誤った信仰


 Word Faithは信仰を、重力や熱力学の法則のように、宇宙を治める不変で非人格的な「法則」であるとする。つまり、それを行う者や目的に関係なく作用する原則だ。Pat Robertsonは、御国の法則が非キリスト者にも作用するかと尋ねられて、「然り。重力の法則がキリスト者とユダヤ人の原則でないように、これらもキリスト者とユダヤ人の原則ではない。(中略)神の法則は、それに従う者のために作用する。御国の原則は被造物のすべてに適用される」と言った。信仰の「法則」に適用すると、その理由づけは、キリスト者か否かを問わず、疑わずに祝福を求める者の全員が、求めるものを入手しうることを意味する。

 Word Faithの教理では、信仰とは神への服従的な信託ではない。信仰は、宇宙を支配するとWord Faithが言う霊的法則を繰る形式だ。「霊的法則で支配された言葉はあなたのために働く霊的力となる。怠惰な言葉はあなたに対抗する。霊の世界は神の言葉で支配されている。自然の世界は、神の言葉を話す人により制御されるべきだ」と。

 その名称「Word Faith」が合意するように、Word Faithの教える信仰は、私たちが信託する相手方や、私たちが心に持ち、確信する真理以上に、私たちが「語る」ことに関する事項である。Word Faithの好む用語は「積極的告白(positive
confession)」である。

それは、言葉が創造的力を持つというWord Faithの教えに関係している。あなたが「語る」ことがあなたに起ることを決すると、Word Faithは教える。あなたの「告白」、つまり、あなたの語ること、特に、あなたが神に要求する願いは、すべて、積極的に語らなければならない。すると、神には応えることが要求されるのだ。

 Kenneth Haginは、「あなたは自分が語るものを持ちうる。あなたは神と共に自分の将来の計画を立てうる。この計画を立てる第一歩は『それを語る』ことだ」と言う。また、「あなたが自分の試み、困難、信仰の不足、金銭の欠乏について語るなら、あなたの信仰は萎縮し、渇き切る。しかし、神をほめよ。あなたが神の言葉、あなたの愛する天の父、神のなしうることについて語るなら、あなたの信仰はとんとん拍子に成長する」と言う。

 これらの観念はWord Faithに生んだ迷信をもたらす。Word Faithの信者は実際、自分の言葉が自分の運命を決する魔術的呪文だと信じている。

 Charles Cappsは、無意識的にでも消極的な告白をすることの危険を警告する。
「私たちは悪魔の言葉で自分の語彙をプログラムしている。私たちは憂鬱、病、死を自分の語彙に加えた。非常に多くの人々が自己表現に用いるおもな言葉は『死(death)』だ。人々は『死ぬほどそれをしたい(Iam dying to do that)』『できないなら死にたい(I am going to die if I don't)』『それは死ぬほどうれしい(That just tickled me to death)』と言う。さて、友よ、それは邪悪な会話だ。それは神の言葉と逆だ。死は悪魔のものだ。(中略)私たちは死と仲良しになる必要はない。全員がすぐに死ぬのだから、今死と仲良くすることはない」と。これは迷信で、聖書の信仰ではない。

 積極的告白は罪の告白を排除するようだ。事実、Word Faithの祈りや霊的成長に関する書物には、罪の告白に関する教えは全くない。信者は絶えず自分の罪を告白し続けるべきだという1ヨハネ1章9節の厳粛な教えを根こそぎにしている。

 現実に、積極的告白の教えは、信者に自分の罪や限界の現実を無視し、否定するよう奨めている。それは、消極的な告白は不幸をもたらすという恐れから、永続的に感情のない笑みを浮べる大衆を作り出している。
 Haginは自分でもそう感じている。「私が疑いや恐れを持っても、誰にも話さない。それを受け入れない。そんな考えが起ったことを誰にも話さない。悪魔は自分の心の中にあらゆる種類の考えを挿入することができるのだ。私たちは言葉の産物だ。あなたは、聖書があなたの舌に健康と癒しがあると教えていることを知らないのか。『知恵のある人の舌は人をいやす』(箴言12:18)とあることに注意しないのか。私は決して病気を語らない。病気を信じない。私は健康を語る。(中略)私は癒しを信じる(I believe healing)。私は健康を信じる。決して病気を語らない。私は癒しを語る。私は決して失敗を語らない。失敗を信じない。私は成功を信じる。決して敗北を語らない。私は敗北を信じない。私は勝利を信じる。イエスにハレルヤ」と。これは明らかに問題の多い見解だ。

