聖書よりも体験を強調する第三の波

 

 
 
 

 第三の波は体験に重きを置くが、その指導者は熱心に、自分たちが、基本的に聖書的方向を持つ福音派の主流だと装う。Wimberの近著『power points(パワー・ポイント)』は、第三の波が聖書的依拠を欠くという多くの批判に応えようとする。Wimberは一節を設けて、聖書に関する基本的な教理の問題を扱う。彼は、神の言葉が十全霊感で、無謬で、教理と実践に関する霊的真理の最高の権威であると認める。
 しかし、Wimberら第三の波の指導者の関心が、聖書的であることより実用的なことにあるのは明らかだ。自分たちが全く聖書的だと批判者に認めさせようとするが、これも第三の波が果すことができない約束の一つだ。

 第三の波の指導者がときおり、混乱した信号を発しているようだが、それは彼らが何を信じるかで混乱しているのだ。第三の波の教理はきっぱりと聖書の充足性を否定する。神が今日、教会に新しい啓示を与えていると言うことは、実際には、聖書の完全性と充足性の否定だ。しかし、第三の波の指導者はそうは理解しないようだ。

 Jack Deereはカリフォルニア州アナハイム市のThe Vineyard Christian FellowshipでJohn Wimberの補佐をしている。かつて有名な福音的神学校の旧約聖書の教授であった彼は、第三の波運動の中では最も神学的な指導者の一人だ。彼は最近、個人的な集会で私に、聖書の充足性を信じ、認めると語った。ところが彼は、1990年にシドニー市で行われた「Spiritual Warfare Conference(霊の戦い会議)」で、「A Demonic Doctrine Illustrated(図解・悪魔の教理)」という項目のある印刷物を配ったが、その中で、「私たちの人生に村する神の最高の計画を成就するためには、書かれた言葉と天から新たに語られる御言葉の両方から神の声を聞くことができなければならない。(中略)サタンはキリスト者が神の声を開く戦術的重要性を知るので、この領域でさまざまな攻撃をするのだ。(中略)結局、神学者が完全にしようとする(聖書の充足性の)教理は悪魔的だ」と言う。

 私たちは「天から新たに語られる御言葉」を必要としない。聖書の中には永遠に立つ神の言葉(イザヤ40:8)、「聖徒にひとたび伝えられた信仰」(ユダ3節)があるからだ。聖書の中で「いのちと敬虔に関するすべてのこと」(_ペテロ1:3)を見つける。聖書は完全かつ完結であり、キリスト者生活に必要な一切の源泉だ(詩篤19:7〜11)。このような基本的な真理を否定する教理体系は聖書的であるとは言えない。 第三の波を特徴づける新しい啓示への渇望は、現実に聖書の充足性を低く見る結果となる。聖書外の体験を神の十分な祝福の受領に不可欠なものとして、第三の波は、真に聖書的ではありえない教理体系、大部分が主として主観的で実用的な教理体系を作り出した。

 Wimberは自分の強い実用的傾向を認める。彼はフラー神学校在学中にその影響を受けたとし、「教会成長の分野での多大な貢献で世界的に知られるDonald McGavranが、私に強烈な実用主義を鼓舞した。彼に影響されて、私は、今までのような教会生活には決して満足できないと知った」と言う。

 確かに、フラー神学校から出た教会成長運動(church−growth movement)の限りない実用主義は第三の波と同調だ。教会成長運動は、教理的に健全であるか否かを問わず、すべての成長している教会を調査し、しばしば、用いられている方法が聖書的か否かの考察をすることなしに、成長に貢献する特徴を把握しようとする。これは「功利主義」で、有益ならその行為は正しいとする哲学だ。ある人はPeter Wagnerの功利主義的視点を、「Wagnerは誰にも負の評価をしない。彼は、批評的な問題を問うことなく、成長する教会の良い点を見つけ、それを確証してきた。このことは、彼がwimberの『Vineyard』のみならず、Schullerの『crystal Cathedral』、すべての南部バプテストの教会、その他成長している教会ならヌんな教会でもモデルとするのを可能にした」と記す。

 Wagnerは自分の実用主義的態度について率直に、「私は、今日、宣教大命令を実現するための重要な手投として力の伝道を支持する者の一人であることを誇る。私が熱心な理由の一つは、それが働いているからだ。今日の世界で最も効果的な伝道は超自然的なカの表明を伴う」と言う。
 Walter Chantryは、「教会成長の統計への過度の注目は、力の伝道を群衆が必要とする神学から遠ざけた」と指摘する。

