「新しい被造物はまさに神(God)のようだ。」:ベニーヒン

 

 
 
 
ベニーヒン

 Benny Hinnは、「新しい被遣物は神(God)にならって義と真の聖に創造される。新しい人は神にならい、神のよう(godlike)で、キリスト・イエスにあって完全だ。新しい被造物はまさに神(God)のようだ。それを『あなたは遊び回る地上における小さな神だ』と言えないか」と言う。Hinnはそのような教えに対する批判に応えて、「あなたは、真の啓示を知る準備ができているか。よし。これを見よ。神(God)は神の形態を脱ぎ捨てた(中略)ので、ある日、私が地上で神の形態を着ることがあろう。

Kenneth Haginは教えている。多くの人々がその点で問題を持っている。しかし、それは絶対の真理だ。Kenneth Copelandは教えている。多くのキリスト者がそれに欠点を見るが、それは神の真理だ。HaginやCopelandは言う。あなたは神(god)だ。あなたがたは神々(gods)だ。『私は神(god)ではありえない』[と言う人よ]、ちょっと待て。この教えにバランスを取ろう。バランスはHaginの教えることで、乱す(mess it up)のは、彼の言うことを繰り返している人々だ。バランスは私の親友のCopelandが教えることで、乱している(messing it up)のは、彼の言うことを繰り返している人々だ。

 いいか、兄弟。イエスが地上にいたとき、まず彼は神の形態を自ら脱いだのだと聖書は言っている。制限なき神なるイエスは人となった。私たち人間も彼のようになりうるのだ」と言う。
 Word Faithの教師が彼らの神学形成に大きな影響力を持つと認めるHaginは、「私たちが自分のあり方に目覚め、認識するなら私たちに期待されていることをし始めるだろう。教会(the church)は彼らがキリストだ(they are Christ)と認識してこなかったからだ。それが彼らのあり方なのだ。彼らはキリストなのだ」と言う。

 こうしてWord Faithは神を免職して、その地位に信者を就けるのである。その基本的な誤りからほとんどすべての彼らの誤りが生じている。なぜ健康と繁栄がキリスト者の神的権利と教えるのか。その教理体系では、キリスト者は神(god)であり、これらの事柄を望みうるからだ。なぜ信者の言葉が創造的・決定的な力を持つと教えるのか。その教理体系では、主権者は信者で、神ではないからだ。

 彼らは、「そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです』」(創世3:4〜5)とのサタンの虚言を持ち出す。創造されたものが神のようになりえるという考えは、常にサタンの嘘だ。事実、その嘘が悪魔を引き降ろした(イザヤ14:14参照)。

 Word Faithはその教説を主張する根拠に二つの聖句を示す。詩編82編6節では、神は地の統治者に、「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ」と言う。しかし、単純に読めば、この言葉は不正な統治者に村する裁きの際の言葉だとわかる。神は、彼らの傲慢のゆえに、彼らを愚弄しているのだ。
 彼らを神だと考えたのは彼ら自身なのだ。6〜7節を続けて読めば、「おまえたちは神々だ。(中略)にもかかわらず、おまえたちは人のように死ぬ」となる。明らかに彼らを非難する神の皮肉である。神であるという主張とは程遠く、自分をあまりに高く考える彼らを神は厳しく非難しているのだ。

 Word Faithは直ちに別の好ましい聖句に転じる。その箇所では、主イエスご自身が詩篇82編を引用して自分の神性を防御している。「ユダヤ人たちはイエスに答えた。『良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。』イエスは彼らに答えられた。『あなたがたの律法に、「わたしは言った、あなたがたは神である。」と書いてはありませんか』」(ヨハネ10:33〜34)と。しかし、この聖句を選んだ主イエスの目的を見失ってはいけない。それは、律法学者やパリサイ人には、邪悪な統治者に対する非難の聖句としてよく知られていた。主イエスは元の詩篇の皮肉を反映しているのだ。
 
 

 Walter Martinは、「主イエスはあたかも、『あなたがたは自分を神々(gods)だと言う。あなたがたの中にいるもう一人の神(god)は誰か』と言うかのように、人々を嘲っているのだ。皮肉は私たちを叱責するためで、私たちに教えるためで
はない。

それは神学形成の基礎ではない。また、疑いもなく主イエス・キリストがサタンを『この世を支配する者』と呼んでいる(ヨハネ14:30)ことも、ヨハネ10章の理解と関係がある。パウロもサタンを『この世の神』と呼ぶ(1コリント4:4)。私たちは金銭、権力、名誉、地位、性、愛国心、家族、あるいはル
シファーの場合のように天使から、『神』を造りうる。私たち自身が自分の『神』でもありうる。しかし、何かを神と呼び、それを礼拝し、それを神として扱うことは、神存在の本質や基本的な神性とは全く別の事項である」と言う。

 神は反逆的なイスラエルに向かい、「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか」と言う(イザヤ29:16)。
 Word Faithによれば、その答は「はい」だ。
しかし、聖書によれば、唯一の神がいるのみで、ほかには神はいない(申命4:35、39、32:39、1サムエル7:22、イザヤ43:10、44:6、45:5〜6、21〜22、1コリント8:4)。
 

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