 

Charles Capps

 Bruce BarronはあるWord Faithの教会について、「牧師はおどおどと深刻な問題を会衆に語り始めた。彼は、教会員が病気の乳児を保育室に連れ込んで伝染病を蔓延させたと開いていた。保育奉仕者の阻止に抗して、親たちは自分の子どもは健康だとの積極的告白をした。親が癒しを主張したので、心配は何もなかった。
 彼らは、鼻を鳴らし、咳をするのを嘘の症状として見捨てた。それは伝染病の症状とわかっていたが、講壇からの通告以外にはその問題を決着できなかった」と言う。

 さらに、病気や問題を「嘘の症状(lying symptoms)」として否定するWorrd Faithの見解は、苦しんでいる人々を理解し、同情をもって接する機会を信者から奪うものだ。サタンの嘘か、悪くすれば、病気の人の罪深い不信仰の結果だと信じる症状の人を助けえようか。結果的に、Word Faithの信者の多くは、癒しを求める信仰のないと思われる人に対しては、無情となり、粗野でいらいらさせる態度すらとる傾向がある。

 Barronは、子どものできない牧師夫妻が「教会員から、妊娠を『告白』し、その信仰を、乳母車を買い、それを押して町を歩いて表明すべきだと言われた」と言う。数年前、私は「積極的告白」神学に欺かれている女性から心の痛む手紙を受け取った。彼女は、妊娠を望む子どもの出産通知をすべての知人に出すよう、神が求めていると信じた。悲劇的だが、この哀れな女性は肉体的に出産ができない[状葱だった]。数ヶ月後に、期待した「信仰の赤ちゃん(faith baby)」が与えられなかったとの手紙を出した。しかし、なお信仰による妊娠を求め続けていると言う。明らかに、二番日の手紙を「消極的告白」と受け取られないか恐れているのだ。

 Haginは、実の妹が長く癌をわずらって死んだときでも冷淡のようだ。「妹は79ポンドに減った。主は私に、彼女は死ぬと言い続けた。私は主に、なぜ私が結果を変ええないかと問い続けた。主は私に、彼女は言葉(word)を学び、信仰を築い(救われ)て5年だが、それをなさなかったと言う。主は私に、彼女は死ぬと言い、彼女は死んだ。これは悲しい例だが、事実だ」と。Word Faith神学は、奇蹟的な回復を求めるときには癒し人(healer)を英雄に
するが、癒しが起らないと求め人(seeker)の信仰の欠如を非難するのが常だ。

 Haginは関節炎の女性の癒しを試みたときの出来事を書いている。彼女の病気は足をひどく不自由にし、歩けない。Haginは、彼女が車椅子から降りようとしないのでがっかりする。「私は彼女を指さし、『姉妹よ、あなたには1オンスの信仰もないね』と言った(彼女は救われ、聖霊のバプテスマを受けたが、癒しの信仰がない)。彼女は考えなく、『はい、ない。Hagin兄弟。私は癒されると信じない。私はこの車椅子から墓に行く』と漏?らした。彼女はそれを言い、それをなした。私たちに責任はない」。

 積極的告白は人々に、自分の言葉が決定的だと教える。神はもはや信仰の対象ではない。Word Faithの信者は自分の言葉への信仰を学ぶ。Haginが短刀直入に言うように、「自分の信仰への信仰(faith in[their]own faith)」なのだ。