 第三の波は、一方では、聖書的だと主張し、他方では、実用主義的だと認める。
 両者が真か。明らかに否だ。実用主義の関心は、主として、「効果があること」にある。聖書的思考の関心は、ただ「聖書が語っていること」にある。この両者は通常、根本的に対立する。第三の波では、効果があることが聖書的なものと対立するとき、実用主義的議論のほうに傾くのがほとんど常だ。このように、体験が実用的かつ神学的議題を決定するのだ。

 wimberは、「私は、体験により自分の神学に重大な変更を来した多くの福音的な神学者と話した。私たちは常に自分の体験に影響されており、それを認める謙虚が必要だ。(中略)聖書の中の一定の真理は、ある体験をするまでは理解不能だ」と言う。しかし、真の聖書主義者は、聖書のより正確な理解に直面するまでは、その神学を変えない。

 Wimberは、その真理を自分の教理体系の中に取り入れようとし、「神は、聖書の中で教えることをより深く示すために私たちの体験を用いて、私たちの神学や世界観の要素を何回も変える」と言う。彼が理解していない問題点は、体験には誤りがありうるが、神の言葉には誤りはない点だ。聖書的視点の目標は、私たちの体験を聖書の光の下に服させ、神の言葉が私たちの理解を定めることだ。もし体験で聖書を検証するなら、確実に誤りに陥ろう。聖書的でありたいとの願いにもかかわ?ず、第三の波は体験中心の聖書解釈を許容し、効果があると思うことへの功利主義的傾倒によって、聖書的な神学から離れてしまう。

Wimberは、カトリックの聖遺物の効能の教理を取り込む。1981年に「The Vineyard」主催の癒しセミナーで、Wimberは、「聖人の聖遺物に触れて人々が癒されるということが、カトリック教会では、この1200年間、普通に起っている。プロテスタントには沿わないが、私たち信癒師にはそうではない。神学的に不調和はないからだ。私たちがしているのは、人々に信仰への接点を与えることだからだ」と言う。

 wimberは、悪魔論についても奇妙な概念を作り出す。「多くの悪霊が身体を持たない。(悪霊が)身体を持つことは車を持つようなものだ。悪霊は走り回るための車を持ちたい。身体を持たないと、二流の悪霊だ。一流の悪霊ではない。冗談を言っているのではない。そのように働く。そのように、身体を持つことは大事だ。それこそ、悪霊が諦めようとしない理由だ」と。

 これは珍奇で、非聖書的だ。しかし、第三の波では通用する。なぜなら、聖書的と呼ばれるためには、その教えが聖書から引き出されたものでなければならない、という必然性がないからだ。有名な聖句との明らかな衝突を回避しさえすればよいのだ。

 この指針さえ、時には見られない。Wimberのイエス・キリストの人格に関する教えは、良くて軽率、悪くて狡猾で、いずれにせよ、明らかに聖書と矛盾する。癒しのセミナーのテープで、Wimberは、「主イエスは万事を知ると教えられてきた。福音書には何回も主イエスが知らない場合があり、主は尋ねなければならなかった」と言う。キリストの全知を否定している。同様に、恐ろしいのは、「主イエスはしばしば、他人の信仰で働いた。主はしばしば、他人の信仰の頂点に立った。主に癒しの信仰がほとんどないか全くないことが何度もあったと私は信じる。主に、別の時より多くの信仰があることが何度かあったと私は信じる」と言うことだ。

 信仰の不足と闘う主イエスの姿は、福音書が描く主の姿とは全く反対だ。
 Wimberは、自分の想像と体験から、新約聖書の主イエスではなく、自分に馴染みのあるイエス像を捏造しているのだ。

 聖霊の力が人に降るときには、震え、身震い、転倒(「slain in the Spirit(聖霊に打たれる)」状態)、激情の至福状態、跳び跳ね、蟹のはさみのようにしての両手の収縮、体の歪曲、身体の硬化、まぶたの振動、荒い息づかい、熱い感覚、発汗、胸の重みの感じなど、さまざまな肉体的現象が起るとwimberは言う。もちろん、人における聖霊の働きにこのような感覚が伴うと聖書は言わない。これらは、聖霊の実(ガラテヤ5:22〜23参照)というより、オカルト的な現象や自己誘導的な体験のようだ。

