マリヤの霊のカソリックとのエキュメニカルな一致に異を唱えない、不思議なカリスマ派の聖霊

 

 
 
 

 この種の本を読む多くの人は、キリストのからだの中での一致の達成に関心を持っている。私は、カリスマ派と非カリスマ派の信者の間に溝を作りたいのではない。その種の裂け目は、信者が神の言葉という共通の基礎の上に立つときには存しない。有害な分割は、誰かが御言葉から離れ、誤りを混ぜ入れて、信者を脅すようになったときに芽を出す。私の主たる関心は、教会を聖書の純粋性と権威への明確な献身へと呼び戻し、真の教会の一致を強化することだ。

 カリスマ運動によって教会が受けた最も深刻な揖害は、教会の一致に関してだ。
 いくつの教会がカリスマ派の教えで分割されたか知っているか。驚くべき数だ。カリスマ派の教理は、既述の通り、それ自身が分裂的である。一般的な信者と高次のレベルの霊性を得た者との間に垣根を作るものだからだ。カリスマ派と非カリスマ派の間の分割は、現実には、カリスマ派特有の考えによって作られたものだ。

 確かに、多くのカリスマ派はその問題を認識している。しかし、それは第二の傾向によりさらにこじれている。それが、たとえ教理の大きな誤りを看過するとしても、賜物の外的証拠を表明する限り、一致の名の下に誰でもすべての人を受け入れようとする多くのカリスマ派の気質なのだ。

 異なった背景の者に村する教理的な曖昧さや包含性や利他主義という傾向のために、カリスマ運動は知らず知らずに、多くのリベラル派が世界教会協議会(WCC)によって企図する世界的なエキュメニカル勢力になっているカトリック、東方正教会、プロテスタントおよび多くの新興教派がカリスマ派の旗の下にすでに一致している。カリスマ運動の成長の当然の結果とは全く違うこのエキュメニカルな影響こそ、20世紀カリスマ運動の、極めて潜在的な悲惨で長期に及ぶ効果を証明するものなのかもしれない。

聖書霊感を否定する自由主義者等との

不定見な一致、エキュメニカルを標榜するカリスマ派

 カリスマ運動のエキュメニカル運動との婚姻という皮肉を指摘する者もいる。「聖霊との直接の交わりの中にあること、預言・使徒性・知識の言葉(word of knowledge)等の賜物を持つこと、異言その他の手段により神と直接交信することを主張する運動が同時に、カトリック・保守派・リベラル派・無千年期説派・前千年期説派・カルヴァン派・アルミニウス派・聖書逐語霊感否定派・キリストの代理購罪否定派などを包含しうるというのは矛盾ではないのか。聖霊は、これらの違い(あるものはひどく、あるものは正しくないが__)をすべて修正する情報の伝達には関心がないようだ。聖霊との直接交信は、基本的な誤りすら全く訂正しないらしい。賜物の多くの本質と目的に関して、カリスマ派の間でも一致がない。カリスマ運動は神学的な問題を何ら解決せず、聖書の知識を何ら増進させず、より霊的なキリスト者を生み出さない。本物の神の御霊の発露がそんなに何にもできないのか」と。 Gordon Clarkもカリスマ派のエキュメニズムの危険性を指摘する。ペンテコステ派がカトリックの中に入り込んでいることを賞賛するカリスマ派の雑誌から一つの論文を引用し、「眠っていない者には、幾つかのことが直ちに目に留る。第一に、異言体験は極めて重要だ。ほかに問題はないと言うのは正しくないのに、ほかに大きな問題はないと言うのは正しく見える。異言は献身したキリスト者のしるしだ。異言で語るなら、処女マリヤ礼拝も異議なしというのが明らかな含蓄である。異言で語るなら、信仰のみによる義にはほとんど意味がなく、誰でも聖人の倉から功績を受領でき、化体説を認知しうるのだ。異言で語るなら、より根本的に、伝承を聖書のレベルに置き、神からの新しい啓示を主張しうる。あのペンテコステ派の教職者(前記の論文のことを言っている)は『(カリスマ派カトリック〔Roman Catholic Charismatics〕を)改宗させようという(カリスマ派プロテスタント〔Protestant charismatics〕による)試みはない』と言う。換言すれば、異言で語るなら、カトリックは受け入れ可能なのだ」と言う。

 カリスマ派エキュメニズムは、かつてカリスマ運動が聖書的正統性に村して要求した権利を確実に浸食している。アジアでは、仏教や道教や儒教やその他の誤った教えを西欧のカリスマ派の教えと混ぜ合せた新しいカリスマ派が生れている。カリスマ運動は全体として、その種の影響に村する防衛機構を全く持っていない。明らかに異教的なものであっても、誤ったグループと対決する方法を持っていない。カリスマ運動では、一致とは共有できる宗教体験であり、教理の共通性は間道でないからだ。教理が本当に問題でないなら、仏教のカリスマ派も含みうる。実際にそれは起っていることだ。

 それで、カリスマ派の教理は正統的なグループの間では分裂を生む傾向がある一方で、そうではないグループの間では逆の効果を持っている。カリスマ派はキリスト者が避けるべく命じられているグループや個人(__ヨハネ9〜11節)との架け橋を造っている。その結果、悲しいことに、多くのカリスマ派が主の教えを否定する者の悪行に荷担している(3ヨハネ11節)。

 カリスマ派は、これらの問題の深刻さを認識する多くの人でも、カリスマ運動の遺産は否定的ではなく肯定的であると主張するのではなかろうか。彼らは証拠として、いわゆるカリスマ的再生の拡大的な効果や世界的な数の上での成長を指摘する。カリスマ運動は教会を活性化し、地の果ての失われた人にまで到達していると言う。しかし、その再生や拡大の多くのエキュメニカルな性質は、それが神の業であるという主張を否定している。

 悲しいことに、カリスマ運動の遺産は大部分が無秩序や教理的な混同だ。カリスマ派の霊性の求めは不健全で、潜在的な幻滅に満ちている。カリスマ派の垣根の両側には、確証がなく、失望し、挫折したキリスト教信者がいる。何人かは絶望している。説教や日曜学校で開く霊的な「良き生活」が自分には影響を与えていないようなのだ。自分のキリスト教信仰を現実の実際的な日々の土台の上に生き抜く鍵をどこで見つけうるのか。
 唯一の正しい回答は、常にそうであったように、神の言葉に帰ることだ。その中で神が私たちに、神に仕え、神の栄光のために生きるに必要な一切を啓示しているからだ。不幸なことに、何度も見てきた通り、カリスマ運動は人々を内向化させ、神秘主義および主観主義に向け、神の言葉から離れさせようとする。その魅惑的な呼びかけに耳を貸さないように。

 「私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばないものになることはありません」(_ペテロ1:3〜8)
 

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