神の言葉の正しい解釈に代って、異様な体験を集めるようにな

るペンテコステ、カリスマ派

 Collett、Danielson、Ford、Liardon、Baxley、Ebyらは、極端な例だとしても、彼らだけが特別だとは言えない。彼らの証言は、しばしばカリスマ派の中で耳にする典型的なものだ。次から次へいろいろな体験が新聞、ラジオ、テレビなどで報道されるにつれて、巧妙で有害なモデルが築き上げられていく。神の言葉の正しい解釈に代って、異様な体験を集めるようになっている。聖書をずたずたにして自分たちの体験に当てはめるか、全く無視してしまうかのどちらかだ。その結果は偽キリスト教の神秘主義である。

 神秘主義は、霊的なリアリティを、客観的に証明可能な事実と区別して理解しようとする信仰体系である。感情や直感やその他の内的な感覚によって真理を求めようとする。客観的なデータは通常、割引されるので、神秘主義の権威は自分の中から引き出される。自然に出てくる感情が客観的な事実よりも重視され、直感が理性にまさる。内的自覚が外的現実に取って代る。後述の通り、神秘主義は近代の実存主義やヒューマニズム、さまざまな異教、特にヒンズー教やニュー・エイジの中核にある。

 非理性的な神秘主義はカリスマ的体験の中核でもある。神秘主義は聖書の権威を破壊し、個人的体験という新しい基準に代えている。そして間違いなく、カリスマ派の教えは、実際には、個人的体験を聖書の正しい理解よりも高い位置に置くという効果をもたらした。だからこそ、本章の冒頭に挙げた「聖書を片づけて、勉強をやめよ」という忠告が出てくるわけである。個人の「啓示」や感情のほうが、霊感された神の言葉の永遠の真理よりも意味があるのだ。

  聖書の真理を理解する方法は基本的に二つだけだ。一つは歴史的・客観的方法で、聖書に教えられているように人々に向けてなされた神の行為を強調する道で、もう一つは個人的・主観的な方法で、人間による神体験を強調する道だ。神学はどのようにして築くべきか。聖書に頼るべきか、それとも何という人々の体験に頼るべきか。もし人に頼るなら、個人の数だけ多くの見解を持つことになる。それが、今、カリスマ運動の中で起っているのだ。

 客観的・歴史的神学こそ、宗教改革の神学だ。それは歴史的な福音主義だ。それは歴史的な正統主義だ。私たちは聖書から始める。観たちの思想や体験は御言葉との比較によって有効か無効かを判断される。
 その反対に、主観的な見解は歴史的なカトリックの方法だ。直感や体験や神秘主義が常にカトリック神学の中でおもな役割を演じてきた。主観的な見解は、リベラル神学や新正統主義の中核でもある(第3章参照)。これ?の体系における真理は直感や感情によって決定される。真理とは「その人に起ったこと」になってしまう。
 
 

 この主観的な見解は、今世紀初頭に始まった歴史的なペンテコステ派の方法でもある。カリスマ派の歴史家は、この運動の発端はカンサス州トペカ市にあったCharles Fox Parhamの経営する小さな聖書学校にあると言う。Parhamはホーリネス運動の会員だった。ホーリネス運動では、完聖、つまり、この世での罪のない完成に達する霊的状態は、キリスト者が「二度目の祝福」、つまり、救われた後の劇的な変化の体験を通して得ることができると教えられていた。(しかし、これは異端教理)Parhamは信癒の熱心な信奉者だった。彼は、「最悪の状態の心臓病」から癒されたという体験の後、医薬品を全部捨て、保険を解約し、その後一切の医療を拒否した。
Parhamは、1900年にベテル大学を創立したが、1年後には廃校になった。1901年1月1日にそこで起った事件が20世紀のその後のキリスト教を分裂させた。

 ベテル大学の聖書科の教え方は独特で、「当時流行していた『チェーン式引照方法』、つまり、おもなトピックを聖書に現れる順に読みながら学んでいく方法」を使っていた。言い扱えると、コンコーダンスを使って、鍵になる言葉を探しながら学んでいたのだ。聖書を全体的に、一つの書物として学んでいたのではなかった。だから、どんな聖句も大きな文脈の一部とは考えられなかった。すべての教理は聖書の索引を調べて結び合せ、正しい文脈から離れて学ばれた。したがって、適切な説教や注意深い釈義は不可能だった。しかし、Parhamは、「開校して、学生はホーリネス運動の主要教理を学び始めた」と記録している。

 カリスマ派の歴史家vinson Synanは、「何年もの間、Parhamは、聖霊のバプテスマに関するさまざまな見解に特に関心を持っていた。1890年代までには、ホーリネスの信者のほとんどは聖霊のバプテスマと聖化の体験とを同視するようになっていた。聖霊の炎は生来の罪から心を聖め、他者に証しをする力を与え、勝利の人生を歩ませると教えられていた。それでも、第二の祝福を最初に強調したジョン・ウエスレーの頃から、そのような祝福を受けたという一般に認められる証拠は一つもなかった。この問題を学生に提示して、Parhamは、ホーリネスの信者には[聖霊の]バプテスマを受ける証拠について違った教理があると説明し

た。例えば、『ある人は叫んだり、飛び上がったりして祝福や証明を主張する』と話した。それと同時に、Parhamは、宣教師たちが時間をかけて外国語の勉強をする必要がなくなるように、異言で外国語を流暢に語る可能性があると何年間も教えていた」と記録している。

 Parhamのクラスのカリキュラムは彼の興味を優先して決められた。彼は学生やコンコーダンスを用いて自分の疑問を解こうとしていた。「1900年12月の暮に(中略)parhamは学生に通常とは違う宿題を出した。彼は、その週末にカンサスシティの教会で説教することになっていたので、自分のクラスの学生に、『賜物は聖霊のうちにあり、聖霊のバプテスマによって、賜物も恵みも現されるべきだ。そこで、学生諸君。私の留守中に、このテーマに何の疑いもないと言えるような[聖霊の]バプテスマが与えられたという証拠がないかどうか確かめておけ』という課題を出した。12月30日に帰ってから、Parhamは、学生全員が一致した結論に至ったことを知った。そのレポートは、『ペンテコステの祝福が下
ったとき、いろいろと違ったことが起ったが、(中略)それぞれ起ったことについての争えない証拠は、彼らが皆、他の国の言葉で語っていたという事実である』というものだった。この結論の下で、学校全体が、異言を語るという証拠でペンテコステの力を回復しようと合意した」のだ。

 そのように、異言という証拠で聖霊のバプテスマを見、たぶんそれを受けた近代で最初の人はparhamの学生の一人だった。1901年の元旦は学生会が[聖霊の]バプテスマを求める日になった。今世紀初日の早朝にトペカ市にある小さな学生の集まりが祈祷会を始めた。数時間経っても異常なことは起らなかった。ところが、「その日の午後、Agnes Ozmanという30歳の学生がparhamのところに来て、聖霊を受けて、使徒のしるしである異言が語られるように按手してほしいと頼んだ。彼女は、『彼が祈りながら手を私の頭に置くと、私は異言を語りながら、神をほめたたえ始めた。私は幾つかの言語を語った。それは(方言)を語るときに現れた。神に栄光あれ」と証言した」。

 その後、他の学生たちも[聖霊の]バプテスマを受けたと報告した。ほとんどの者が異言を語るのを止められず、英語で話そうとしても他の言語が出てくると証言した。そこにいた者は皆、認識可能なこの世の言語が語られたと信じている。

 事実、Agnes Ozmanは自分の体験を紙に記録しようとしたら、自分の習ったこともない中国語を書いているのに気づいたと主張している。

 これらの体験は聖書全体を通して完全に検討されたのだろうか。異言に関する聖句の注意深い釈義がこれらの学生の体験の解釈に用いられたのだろうか。また、これらの出来事がもしかしたら悪魔による現象かもしれないとも考慮されたのだろうか。Synanは全く逆に、「この体験が、異言こそ実際に聖霊のバプテスマの最初の証拠であるというparhamの証言や教理を証明した」と記録している。もうこれ以上、このことに関する聖書の学びは必要でないとみなされたのだ。こうして、ペンテコステ派が誕生した。
 
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