第三の波は福音派の伝統の上にある?

 

 
 
 

 第三の波の主張を聞いて、第三の波とは、本質的には、伝統的・聖書的な神学に強く依拠した保守的福音派から構成されていると考える者がいるが、事実は違う。
 第三の波の教理的類別は困難だ。信仰箇条や信条は第三の波の目印でない。WimberのVineyardは典型だ。「Vineyardのもう一つの混乱的側面は信仰箇条の欠如だ。Vineyard会員は教派的背景はさまざまなので、明瞭な教理基準の制定を避けている。教理の非強調は、John WimberとBob Fulton(カリフォルニア州ヨーバリンダ市のVineyard牧師)の指導に共通だ。彼らの神学的背景は、神との内的体験を強調し、神理解の教理的表明の必要を極めて小さくするクエーカーと関連している」。

 それにもかかわらず、第三の波は自分たちを歴史的福音主義の主流に位置づけようとする。第三の波特有の証言は保守的なルーツを強調し、ファンダメンタリスト(根本主義者)とさえ主張するものだ。Wagnerは、「私の背景は『スコフィールド・バイブル』のデイスペンセーション的な福音派だ」と言う。彼は第三の波を「『福音派』の中での聖霊の新しい運動」と主張する。

 このような断定は疑問だ。第三の波は広範なエキュメニカルで、混合(宗教)的でさえある。第三の波の福音的虚飾は注意深く作られたイメージであり、第三の波を非カリスマ的な福音派に売り込もうとするための巧妙なマーケティング・キャンペーンの極めて重大な要素なのだ。Wimberは『power・points』で、同書の教理内容を歴史的福音主義の範囲内に収めようと過度の注意を払う。「この本は予定よりも一年長くかかった。その理由の一部は、霊的成長に関する私たちの見解を歴史的・正統的神学に根拠づける気遣いだ」と。しかし、
「歴史的・正統的神学」が本当に第三の波の教理の中心にあるか。否だ。

 wimberは、福音主義と同等にカトリックの教義に満足し、前述の通り、聖遺物による癒しというカトリックの主張を擁護し、プロテスタントとカトリックの再一致を主張する。かつての同僚が、「Vineyard牧師会議中に、(wimberは)全プロテスタントを代表してカトリック教会に『謝罪』に行った」と言う。
 wimberは教会形成セミナーで、「教皇はカリスマ運動に非常に共鳴的で、再生した福音派だ。救いに関する教皇文書を読めば、世界で今、福音を宣べている者と同じく明瞭に福音を宣べていることがわかる」と言う。

 Wimberの『Power Evangelism』の補遺は、全数会史を通じてしるしと不思議が起ったと確定しようとする。彼は、正統でも異端でも、個人や運動の目録を証拠として引用する。その中には、ヒラリオン(4世紀の隠遁者)、アウグスチヌス、グレゴリウスー世(大教皇)、アッシジのフランシスコ(フランシスコ会の創設者)、ワルドー派(教皇に反対し、ドミニコ会から迫害された)、ビンセント・ファーラー(ドミニコ会員)、マルチン・ルター、イグナチウス・ロヨラ、ジョン・ウエスレー、ヤンセン派(カトリックの分派)がいる。Vineyardの小冊子で、Wimberはシェーカー(独身主義を主張するカルト)、エドワード・アービング(19世紀英国アービング派の不名誉な指導者)、フランスのルルドの処女マリヤの現れによる奇蹟や癒しを加える。

 Wagnerは、Robert Schullerの「可能性思考(possibility thinking)」をキリスト者の体験の全く新しい次元と紹介する。彼は、「Schullerは多くの人々に、大事を行う神を信じさせた」と言う。また、彼は、韓国の牧師パウロ・チョー・ヨンギの、仏教とオカルトに根ざした「四次元」思考を保証する。
対立する見解を包含し、混合しようとするWagnerの意図は、彼の言葉で明白だ。「私は最近、霊性の意味について6人のキリスト教指導者が討論するシンポジュウムに出席した。彼らが異なった教派的背景なので、ある程度は予想できたが、あまりに意見が分れていて驚いた。後で、私は、おそらく誰も 『間違い』ではないと感じ、各々が各々の道で正しいのだとわかった」と。
 