 Haginがその概念を確証しようとする論理をたどってみよう。「あなたは、自分の信仰への信仰を持つことについて考えたことがないのか。明らかに、神は自分の信仰への信仰を持っている。神が信仰の言葉(words of faith)を語ると、それが生じたからだ。明らかに、主イエスは自分の信仰への信仰を持っている。主がいちじくの木に語ると、語ったことが生じたからだ。換言すれば、自分の言葉への信仰を持つことは、自分の信仰への信仰を持つことだ。自分の信仰への信仰を持て。それこそ、あなたが神から物を得ようとするために学ぶべきことだ。『私の信仰への信仰」と大声で言うことは信仰を得る助けとなる。自分の心に刻みつけるまで言い続けよ。初めにそう言うときは奇妙で、あなたの心がたぶんそれに抵抗するだろうと思う。しかし、私たちはあなたの頭について言うのではなく、あなたの心の中の信仰について言うのだ。主イエスが『心の中で疑うな』と言ったように」。

 Haginは再度、御父と御子を低くし(神が信仰を持つのか。私たちが正確に全知の主権者なる神の信仰について語りうるのか)、自分を価値ある信託の対象として神格化する。さらに、信仰を魔術的な定式にし、私たちの言葉を「神から物を得る」ためのある種の呪文にしている。これらの観念に聖書的な根拠はない。 私たちの正しい信仰の対象は神とその無謬の御言葉だけで、断じて私たち自身の言葉ではない。

 Word Faithの信者は、積極的告白を自分が望む物を魔術的に出しうる呪文と見る。Haginは、「心で信じよ。口で言え。それが信仰の原則だ。自分が言う物を持ちうるのだ」と言う。「わたしの名によって」という言葉の合意を無視して、ヨハネ14章14節(「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるな?、わたしはそれをしましょう」)を引用し、この聖句を、自分が魅せられたどんな種類の積荷でも神から強奪するのに用いうる無制限の約束としている。

 このような教説がWord Faithの多くの信者を究極の物質主義に導いている。あまり知られていないWord Faithの教師John Avanziniは、ある夜、TBN[のテレビ番組]に出て、地上の働きの間、主イエスが実際に全く豊かだったと論じた。

 彼は会計係としてのユダの役割を指摘し、「あなたは、会計係を必要とするほどたくさんの金銭を扱わなければならない」と言う。彼は、最近、Kenneth Copelandの番組にゲスト出演し、主イエスが大きな家を持ち、特注の服を着ていたと聖書が教えていると言う。すべてが、Word Faithの教師の贅沢な生活と物質主義的な哲学の正当化として引き出されている。

 Robert Tiltonはもう一歩進み、「神が繁栄を約束するのに、貧乏なのは罪だ」、「私の神は金持ちだ。神は、主イエスがカルバリーにおいて、あなたのために売買した天国の預金口座から引き出す方法を示そうとしている」、「新しい家、新しい車、そんな物は小銭だ。神があなたのためにしたいこととは比較にならない」と言う。

 どのようにしてこの積荷を獲得するのか。Tiltonは信者に、彼のミニストリーのための献金という形で「信仰の誓約(vow of faith)」をするよう勧める。「私は1000ドルの誓約を好む。私は中途半端な者や生ぬるい者を好まず、直ちに、『は
い。わずかですが……』と言う者を好むからだ。私は1000ドルの信仰の誓約を好む。

(中略)それを得たあなたに言うのではない。それを得たあなたは私にわずかの注意も払っていない。私はそれを得ていないあなたに言い、どうしたらそれを得られるかを示しているのだ。そうだ。主の働きはその一部を得る。しかし、あなたは大部分を得る。あなたは最大限の祝福を得る。私はあなたをごみ捨て場の中から引き出そうとしている。私はあなたを高級車に乗せようとしている。(中略)私はあなたを助けようとしている。私を呪うのをやめよ。私を呪うのをやめよ。神よ、何があなたからこの祝福を引さ出すのか。私は祝福だ。私は超自然的に神か?ら祝福された。今日、私はあなたに祝福を与える。私はそれを知っている。私の責任はそれをあなたに与えることだ」と。

