キリストの十字架や贖罪の教理への言及がないジョンウインバーの

本「力の伝道(Power Evangelism)」


 それは、第三の波の第二の誤った約束に導く。第三の波が押し売りする「力の伝道」は全く伝道ではない。第三の彼の方法論は福音の力を全く鈍らせる。
第三の波は、救いのメッセージを省略したり歪曲する罪を犯している。これはゆゆしいことだが、数多くの証拠がある。第三の波の本や証言は、福音が宣べられたとの記事ではなく、目撃した奇蹟でキリスト者になったとの奇談でいっぱいだ。おそらく、福音は宣べられたのだろうが、第三の波の証言はほとんどそう言わない。福音のメッセージの重要性を汚すことを繰り返し、福音を不必要としているようだ。第三の波運動はこの傾向で囲まれている。

 第三の波の伝道のおもな教科書であるWimberPower Evangelism(力の伝道)』には、キリストの十字架や贖罪の教理への言及がない。この欠陥を指摘され、Wimberは、十字架、キリストの死、義認、再生、その他関連する問題に(200ページを超える本の)13ページを当てた新しい本を出版した。しかし、伝道の方法に極めて重きを置き、救済論や正確な福音のメッセージは第三の波の主たる目標とは思えない。しるしや不思議の大騒ぎの中で、福音のメッセージの内容はほとんど第三の波の関心ではない。

 シドニー会議の伝道集会の印象を、Mark Thompsonは、「そのチームは伝道に関心を示していると主張した。John Wimberは、自分がこの仕事から人々を反らそうとしているのを否定するのに特に苦心した。結局、彼らは木曜夜のSydney Showground(シドニー劇場)での『Healing and Evangelistic Rally(癒しと伝道のラリー)」を計画していたではないか。二つのことが、彼らの主張する関心を格下げした。

第一に、会議期間中に私の出席した全体会でも分科会でも、主イエスの十字架にはたった一度、短く触れただけだ。(中略)第二に、もっと深刻なことに、いわゆる伝道集会には福音がなかった。主イエスの十字架は中心でなく、購いは説明されず、人類の必要や購罪の提供は少しも取り扱われなかった。主イエスと使徒の模範に従う者と自己を信じて、John Wimberは、癒しを必要とする背中の悪い人、短い足の人、首の痛い人、あらゆる病気を持った人を呼び出した。彼らは立つように言われ、John Wimberが壇上で聖霊の降臨を求めている間、チームのメンバーが分れて、彼らのために祈った。二、三分の沈黙の後、悲鳴が幾つか聞え、人々がすすり泣いた。しばらくして、Wimberは、人々が癒され、不信者に村する証拠やしるしとして、神がそれを与えたと宣言した。要するに、人々は、自分が見たことに基づいて、いや、むしろ、彼らが見たことをwimberが解釈した内容に基づいて決断をするように求められた。世の罪のためのキリストの犠牲は根拠とされていなかった。私は、その夜人々が持った信仰とは何かと怪訝に思いながら帰った。それは、名前のほかは、新約聖書のキリスト教とは似ても似つかぬものだ」と言う。

 第三の波の伝道戦略自体が福音のメッセージを傷つけている。その強調はしるしと不思議にあり、神の言葉の宣教にはない。それこそ、アルゼンチンの伝道者Omar Cabreraの信じ難い成果に、「Cabreraの集会では、説教が始まる前に、人々が救われ、癒される」とwagnerが驚嘆しうる理由となる。一体
福音を聞く前に、どうして救われるのか?Wagnerは、自分が語ったことを説明しようとしない。 第三の波は、人々の心に信仰の反応を起させるには、福音のメッセージよりも奇蹟のほうが効果的だとの印象を与える。Wagnerは、「キリスト教は、紀元33年頃、二階の間にいた120人とともに始まった。3世紀の間に、ローマ帝国の主たる宗教となった。何によるのか。(中略)答は至極簡単だ。キリスト教は言葉と行いを未信者に提供したが、伝道効果において言葉をはるかに超えたのは行いだ」と言う。

 

キリストの十字架も贖罪も書かれていない

ジョン ウインバーの「力の伝道」本

 

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