 これは真理に村する第三の彼の方法論の要約だ。誰もが正しいのだ。カトリックは正しく、聖公会高教会派は正しく、聖公会低教会派は正しく、シェーカーは正しく、クエーカーは正しく、福音主義も正しいのだ。
 しかし、第三の波は保守的福音主義を早々に放棄する。神の力は福音派神学にないと結論するからだ。Don Williamsの『signs,Wonders,and the Kingdom of God(しるしと不思議と神の国)』の序文で、John Whiteは、第三の波の特徴的な視点を、「20世紀ファンダメンクリスト神学は、当初は、リベラル神学と面して、価値ある信仰の再確認だったが、徐々にリベラルに対抗するのみでなく、ペンテコステ運動にまで対抗する色彩を帯びてきた。そして、より対抗的になっただけでなく、神の力の芽を摘み、否定した。その時点の対抗は、聖書の真理の反映というより、聖書が語る事柄に目を閉す、無意識的不安の反映だ」と要約する。
 

 何がこの目隠しや無意識的な不安から解放できるのか。真理ではなく体験なのだ。「これがDon Williamsに起ったことだ。本の中で、彼は、主権的な力によって自由にされ、対抗的神学、つまり、自分を縛り、骨抜きにしていた神学の拘束衣からの離脱の体験を記している」。

 しかし、Williamsが「ファンダメンタリスト神学」に従っていたかは全く疑問だ。明らかに、彼の「対抗的神学」は超自然を真実とする保証を持たない。彼は第三の波に入る前の自分の考えを、「悪魔が敵というのは本当か。[人を]解放し、心に生命を形成する神の力はありうるか」と書いている。これらは「ファンダメンクリスト神学」の考えではない。明らかに、Williamsの神学には、キリストへの回心が心に生命を形成するという確信がなかった。彼の問題はおそらく、正確な対抗的神学では全くなく、完全に信じていない信条へのリップサービスだ。

 正確なところ、これが出版されている第三の波の証言のいずれにもある共通分母だ。おおむねすべての第三の波は「神学」を、体験からの本質的決別、学的なもの、拘束衣的教理、空虚な信条主義、死せる正統主義と言う。Wimber自身、Springerの『power Encounters』に登場する人と同様の背景を記す。「彼らのほとんどすべては、自分を福音派と同定する(中略)(が、)神についての教理と自分の体験との大さな乖離に気づく。(中略)(そこで)彼らのすべては、劇的に神と出会い、驚いた」と。

 その本は、登場人物の神学がかつては空虚・限定的・対抗的で、ある場合には、全く偽物であったと証言する。彼らは、自分の体験の中でそのようにはいかなかった真理を知的に信奉していた。今、彼らは体験を求め、その上に新しい真理体系を構築しようとしている。
 

 悪いことに、自分の思いだけで採用した真理の中に現実性を見つけ拐なうと、今度は、「空虚」で「限定的」とした真理に対抗して、誰でも真の生活を変える体験ができると信じるのを拒む。彼らは、健全な教理を主張する者は神とのいかなる正しい体験や出会いの可能性も非難しているのだと信じる。客観的な聖書の真理に応じて神の力を理解し揖なうと、彼らは、神の真の力は奇蹟的・感動的・神秘的体験を通じて現れると結論する。そして、福音的神学に従うと主張しつつも、それを無能で、本来的に欠陥品だと侮る。
 

 奇蹟的なことから離れた回心は不完全だと言う。しるしや不思議を見ないで福音に応じる者は「神の力に出会わない。それで、成熟した信仰に移行しない。その回心体験に不適切なものがあるので、その後の成長が遅れるのだ」。

 この見解の傲慢さは別としても、それがもたらす危険は大きい。実際に、終りの日のしるしや不思議について新約聖書が語ることはすべて、奇蹟を行って人を惑わす偽教師に村する警告だ。主イエスは、「にせキリスト、にせ預言者たちが 現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました」(マタイ24:24〜25。マタイ7:22〜23、テサロニケ2:3、8〜9参照)と言う。

 第三の波に足をすくわれないように。ある人や運動が神からのものか否かを知る唯一の正しい試験はしるしや不思議ではなく、神の言葉と一致する教えかどうかだ。今日の世界で神の力の最高の表明は、壮大で異常なしるしや不思議ではなく、聖霊に支配された生活からなる平穏な敬虔さだ。        -----------------------------7d5150280126 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream