しるしと不思議が人を救いに導くという第三の波の非聖書的な教理


 癒されなかった人々には、どんな説明をするのか。Wimberは最初、この点について曖昧でなかった。「祈っても癒されない原因は幾つかある。そのほとんどはある種の罪と不信仰だ。
●癒しの神信仰を持たない(ヤコブ5:15)。
●個人的な、告白されない罪が神の恵みをさえぎる(ヤコブ5:16)。
●信者団体や家庭での根強い広範囲な不一致や罪や不信仰が、その団体の個人的構成員の癒しを妨げる(1コリント11:30)。
●その問題を引き起している原因の診断が不完全なり不正確で、正確にどのように祈ってよいかわからない。_ある人々は神がいつも即座に癒すと考え、すぐ癒されないと祈りをやめる」と。

 しかし、奇妙なことに、Wimberは、後になって、「病人が癒されなくても、不信仰を非難することはない」と言う。

 Wimberは自分の癒しの神学を十分に考えていなかったのだろう。明らかに彼は、肉体的疾患が信者への神の主権的な計画の一部であるとの聖書的原理を否定している。彼は、非常に多くの人が癒されない理由の説明に苦慮し、「癒しに来て、癒されずに失望した人々の数は絶えず膨らんでいる」と認める。
 しるしと不思議を強調する第三の波は、新約聖書の意味で正当なしるしと不思議に当るものを何も生み出してはいないのが現実だ。

 結局、主イエスの奇蹟こそ、私たちが評価を下す基準だ。主が地上での働き中になしたと同じほど多くのしるしや不思議をなす者は、主の前にも後にもいない(ヨハネ20:30、21:25)。主の奇蹟は、今日の「Signs and Wonders movement(しるしと不思議運動)」のものとは根本的に違う。心身症はない。すべて可視的で、証明可能だ。端的に言って、それが真のしるしであり、真の不思議である。それ以外に、主の癒しの働きから何を学ぶのか。奇蹟は未信者の心に真の信仰を生み出さない。「信仰は開くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)。

 死人のよみがえり、病人の癒し、目の不自由な人の視力回復、悪霊に対する権威などの主イエスの奇蹟にもかかわらず、イスラエルは主を拒み、十字架にかけた。その死のときには、120人の献身的な弟子がいただけだ(使徒1:15)。

 福音書には、主イエスのしるしや不思議を目撃した数多くの人々がいるが、彼らは不信仰のままだ。主は、コラジン、ベツサイダ、カペナウムなど、主が奇蹟をなした町を責める。悔い改めなかったからだ(マタイ11:20〜24)。ヨハネ2章23節は、「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた」と言うが、主イエスは彼らを真の信者でないと考えていた(2:24)。ヨハネ6章2節は、「イエスが病人たちになさっていたしるしを見たから」、大勢の群衆が主イエスに従ったと記す。ヨハネ6章66節は、その群衆の多くが、受け入れられない主イエスの教えを開いて、「離れ去って行さ、もはやイエスとともに歩かなかった」と言う。ヨハネ11章で、主イエスは死人の中からラザロをよみがえらせた。主イエスの敵すら否定しえない驚くべき奇蹟だ(11:47)。しかし、彼らは主イエスを信じるどころか、彼を殺そうと企てた(11:53)。ヨハネ12章37節は、「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった」とまとめる。

 初代教会でも大差ない。使徒3章で、ペテロとヨハネは生れつき足のきかない男を癒した。ユダヤ教指導者は奇蹟を否定しない(使徒4:16)が、その反応は救いの信仰とはかけ離れている。彼らは使徒に、主イエスの名で語ってはならないと命じた(使徒4:18)。
 旧約聖書のしるしと不思議の記録を調べよう。それも救いの信仰を生み出さなかった。神がモーセを介してなした力強いしるしや不思議にもかかわらず、パロの心は堅くなった。多くの奇蹟を目撃した世代のイスラエル人も、不信仰のゆえに荒野で死んだ。

 預言者のした奇蹟にもかかわらず、イスラエルもユダも悔い改めず、最終的に、捕囚になった。Wimberが「power encounters」の聖書的な根拠とする、エリヤとバアルの預言者との戦いが一例だ。それによるリバイバルは短命だ。幾日も経ないうちに、エリヤは生命の危険を感じて身を隠し(1列王19:4〜8)、神が最終的にイスラエルを裁くときまでバアル礼拝が続いた。

 第三の波運動の根底にある仮定は誤っている。奇蹟やしるしや不思議は、信仰や真のリバイバルを生み出すには無力だ。さらに、「Power‐encounter ministry」も、私たちの証言の全体を見誤っている。私たちは、奇蹟的なカでサタンの力に対抗するよう命じられてはいない。神の真理でサタンの嘘に対抗するよう命じられているのだ。

 しるしや不思議が重要でないと言うのではない。すでに見たように、それには特定の目的がある。それをなす者が真の神の使者だと示すのだ(ヘブル2:4)。

 しるしと不思議はしばしば人々の関心を引いて、福音のメッセージを宣べうるようにした(使徒8:6、14:8〜18)。しかし、救いの信仰は生じなかった。
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