24州のうち14州の知事
         を出しているが、このうち6人の州知事が大統領になりたがっていた。このうち誰が大統
         領になるか、党内での駆け引きが始まった。

          1989年にメネムが大統領になって以来、ペロニスト党内は市場原理の大幅導入を推
         進する親米の「メネム派」と、貧者を苦しめる市場原理導入に反対して大衆重視路線を貫
         く「伝統派」とに分裂し、内部対立が続いていた。今回、メネム流の経済政策が破綻して
         国が行き詰まった経緯から、伝統派が優勢となり、以前から市場原理導入に反対してきた
         ブエノスアイレス州知事のエドゥアルド・ドゥアルテが大統領になることが決まった。

          ドゥアルテはペソの対ドル固定相場を廃止し、売買市場で為替が決まる変動相場制に戻
         した。彼が属するペロニスト党は議会の多数派だったが、固定相場にこだわるメネム派も
         多かったので、1月1日のドゥアルテの就任から1月6日の固定相場制の廃止まで、1週
         間近い日数がかかった。ドゥアルテは経済難を乗り切るための政策に関しては、議会の反
         対を受けても大統領が実行することができるよう、大統領の権限を強化するべきだと主張
         している。