第3の波の主張する死人のよみがえりはどれも、証明することができない

 

 
 
 

私は、神の超自然的な働さを信じている。今日でも、神は自然界および人間界に超自然的に介入している。神は自然的ないし医療的治療とは別に、人を癒すことができる。神にはすべてが可能だ(マタイ19:26)。神の力は初代教会以来、少しも衰えていない。事実、救いは常に神の超自然的行為だ。
 しかし、私は、神がモーセやエリヤや主イエスを用いて行ったと同じく、[今日も]人を代理人として奇蹟を行うとは思わない。私は、今日のカリスマ運動の主張する奇蹟・しるし・不思議は使徒の奇蹟とは違うと確信する。聖書と歴史から、新約の奇蹟の賜物のようなこと(奇蹟の賜物についての議論は第9章を参照)は今日起?ないと確信する。聖霊は、今日のキリスト者には使徒と比肩できる奇蹟の賜物を与えていない。

 だが、カリスマ派は極端な主張をする。神が死人をよみがえらせていると言う者がいる。例えばOral Robertsは、1987年のCharismatic Bible MinistryConference(カリスマ派聖書ミニストリー会議)で、「私がよみがえらせた死者のすべて話せない。私は説教をやめ、帰って死者をよみがえらせたことがある」と語った。フラー神学校世界宣教学部教会成長論教授のC.Peter Wagnerのような権威者もそれが起るとし、「私も、死者が今日も、世界中で文字通りによみがえっていると信じる。私がそう言うと直ちに、ある人がそれを『規範的』であると信じるのかと尋ねた。

オーラルロバーツ

 

個々の状況下では規範的であるかは疑わしいが、普遍的なキリストのからだにおいては規範的であろう。それは極めて異常な出来事だが、私はそれが年に幾度か起っても驚かない」と言う。john Wimberは、死人をよみがえらせることを、癒しのミニストリーの基本的な要素の一つとする。

 大切なのは、今日の死人のよみがえりのどれも証明不能ということだ。Oral Robertsの主張はどうか。よみがえらせた人の住所氏名を示せとの声に、彼は戸惑った。後日、彼は、1万人もの人の前で死んだ子どもをよみがえらせたという、20年以上も前の一つの出来事だけを示した。「Robertsが言うには、癒しの礼拝の最中に、聴衆の一人の母親が立ち上がって、『私の赤ちゃんが死んだ』と叫んだ。彼は子どもに向かって祈り、『動いた、私の手の中で動いた』と言った。(中略)彼は、彼が命をもたらしたと言った子どももその他の者も臨床学的に死んだと宣告されてはいないと認めた。『死にかけて息がない人と、臨床学的に死んだ人とは違うと思う』と言い、曖昧にした」。

 どう理解しようか。四日間も墓の中にいたラザロをよみがえらせた主イエスとは似ても似つかない。Wagnerが言うように、「死者が年に幾度か文字通りによみがえっている」のなら、そのうちの少なくとも一つくらいは証明できてもよいはずではないか。

 今日、奇蹟を主張する者はそれを立証できないのが現実だ。通例、未信者の群衆が見る中で行われた新約聖書の奇蹟と異なり、今日の奇蹟は典型的に、私的に起り、宗教的集会の中で起っている。主張する奇蹟の型も新約聖書とは違う。主イエスと使徒は、生れつき日の不自由な人や中風の人や手の不自由な人を即時に、完全に癒した。すべて明らかで、論争の余地の全くない奇蹟だ。主イエスの敵も奇蹟の事実性を問題にしなかった。さらに、新約聖書の奇蹟は、即時的・徹底的・永続的だ。主や弟子は、奇蹟を遅々と、不完全にはしなかった。

 対照的に、今日の奇蹟のほとんどは、いつも部分的・漸次的・一時的だ。唯一「即時的」奇蹟は、心身症らしいものの癒しである。一目瞭然の障害を負った人が、今日の信癒師(faith−healer)に救われることは極めて稀だ。最近、テレビ伝
道者と足の障害が「癒された」と言う男性との会見を見た。彼は、この数年間で初めて車イスから解放されたと言う。しかし、今でも歩くのに松葉杖が必要で、両足に重い矯正器をしている。今日奇蹟を行う者は誰も、キリストや使徒の働きと同種の効果であるとは言わない。
 
 

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