 Tiltonは視聴者に、「『主よ、もしそれが御心なら』というのではない」信仰の祈り(the prayer of faith)を祈るよう勧めている。「私は、癒しや繁栄や神の指示に関係するとき、神の御心が何かを知っている。(中略)私は疑いや不信仰の祈り(a prayer of doubt and unbelief)を祈るべきではない」。挽言すれば、Tiltonは、自分のミニストリーに1000ドルの信仰の誓約をするよう求めているのだ。特に、そんな多くの金銭を与える余裕がない[ときこそ必要なのだ]。彼は、そのことに関して神の御心を求めて祈るよう求めはしない。結局、あなたは自分がほしい物を要求でき、神はそれをあなたに与えなければならないのだ。

 1000ドルの誓約をし、神にその金銭を備えるように要求せよ。これは欺きで、冒涜的な愚劣さだが、実に何百万人もの人がその罠にかかっている。

 Richard Robertsは、父親の「種子信仰(seed‐faith)」概念を反映して、視聴者に、「あなたのマスター・カード、ビザ・カード、アメリカンエクスプレス・カード[の畑]に種子を蒔き、神が天の窓を開いて、あなたに祝福を注ぐのを期待せよ」と言う。Oral Robertsは、オーラル・ロバーツ大学のRiver of Life Fountain(生命の泉の川)[の水を]プラスチックの容器に詰めた「聖水(Holy water)」を郵送した。
 それの使い方を示すために、テレビ番組で、[その水を]自分の財布に注いだ。

 積荷を得るのがそんなに単純なら、なぜ非常に多くのWord Faithの信者が受け取っていない物質的祝福を「要求している」のか。Fred Priceは、「1ドルの信仰なら、1万ドルの品物を求めても、実現しない。主イエスは『あなたの(信仰)に従って』と言った。

あなたに対する神の御心に従ってではない。神の都合の良いときであるなら、御心に従うのなら、神が忙しいスケジュールの中に加えうるなら、ではない。主イエスは、『あなたの信仰のとおりになれ』と言う。今、私はロールスロイスがほしいが、自転車の信仰しかない。私が得るものは何か。自転車だ」と説明する。このように、私たちを祝福する神の能力は、私たちの信仰によると考えられているのだ。 

PriceもTiltonも、「御心ならば」と祈るのを嫌っていることに注目せよ。これはWord Faithの教師の共通の特徴だ。前述のように、彼らはヨハネ14章14節(「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」)を好んで引用する。しかし、_ヨハネ5章14節(「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを開いてくださるということ、これこそ神に村する私たちの確信です」)は彼らのデータベースからは完全に消えているのだ。

 Haginは、新約聖書がそんなことを教えないと主張するところまで行く。「私たちは主イエスの言うことを理解できず、新約聖書の教えに代る宗教的洗脳を受けていて、神の約束を水で薄め、主イエスの言わないことを付加した。『それが神の御心なら結構だが、御心でないかもしれない』と人々は言う。新約聖書の中にそのような言及はない」と。Haginはさらに、「榊の御心ならば』と祈るのは非聖書的だ。祈りの中に『もし』を付けるなら、疑いながら祈るのだ」とも言う。

 しかし、1ヨハネ5章14節は、明らかに、「もし」を含む。さらに、ローマ8章27節は、聖霊も「神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださる」と言う。
 また、Word Faithはヤコブ4章13〜16節をどう扱うか。彼らの最も原理的な教えが全的にこの節と矛盾しないか。「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それか?消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです」(ヤコブ4:13〜16)。

 Word Faithの物質的富と繁栄の強調はどうか。そもそも本当の信仰だろうか。否だ。聖書は富の重要性を強調するどころか、それを追い求めることを警戒している。

 信者、ことに教会の指導者(1テモテ3:3)は金銭への愛から離れるべきだ(ヘブル13:5)。金銭への愛があらゆる悪に至るのだ(1テモテ6:10)。主イエスは、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜならいくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」(ルカ12:15)と警告する。Word Faithがこの世での金銀や財産を強調するのと全く対照的に、主イエスは「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます」(マタイ6:19)と言う。Word
 
Faithの福音と私たちの主イエス・キリストの福音との決定的な相違は、マタイ6章24節の主の言葉にうまく要約されている。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と。
 

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