異端クリスチャン・サイエンスと似ているWord Faithの信仰


               
 (神を含む)宇宙が非人格的な霊的法則で統治されているとの考え方は非聖書的である。神の主権と摂理の否定だ。理神論以外の何ものでもない。さ?に、私たちが現実を神秘的に操作する言葉を用いうるとの槻念は、聖書の信仰、ことにヘブル11章に啓示された信仰の型とは遠く離れている。これらの考え方は、聖書の真理よりはクリスチャン・サイエンスというカルトと共通のものだ。

 Word Faithは、その教理がクリスチャン・サイエンスやその他の形而上的なカルトと共通のものであるということを猛烈に否定する。

 Charles Cappsは、「いいか、私がこれを教え始めると、ときどき会衆がそれをクリスチャン・サイエンスと似ていると言う。テキサス州での礼拝中にある女性は夫の肩をたたき、「あれはクリスチャン・サイエンスと似ている』と言った(私の妻が聞いた)。クリスチャン・サイエンスではない。私は、Kenneth Hagin兄弟が言うように、『クリスチャン・センス(キリスト教感覚)だ』というのが好きだ」と言う。その後、彼は「そうだ、クリスチャン・サイエンスではない。私は病気の存在を否定しない。私は、自分がキリストのからだなので、この身体に病気が存在する権利を否定する」と言う。

 その違いはごく小さい。Word Faithの中心的教理の多くがクリスチャン・サイエンスと同じなのは単純な事実の問題だ。その根拠がある。クリスチャン・サイエンスを含む、今世紀初期に栄えた形而上的カルトとWord Faithとの間に直線的な関係があるのだ。

 この関係はWord Faithに対する優れた批評であるD.R.McConnellの『A Different Gospel(異なった福音)』に詳細に記されている。McConnellはWord Faithの発展を歴史的に追い、その主要部分がKenneth Haginとその弟子の一人により形成されていると示す。Word Faithの教理上の特徴はすべてHaginに起因する。

 さらに、McConnellは確信をもって、Word Faithの教理はHaginのオリジナルではないと言う。E・W.Kenyonというfaith伝道者の著作から拾い集めたのだ。HaginはKenyonから考え方を借用しただけではない。McConnellの数ページに及ぶ対照表は、Haginの著作の多くの部分が一語一語Kenyonの著作からの盗作ではないかとの疑問に明らかに答えている。

 なぜそれが重要か。McConnellも示すように、Kenyonのルーツは形而上的カルトだからだ。 Kenyonの信癒はペンテコステ派の伝統ではなく、Mary Baker Eddyとクリスチャン・サイエンスの伝統だ。彼は、形而上的科学的カルトの教えを中心とした大学に通っていた。そして、このカルトの宣伝する基本的な考えを自分の教理体系の中に取り入れたのだ。Haginはそこから吸い上げたのだ。

 要するに、McConnellの著書はWord Faithの内実の暴露である。それは、Word Faithが、クリスチャン・サイエンスやスエーデンボルグ主義や神智学(Theosophy)やScience of Mind(精神の科学)やNew Thought(新思考)等の祖に負っており伝統的なペンテコステ派ではないことを白日のもとにさらすもの
である。また、Word Faithの教えがその中核において壊れている旨を示している。

 彼らは明らかにカルトの派生であり、キリスト教ではない。
 悲しい事実は、Word Faithの福音が新約聖書の福音ではないことだ。Word Faithの教理は、形而上的カルトから借用した雑多な体系、神槌主義、多元主義、ネオ・グノーシス主義の混合だ。その邪悪な教説は教会一般に、特にカリスマ派に言語に絶する損傷を与えている。Word Faithは使徒ペテロの言葉によれば、「滅びをもたらす異端」(_ペテロ2:1)だ。それは、原始的な積荷信仰のように、貪欲と物質主義に満ちており、霊的には破産状悪だ。

 Word Faithは、カリスマ運動から成長した最も危険な誤った教えと言える。非常に多くのカリスマ派が聖書の最終性を確信せず、キリストの来訪を受けたと主張する人々の話を割り引きえないと感じるので、Word Faithの嘘に特にだまされやすく、しばしばその嘘への返答に途方に暮れている。

 しかし、Word Faithが何と言おうとも、私たちの神は単なる積荷の源ではない。
 私たちが神のしもべで、神が私たちのしもべなのではない。神は私たちを愛の奉仕と?拝に生きるよう召し、神的主権に生きるためではない。神は私たちを祝福するが、常に物的な祝福なのではない。どうして私たちが「自分の計画を立て」、それに神を従わせることがでさようか。真の信者がそんなシナリオを期待するだろうか。キリスト者の生活とは神の御心を求める生活で、神を私たちに従わせる戦術ではない。この根本的な信仰を否定する者は本当の神の栄光に生きることができない。神の恵みによりなされた罪と利己主義からの免除を知る者は、その自由を、Word Faithの安っぼい積荷と交換しようとすべきではない。 -----------------------------7d52fd2280126 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream