天国旅行:

 「聖書を土台としている」福音派のクリスチャンを

 第3の波にいざなうために、セールスポイントである「体験」は大きく強調される。

 

 
 
 

 天国に行って来たと言い、そのことを語るカリスマ派の人物はCollettだけではない。1976年の夏には、「The 700 Club」というテレビ番組で、Marvin Fordは、死んで、天国へ行って、戻って来たという体験を語っている。Fordは、そのときしていたネクタイには天国の香りが残っており、そのときの体験を思い出したいときはいつでもそのネクタイの香りを嗅ぐのだと言う。

 今、売り出し中のカリスマ派の若い指導者はRoberts Liardonだ。彼は8歳のときに、主イエスを個人的な観光ガイドとして、天国旅行をしたと言う。彼は回顧して、「多くの人が『主イエスはどんな方か』と聞く。主の身長は6フィートぐらいで、薄茶色の髪だ。髪の毛は長くもなく短くもない。主は完全な方だ。主は姿においても、話し方においても、何においても完全だ。それが私の記憶だ。(中略)少し歩いた。そして、『これが私の話の最も大切な部分だ』が、神の御座から500〜600ヤード離れたところに三棟の非常に長く、幅の広い倉庫があった。(中略)最初の倉庫に入った。主イエスが後ろで表の戸を閉めたとき、私は内部を見てショックを受けた。建物の片方には、多くの腕や指やその他の人間の身体の各部が置いてあった。足が壁にぶら下がっていたが、ごく自然に見え、少しも、不気味ではなかった。建物の反対側には、緑色や茶色や青色などの目玉をきちんと入れた小さな容器がたくさん棚に載せてあった。『この建物は地上で人間が必要とする身体のあらゆる部分を貯蔵している』が、人々はこのような祝福が天国で彼らを待っているとは知らない。(中略)聖徒用も、罪人用もあった。主イエスは私にこれらは未受領の祝福だ。この建物はいっぱいであるべきではない。毎日空っぼになるべきだ。信仰を持って、ここに来、自分に必要な部分やあなたが出会う人に必要な部分を取れ』と言った」と語る。
 
 

 Liardonは、多くの信じられない天国の光景を描写する。「生命の川」、ヘブル12章1節に語られている「雲のような証人たち」と言うべき人々でいっぱいの競技場や「聖霊の投与過剰」というラベルの貼られた薬のビンの入った棚などだ。

 また、「主イエスと私は『生命の川』の一支流に行った。そこは膝までの探さで、水晶のように透き通っていた。靴を脱いで入った。一番初めに主イエスが私に何をしたと思うか。主は私を水中に突っ込んだのだ。私は立ち上がって、主に水をはねかけ、水合戦が始まった。互いに水をかけ合い、笑った。(中略)栄光の王、神の御子が小さな8歳の私のために時間をさき、『生命の州に沈めたことは極めて意味深い。私は天国に戻ったら、その場所に記念碑を立てるつもりだ。それには『ここはイエス・キリストが私の主であり、救い主であるだけではなく、私の友になった場所』と書くつもりだ。そうだ。主イエスが私の友になったのだ。
 今や、私たちは共に歩き、共に話すのだ。面白い話を開いたら、主イエスのところに走って行って、主が笑うのを聞くことができる。そして、主が面白い話を聞いたら、私に話してくれる」と言う。

 Liardonは、天国にいる間に、主イエスご自身から按手を受けたと主張し、「私たちは黙って、しばらく歩いた。主イエスが振り返って、片手で私の両手を握り、もう一方の手を私の頭の上に置いて、『Roberts。わたしはあなたを大きな働きのために召す。誰よりもよく走り、誰よりもよく説教し、他の人と違った人になれ。(中略)行け、行け。誰も行かなかったように行け。行って、わたしがしたことをせよ』と言った」という。
 Liardonの天国旅行は1973年のはずだ。しかし、彼はこのことを8年間誰にも話さなかった。主イエスはもう二回来たという。二回目はあまりにも恐ろしくて、何も話せないという。しかし、三回目はもう少し現世的だ。「三回目に主イエスを見たのは11歳のときだ。家でテレビを見ていたら主イエスが表の戸を通り抜けて入って来て、ソファーに座っていた私のそばに座り、ちらっとテレビを見ると、そこにあったすべてのものが消えた。電話もテレビの音も聞えない。聞えるのは主イエスの声だけ、見えるのは主イエスの栄光だけだ。主は私を見て、『Roberts。わたしのために戦った戦士たちの生涯をよく学び、彼らがなぜ成功し、なぜ失敗したかをよく知れ。そうすれば同じ失敗を繰り返さないですむ』と言った。主が立ち上がって、戸を通り抜けて出て行ったら、テレビが元に戻り、私は見ていた番組の続きを見た」と言う。

 今やLiardonも大人になり、カリスマ派の巡回講演では大変な呼び物となっている。月刊誌『charisma』には、ほとんど毎月、彼のミニストリーの広告が大きく出ている。だが、彼の天国の説明はばからしいほど滑稽だ。主イエスと面と向かって話した者がテレビ番組を見続けるなんて信じ難いことである。
 大多数のキリスト者は、彼の話が露骨な冒涜でないなら、ばかげた作り話として打ち消すだろう。しかし、カリスマ派の世界では、このような話もそう簡単には取り消せない。多くの人がこのような話を聞いて、自分も同じ体験をしたいと望むのだ。その結果、天国への遠足は粋なもの、つまり、何か通常でないものを求めている者にとって「究極の体験」となり、多くの者がその旅行をしたと言うのだ。1977年4月11日に、ロサンジェルス市のカリスマ派のテレビ局が、死んで、天国に行って、帰ってきたというRichard Ebyのインタビューをした。Ebyは、バルコニーから落ちて頭を打ち、死んで、「パラダイス」を体験したと言う。以前には目が弱かったのに、今では眼鏡も要らなくなり、100マイルも先が見えると言う。身体も素晴らしいものとなり、どこへでも思いのままに動くことができ、目には見えるが、透き通ると言う。

 Ebyは、「ある花を見つけ、折ったところ、茎の中に水がなかった。『それは主イエスが生ける水』だからだ」と言う。
 Ebyは、「天国はささげ物の甘い香りでいっぱいだ。人間の脳には12の脳神経があり、12の神経はイスラエルの12部族を表す。神の頭蓋の第一の神経は嗅覚だ。ささげ物の目的は、神の第一の神経を満足させるために天国に甘い香気を、送ることである」と説明した。        番組のホストは、Ebyが話している間中、「驚いた。素晴らしい。これは内容が深い」としきりに言っていた。

 内容があるだろうか。聖書は、Ebyでも誰でも、天国で空中に浮く透明な身体を持つとは一言も言っていない。復活のキリストもそのような身体を持っていない。実際、聖書によれば、キリストの再臨の時に身体が復活させられるまでに信者が天国で身体を持つことはない。  

 ささげ物の甘い香りの話をするにあたって、Ebyは聖書の犠牲を全く誤解している。犠牲のおもな特徴は動物の死であって、肉の焼ける臭いではない(へブル9:22参照)。  12の脳神経がイスラエルの12部族を表すというのは、二つの目を持つことが黙示録11章の二人の証人を表すというのと同じだ。ある医師に12の脳神経について聞いたら本当は12対つまり、24あるということだった。そうなら黙示録4章の24人の長老に対応すると言ったほうがよいだろう。

 神の御言葉にいい加減な混ぜ物をすることは、すべてのキリスト者の心を悲しませる。Ebyは放送中に聖書的根拠について問われなかったのか。全然。それどころか、彼の話は、本質的に深い真理であることを意味して、「内容が深い」と評されたのだ。何より深いのだろうか。聖書だろうか。そうではないはずだ。カリスマ派は「体験が体験を有効にする」という立場なので、誰も、体験したというEbyの主張に旋問を呈せなかったのだ。Ebyの作り話は、何百万ではないとしても、何万という家庭で、「神が今している素晴らしいこと」の一つとして聞かれたのである。
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