 第三の波の指導者は外部のキリスト者に、自分たちが信仰と生活の最終的な規準としての豊富によく従っていると納得させようとするが、一般にその教理を体験の上に築き、後から、それを追認する聖書的根拠を見つけようと苦労する。マスターズ神学校神学助教授Ken Sarlesは、「Wimberの二冊の主著、『Power Evangelism(力の伝道)』と『power Healing(力の癒し)』は、物語や逸話や例話でいっぱいだ。しばしば、その物語が教理の基礎となっている。多くの聖書の引用があるが、例話で説明している」と指摘する。

騒いの余地なく、ほとんどの第
三の波の書物がこの傾向を帯びている。第三の波を紹介する書物は、一人称の話に重点を置いている。ときどき聖書の引用が織り込まれているが、それが第三の波の教理の礎石となることはほとんどない。聖書の記事が本来のコンテキストで扱われるのは稀だ。代りに、[コンテキストとは]かけ離れた聖書の記事や箇所が根拠聖句や描写目的に用いられる。

 Kevin Springer編『power Encounter』はこの傾向を顕著に現す。この本は、劇的で神秘的な体験を経て第三の波に加わった人々の証し集だ。この本に登場する誰一人として、聖書を学んでから、第三の波が神の働きだと確信して参加した者はいない。すべての人が体験によって入っている。

 聖公会牧師Mike Flynnは、神学校在学中のチャペルでの体験を、「私はやめようと決心した。何をどうやめるのか、よくわからなかった。神学校か、結婚か、宗教か。それを見いだす機会がなかった。聖餐のために祭壇の前に行き、司祭が私の手にパンを置いたとき、何か命じられたのではない、予期しない、驚くことが起った。突然、電気のようなものが走った。私はそれを考える余裕がなかった。杯を持った別の司祭が近づいて来たからだ。興奮が劇的に高まった。司祭が杯を私の隣の人に渡したとき、耐えられない過度の驚き状悪だった。そこを立ち去らなかったのは恥ずかしかったからだ。
杯が私の口に触れたとき、頂点に達した。私は火山が頭の上で噴火するように感じた。私が白い閃光を発し、皆は私をぼかんと見ていた。私の内側は電気的興奮で大願動だった」と記す。

 Flynnは、その体験がわからず、その後再度それを求めたが、最終的に諦め、「その体験を曲り角に駐め」、そして冷笑的で反体制的となり、道徳的退廃者になったと言う。
 Flynnは、欲求不満となり、刷新を求めた。「私は、『結構だ。神とのあの関係を得るために、感情的におかしくなる必要があるなら、そうなろう』と言ったと思う」。突然、彼はあの祭壇の前での体験を思い出し、「その体験を思い出したとき、再び起った。私は知った。私の生活が変えられたのだと知った。それは1972年8月22日だ」と言う。

 しかし、その体験もまた、半年後になくなった。ついに、Flynnは祈ってもらうために一人の女性を訪ねた。「彼女は私の座る椅子の後ろに立って、祈るとき彼女は身体を揺するが心配しないよう注意した。手を私の頭の上に置き、暫時沈黙した。そして、神が私に記憶の癒し(今日では「inner healing(内的癒し)」と呼ぶ)の油注ぎを与えられるよう祈った。私はそのための油注ぎは欲しなかったが、彼女に告げることができなかった。無駄な時を過したと思いながら、家に帰った。しかし、二週間後、一人の女性が私の部屋に来て、夫の暴力から来る深刻な結楯問題を話した。

彼女には傷ついた感情の癒しが必要だった。私は暫時心の中で神と語らい、彼女のために祈ることに同意した。しかし、どう祈るかについて一片の思いもなく、戸惑った。私は行く所どこでも、王座の主イエスを見るという、視覚的なキリストの臨在を実践していた。そこで私は主イエスを見た。主は御座から下り、彼女の傍らにひざまずき、腕を彼女の肩にかけ、左手を彼女の心臓に伸し、黒いゼリー状の物を引っぱり出した。主はそれを自分の心臓にはめ、消えてなくなるまで縮めた。主は再び自分の心臓に手をやり、白いゼリー状の魂を取り出し、かつて暗闇であった彼女の心臓に、注意深くはめ込んだ。最後に、主は私のほうを向いて、『それをしなさい』と言った。ばかばかしいと思ったが、主イエスがなしたことを大声で祈ると、その女性は即座に癒された」。

 内的癒し、視覚化、温熱感覚、電気感覚は、ニュー・エイジやオカルト現象の言葉で、聖書的キリスト教と無関係だ。事実、Flynnはその証しの中で、たった一か所、聖書に言及するのみだ。ヨハネ15章5節の「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」だ。
 証しの終結部で、Flynnは、「知識の言葉(word of knowledge)があなたの中でどう働くか知らないが、私の中では、ほぼ常に、内的な日の軽打だ。聖霊は半ささやき(whis)で語る。感情のレベルでは、知識の言葉を語るとき、私が嘘を言う感じだ」と認める。明らかに、彼自身、それが神からのメッセージであるとの確信がない。私の判断では、嘘を言っている感じがするなら、嘘を言っているのだろう。しかし、彼は恐ろしく厚顔だ。彼がフラー神学枚で「しるしと不思議」の講義をしたときのことを回顧し、「講義の終りに、聖霊の降臨を祈った。相棒のLloyd Harrisと車で帰るとき、冗談で、『今日は25回も嘘を言ってしまった』と言うと、彼はその意味を知って笑った。というのは、私は25回、知識の言葉を語ったからだ」と言う。
 

 このような不謹慎な見解が聖書の真理と同列だと真面目に考えうるか。
 Wimberの信仰歴は明らかに、聖書を捨て、体験に重きを置く典型だ。彼の人生の転機や人生観の変更は、神の言葉にでなく、神秘的な体験によっている。彼は、彼の妻が「a personality meltdown(人格溶融)」した後、カリスマ的賜物に開かれた。「ある夜、夢を通して、妻が聖霊に満たされた。(中略)彼女は起き上がり、異言を話したと言う。癒し、幻、夢、神からのメッセージ、奇蹟的な出来事等といった一連の体験が、今日のJohn Wimberの全数理の基礎である。

 Wagnerも同様の方法で今の立場に至った。彼は、「変化させたものは何か。どのように私は180度変ったのか。その過程に15年間費やした。最初は、1960年代後半に、『忘れえない体験をした』」と言う。この決定的な15年間を観て、彼が転換点と呼ぶものは、彼に影響を与えた人と体験だ。彼の「世界観の変更」の理由の一つも聖書の個人的な学びからは出ていない。

 Wagnerは、彼の友人で「Overseas Crusades(海外クルセード)」の副会長のEdward Murphyが、「聖霊が新しいキリスト者に入る瞬間、悪霊は自動的に追い出される」と信じたという雷[しかし、今は]Murphyはその見解を採らないとWagnerは言い、「彼の宣教師体験が彼の心を変えた」と言う。

 このような人の神学の形成は極めて危険だ。霊的事項の最終権威は神の客観的な言葉ではなく、人の主観的な体験になる。聖書がキリスト者の信仰と生活の唯一の規範という本来の位置から降ろされ、人の体験を確証する二次的な役割に退けられている。体験が聖書に見いだされず、聖書の真理と矛盾するときには、聖書は無視されたり、再解釈される。体験を聖書より上に上げることは、自己を神秘的主観主義という大海に漂流させることだ。

 Christian Research Institute(CRI/キリスト教調査研究所)の出した、WimberのVineyard運動に関する報告は、「Vineyardには、一定の実践的事項に関しては多くの教えがあるが、聖書自身を教えることはほとんど強調しない」と正当に結論する。

 同報告は、「聖書の教えをあまり強調しない反面、キリスト者生活における体験の役割を強調しすぎるようだ。Vineyardには、自己の霊的体験を自己を立証するものと見る傾向がある。また、自分たちの中で起ることを何でも神からのものと考える傾向だ。それは、指導者が自分たちの体験を聖書的と示そうとしないというのではなく、体験が極めて頻繁に彼らの出発点となっているということだ」と続ける。

 明らかに、第三の波は、劇的で壮大な体験への飽くなき渇きと結びついた、恐ろしい実用主義の子孫だ。反対の主張にもかかわらず、その基本的な志向は非聖書的だ。
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