<聖書の語る終末>ノンクリスチャン向け

ーその日、天も地も焼け溶ける

 

 

<初めに>

 

この記事は、聖書が語る終末をなるべくわかりやすく述べたものである。

特に聖書を読まない、またはあまり親しくない方、ノンクリスチャンを対象にして書いたものである。

 

聖書は分厚い書であり、その中から終末に関する記事を抜き出すのは難しい。それで、その作業、終末に関する記事を聖書にあまり詳しくない人々に提供する作業は、我々クリスチャンの責任ではないか、と思い、ここにこうして書いているしだいである。

 

間単にいきなり、結論をいうなら、神を知らない、知ろうとしない、あがめようともしない、人々の未来は終末の日、明るい未来は待っていない。それは、人間を創造した神の立場から言うなら、恩知らずの人々に対する報復の日であり、そのような神を拒否する人々のその未来は決して明るいものではない、というより、世の終わりにはかつての日、道を曲げる人々に到来したノアの大洪水の裁きに匹敵する災害が来ることが預言されている。具体的には、この天も地も火で焼け溶ける日が終末の裁きの日に預言されている。

 

そんな日が預言されておらず、よしんば預言されていても聖書がインチキの書で、かつてのノストラダムスの予言のように、いいかげんなこけおどしなら、問題はないのだが、あいにく、どちらも違う。

 

終末に天地が焼け溶けて終焉することはペテロの手紙に明確に予言されているし、また聖書は驚くべき人知を超えた書であり、聖書の予言は100%成就する。聖書は未来を語る書であり、聖書には3000以上の未来への預言の記述がある。そして、それらのすべては過去成就してきた。外れた預言などひとつもない。どんな難しいこと、ありえないことでも、神がひとたび聖書の中で預言したことは過去みな成就してきた。そうである以上、これからの未来や終末に関する予言も成就すると考えることが妥当である。

たとえば、キリストの生誕や生涯に関して300以上の預言が前もって語られていたが、それらはすべて成就している。キリストの生誕の場所もキリストの時代より1000年も前のミカ書に「ベツレヘム」であることが預言されており、実際のキリストの生誕もまさにベツレヘムで起きている。

 

 

キリストの生誕

 

そんなわけで、私はこの文章を警告の意味合いで 書いている。

 

ひまつぶしやら、トリビアの智識を誇りたくて書いているのではなく、面白いねたを提供するために書いているわけではない。私個人のことをいえば、小さな教会の牧師であり、聖書に関して個人的に数十回通読を重ねている。その上で、確信していることは、聖書の中にはまぎれもなく、終末に関して神が語っていることがあるので、それを知らせたいと願っているのである。そしてこれらの警告を人々に告げることは聖書を読むクリスチャンの義務であると思い書いている次第である。とはいってもこれを読む人すべてがその警告を素直に受けたり、真に受けることもないだろうことも残念ながら、私は知っている。しかし、人が聞こうと聞くまいと警告の角笛を鳴らすまでが私たちに与えられた命令であり、使命であるので、私はたった一人しかいないかもしれない、まじめに警告を受ける人にあてて、これらのつたない文章を書いている。

 

<終末とは>

聖書で言う終末とは、今の世といわれる、世の終わりの頃の時代をさす。

聖書によるなら、今の私たちが住んでいる時代には初めがあり、そして終わりがある。そして終末とはその時代、世の終わりのときをさすことばである。 聖書創世記には、この世の初めに関してこう書かれている。 

 

創世記  1:1 初めに、神が天と地を創造した。

 

このように今の世の初めに天と地が創造された。具体的には地である地球もまた、天である宇宙の天体もこの世とあわせて作られ、創造されたものなのである。

 

そしてこのようにして創造された天も地もこの世の終わりには焼け溶けて終焉する。以下の様に書かれている。

 

2ペテロ3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

 

すなわち、この世は天地の創造とともに始まったが、この世の終わりにはその天地が焼け溶け、消滅して終わると聖書は語っているのである。

ついでながら、上記箇所の主の日とは、終末の日の神の裁き、罰の日をさす。そういうわけで、

聖書はこの世がハッピーエンドで終わるのではなく、忘恩の人々、神を否定し罪を犯し続ける人々への裁きで終了することを書いてあるのである。このことは終末に関する知識の土台の土台なので正しく理解いただきたい。

 

ものごとにはみな初めと終わりがある。ピカピカの一年生で小学校に入学した子供も6年生になれば、もう卒業が見えてきており、次の学校へと進むことを考え出す。同じように聖書は今の時代が永遠と続くとは語らず、宇宙は無始無終とは語らず、終わりが必ず来ることを明言している。そしてこれは今の科学ともマッチする。少し前まで、宇宙は初めもなく終わりもない、恒常宇宙ということが言われていたが、今ではビッグバン、すなわち、突然宇宙が誕生した日の事について科学者は語る。

 

<終末の特徴>

実は聖書の中には終末に関する記述は数多い。何故、そのように多くの分量を使って終末について書いてあるのか?

私の理解では、それは終末の日が特別な日であり、多くの人の命や永遠の運命にかかわり、影響する特別なときだからだと思えている。

また、多くの人が結局は間違え、誤る日だから、だともいえると思う。

 

たとえば、町を歩いているとその道端の電灯の柱にペンキ注意と書いてある、そしてまた少し先にいくと別の電灯の柱にペンキ注意と書いてある。何故そんなにたびたび書くのか?その理由は

間違えてペンキを服につけてしまう可能性があるから、そんな危険があるからである。

同じ意味合いで聖書の中でたびたび終末に関する記述が書かれているその理由は、

それでも間違えて、警告を無視して結局を命を失ったり、永遠の後悔をする人があらわれるからである。

 

それで、私たちは斜めに構えず、素直にそれらの警告の声に耳を傾け、正しく歩みをただしていきたい。

具体的には終末の特徴のひとつは明らかに神の怒りということである。この神の怒りから何とか免れる歩みをすること、それが正しい終末への準備ということになる。

 

<何故終末の日に神は怒るのか?>

終末の特徴は神の怒りの日であるとして、しかし、何故神は人を怒るのだろうか?その理由は、

はっきりいえば、人の忘恩のゆえである。人は神により、創造された存在なのに、神を認めることなどせず、否定し、無視し、神は存在しないと語り、あがめようともしない、その歩みに対して神の長年の忍耐が切れて怒りが爆発する日、それが終末なのである。

 

たとえば、以下のように書いてある。

 

2テサロニケ

 1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。

 

 1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。

 

ここに書いてあるように、キリストの再臨の日には「神を知らない人々」すなわち、神など存在を認めず、拒否し、無視し、尊敬の念さえもたない人々に対して報復がなされることが書いてある。

それどころか、「永遠の滅びの刑罰を受ける」ことさえ書いてある。それで、私たちはそんな恐るべき日が到来する前に私たちの歩みをただす必要がある。

 

他の箇所ではこう書かれている。

 

ロマ書1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

 

 1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。

 

 1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

 

 1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。

 

ここでは、「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝も」しない人々に対して「神の怒りが天から啓示されている」ことが書かれている。

 

確かに以前と比べ最近は異常気象が多く、水害や、地震などが頻発している。またコロナの疫病の大流行のように、災いが繰り返して起きている。これらは祝福というより、「神の怒りが天から啓示されている」と理解したほうが正しいように思える。

 

またここでは、神の存在を否定する人々に対して、その存在は、「被造物によって知られ」ることが書いてある。確かに神は目に見えないが、しかし、神の存在は神の造られ、創造された人間やら、

ネコやら、朝顔などの神の作品を通して理解できるとこの箇所では語っているのである。

 

確かにその通りではある。神の創られたたとえば、人間の人体の構造は驚くべき精巧さである。人間に関して一人の人体は60兆個もの細胞からできているということである。これらの細胞一つ一つがあるべき位置に配置され、機能して初めて人間はまともに生活できる。しかし、これを人間が人体を一から作れといってもできないし、現在の人間の知恵を結集して、知恵を、技術をめぐらしてもそれは不可能である。

 

しかし、愚かな進化論者は人間は偶然に進化した、という。偶然に60兆個もの細胞が間違いなく、組み立てられるはずはない。彼らは愚か者である。

そのようなわけであえて自分の良心にふたをして、神の存在を否定する人々に対して、聖書は、「彼らに弁解の余地はないのです」と語る。

 

 

<神は怒り、罰する方>

 

この宇宙を造り、人間を造られた神は、義すなわち正しい方であり、

不義や罪に対して罰を加えることが聖書の中で繰り返し語られている。

たとえば、ノアの洪水に関する神の裁きが創世記に記されている。

 

創世記

 6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

 

 6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

 

 6:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

 

 6:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

 

 6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

 

 6:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。

 

 6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

 

 6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

 

 6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

 

 6:14 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。

 

 6:15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。

 

 6:16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。

 

 6:17 わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。

 

 

ノアの洪水

 

 

ここには、「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」のを神がご覧になったことが書いてある。そして、

 

「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」ことが書いてある。

そして神は「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」と語られた。

 

そして、このことばのとおり、ノアの洪水すなわち、全地をおおう大洪水が起き、全世界の人々は、箱舟で逃れたノアの家族以外は滅んだ。

この大洪水は単なる物語ではなく、実際に歴史に起きた事実である。実際、地層の中には洪積層という層が存在する。

 

この洪水のときの地層である。この大洪水はもっとも高い山をも覆ったことが聖書に書いてある。このことは事実であり、世界の高い山の上にも突然海の貝やら化石を含む地層が出現する。確かに高い山まで洪水がおおったことが事実であることがわかるのである。そして、もう一つのことを我々は理解する。すなわち、歴史やら世界は決して偶然や、原因もなく動いているのではなく、

起きてくる災いや災害の裏に神の意思があることがわかるのである。

 

このノアの洪水も単に地球の変化、気象の変化というより、天地を創造した神の怒りの中でこのような

未曾有の災いが起きたことがわかるのである。

これは、今の時代でも通用する。ノアの洪水を起こした神は今でもこの地球を支配しているので、

不義な国には災いが臨む。

 

日本は

江戸時代のキリシタン迫害は世界で有名だ。そのように神の教えを否定し、キリストを信じる人を国の隅々までおいつめて殺して何かこの国によいことが起きたのか?祝福が起きたのか?

日本は世界のどの国も受けたことのない原爆を2つもうけ、災いが起きた。

何故、世界のどの国でもない日本がこのような災いにあったのかよく考えるべきではないのか?

 

また、太平洋戦争で100以上の都市が空襲で焼かれた。かつて神を信じ、キリストを信じるというその理由でキリシタンの人々を追い詰め、迫害し、殺したそれらの都市はみな、火で焼かれてしまった。

 

 

キリシタン迫害

 

日本は聖書の神を信じる人が少ない、クリスチャンのいない国として有名だが、しかし、そのように神を否定した歩みをするこの国に何か良いことが起きているのか?

2011.3.11の大津波は日本を覆い、また同じ時に起きた原子炉の爆発で、再度日本は核の災いが起きたが、神の怒りがいまだにこの国に対して臨んでいるのではないのか?

 

 

 

 

<終末には天地は焼け溶ける>

 

さて、終末の日の神の裁きはいわば、ノアの洪水の再現のような形で起きることが聖書に記されている。以下の箇所である。

 

2ペテロ

 3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、

 

 3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

 

 3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

 

ここでは当時の世界は洪水により滅んだとして、ノアの洪水のことが言及されている。そしてそれと

併記して終末の日には、「今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ」ていることが書かれている。すなわち、今の地球も太陽も、今平常な状態で活動しているのは一時的なことであり、その定められた日には、あたかも時限爆弾のタイムスイッチが入るように、燃え尽きるようになることが書かれているのである。そしてその燃え尽きる理由は気象の変動とか天体の運行の変化といわず、逆に「不敬虔な者どものさばきと滅び」が描かれている。すなわち、ノアの洪水がそうであったように、終末の日に天地が焼け溶けるその第一原因は神の怒りのゆえであり、その神の怒りを引き起こすのは、神を否定し、無視し、勝手な罪を犯し続ける人々のゆえであることが書かれているのである。

 

すなわち、終末の日にサバイバルする、命が助かる、ということを望むならまず、私たちの神への態度、不敬虔な歩みをしているのなら、その歩みをただすことが第一であることがわかる。

 

天地は焼けとける

 

キリストが登場する前に現れたバプテスマのヨハネはこう述べた。

 

マタイ3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。

 

 3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 

このヨハネの語るように終末を迎えようとする私たちにとって大事なことは悔い改め、歩みをただすことである。

 

<聖書は信頼に値する書か>

 

さて、このように私たちは聖書に基づき終末を語るわけであるが、しかし、根本的な問題がある。それは、そもそも聖書は信頼に値する書なのか、という問題である。

この件に関しては長くなるので以下のサイトの記事を見てほしい。

とりあえず、申し上げておきたいのは聖書は昔の人が考えた荒唐無稽な非科学的な本ではないこと、

聖書は、現代の科学で初めて理解できることを何千年も前から語っていることを伝えたい。

たとえば、この地球が球体であること、また宇宙に何のささえもなく、ぽっかりと浮かんでいることなどを

3000年も前から語っているのである。また聖書には他の本と決定的に異なる特徴がある。それは、

聖書は未来への予言を語る書であり、3000以上の予言の記述がある。しかもその予言の成就率は100%であることである。

外れた予言などは存在しないのである。

今までバビロン、メデイアペルシャ、ギリシャの国の興亡などすべての歴史が聖書の予言どおり動いてきた。また、イエスキリストの生涯もその誕生の数百年も前に予言されたとおりの生涯となっている。その同じ聖書が終末に関して詳細に語るので、私たちはその声に耳を傾けることをおすすめするのである。

 

<世の終わりのしるし>

今まで多くの時代が過ぎ去ってきた、日本でも江戸時代、明治、大正、昭和、平成、そして令和。

今の時代が聖書に預言された世の終わりの時代であるとどのように判断するのか?その終末のしるしはあるのか?

 

そのしるしはある。以下にその世の終わりをみわけるしるしに関して書いてある箇所があるので、紹介したい。

 

 マタイ 24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 

 24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

 

 24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

 

 24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

 

 24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

 

 24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 

 24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

 

 24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

 

 24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

 

 24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

 

 24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

 

 24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

 

 24:29 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。

 

 24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

 

 24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

 

 24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

 

 24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

 

 24:34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

 

 24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 

 24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

 

 24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

 

 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

 

 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

 24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

 24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

 

この箇所に従ってみていきたい。

 

 

 24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 

 

ここで弟子たちはキリストがこられるとき、すなわち再臨するとき、そして世の終わり、という特別な時代が始まる、その時にはどんな前兆があるのか、聞いている。

 

この質問は大事な質問である、と思われる。

それは、今はキリストの時代から2000年ほどたっているが、今の時代においてキリストがかつて語った世の終わりの前兆や兆候が多く見られるからである。もういよいよかねてからいわれていた世の終わりに突入するのかという時代に入りつつあるように見えるからである。

 

 

 24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

 

 24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

 

ひとつの特徴として、キリストの名を名乗るものが大ぜい現れるとき、それが世の終わりであることが語られている。このことは今の時代にも当たっており、キリスト教会には多くの偽キリストやら、偽キリスト教理がおきている。韓国の文鮮明氏が再臨のキリストだという統一教会を始め、多くの偽キリストがおきている。確かに予言されていることが成就しつつある。

 

 

 

 24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

 

 24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

 

ここでは、戦争や戦争のうわさが終末のひとつのしるしであることが書かれている。戦争に関して言うなら、過去1世紀ほどはまさに人類が経験したことのない世界規模の戦争や紛争の時代だった。

 

第1次、    第2次の世界大戦が行われ、この日本でも第2次大戦では、日本の国始まって以来の大戦争に巻き込まれ、何百万人もの人の命が失われた。まさに今は戦争や紛争の時代であり、この前兆が起きている時代といえる。

 

 

 

 

 

 24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

 

 24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

 

キリストの教えを忠実に守っているクリスチャンがその信仰のゆえに迫害されるようになる。

また、その迫害の中で多くのクリスチャンがつまずき、裏切るようになる。

今この動きは起きつつあり、キリスト教国として知られたアメリカでも同性愛に反対するからとの理由でクリスチャンが非難されたり、攻撃されることが起きつつある。

 

 

 24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

 

不法がはびこり、罪や、不法なことが蔓延し、また人の心が

冷たくなり、思いやる気持ちがなくなってくる。このことは、

今の時代、まさにそうであり、以前と比べて、日本では離婚も増え、せっかく

結婚したのに、不満を言いながら、別れる人が多くなっている。また、

子供の虐待やら、愛のない行いが増えている。

 

愛が冷える

 

 

 24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

 

キリストの福音すなわち、キリスト教の教えが全世界に述べ伝えられることが終末のひとつの兆候であることが語られている。

このことは今の時代まさに成就しつつある。その人が受け入れる、受け入れないは別として、キリストの教えはこの遠い極東の地、日本にも伝わっており、全世界で、キリストの教えが伝えられない地域、国はなくなりつつある。

神の方法は、突然何の前触れもなく、世界を滅ぼす、ということでなく、すべての人に説明責任を果たし、

全世界にこの神の愛やら、救いの方法をまず伝える、ということである。しかし、このような神の努力やら、語りかけ、警告にもかかわらず、多くの人はそのことばに耳を傾けず、そのあと、神の裁きや罰の日、すなわち全世界の終わり、終末の破滅の日、天も地も焼けとける日が来るようになる。

 

 

 

 24:29 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。

 

太陽や月に前兆が起きることが書かれている。

最近はかつてなかった異常気象や天変地異が続く時代である。日本でも長雨やら、洪水、地震など息をつくひまもないほど、いろいろな不吉な天候が続いている。また、夏の暑さもかつてない異常な暑さとなっている。

 

 

 24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

 

 24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

 

さて、これらの日のあと、最後にキリストの再臨があることが描かれている。再臨とはもう一度来る、という意味合いです・。2000年前に十字架で死を迎えたキリストは3日後、復活し、そのあと、天に昇ったが、そのキリストが再度来臨する、世の終わりに再臨する、ということは聖書の中で繰り返して語られている約束である。たとえば以下。

 

キリストの再臨

 

 

使徒1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

 

 1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

 

 1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 

このキリストの来臨のときは、すべての人の総決算のときであり、すべての人のそれまでの行いが問われるときである。正しく神を受け入れ、神の教えに従っている人々には祝福のときだが

神を否定し、聖書を否定し、キリストの来臨の話なども笑って相手にしない人々には厳しい罰や裁きのときとなる。そうであるがゆえに、「地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」と書かれているのである。

彼ら、神に従わない人々にとっては、キリストの再臨は災いやのろいのときとなる。

 

まだそのときが来るまで少しの時間の猶予がある。それは恵みである。私たちは神を恐れ、またすべての予言が成就する神のことば聖書のことばを恐れ、私たち自身の歩みをただすべきである。

 

 

 24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

 

 24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

 

 

これらのしるしや前兆はわれわれがその定められた特別なとき、世の終わり、という時代を悟るために

書かれた。

であるので、もし、われわれがこれらのすべての前兆が該当する時代に入ったなら、その備えをし、

歩みをただすべく与えられたのである。謙虚に神のことばに耳を傾け、悔い改めるべきことがh悔い改める人に恵みがある。

 

 

 

 

 24:34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

 

 24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 

キリストご自身は、その語られたことばがすべて、ひとつ残らず成就することをここで語られている。

であるので、聖書のいわれた、人の死後の審判、またそのあとの天国やまた、地獄の火の罰などはみな、成就し、すべて正しいことばと思ってよいのである。また、聖書に書かれているように、

以下のことばも正しく成就する。

 

“ヨハネ3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。”

 

キリストが十字架で死なれたのは聖書によれば、私たちの罪をその身におい、我々の罪が許されるためである。その御子、キリストのことばを信じるものは永遠の命を持ち、聞き従わないものは永遠の命をみない。私たちは神のせっかくの申し出を拒否することなく、正しくキリストを信じるべきなのである。

 

キリストの十字架の死はわれわれの罪が許されるためである

 

 

 24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

 

それでは、そのキリストの再臨は何年のいつに起きるのか、という疑問には、人はその時を知らず、天の父である神のみがご存知であることが書かれている。

 

 

 

 

 

 24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

 

 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

 

 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

その日、終わりの日はかつてのノアの日、洪水の日のようであることが描かれている。ノアの

時代、人々は道を曲げ、その心はみな、悪に傾いていた。それで、正しい神はその地を全世界を覆う洪水により滅ぼしたのである。その洪水は歴史的な事実であり、今でも地層に残っている。

 

世の終わりにもノアの洪水のときのような全世界に破滅と壊滅と全滅がやって来る。

不敬虔な歩みをし、神を認めず、冒涜する人々はみな滅ぼされてしまうのである。そのようなわけで我々は理解しなければならない。今の時代、人間はあたかも親の世話になど何もなっていない、と語るどら息子のように、冒涜なことを神に語り、主客転倒なことを語っている。

しかし、人は神により創造された存在である。そうであるのに、いつまでも神が忍耐を持って永遠に人の冒涜や、

不正を我慢すると思っているほうが勘違いである。

 

 

 

 24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

 24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

その日、人々の間に選別や区分が行われる。ある人は神に選ばれ、ある人はそうでなく、罰や裁きに入るようになる。その日が近づいている。悔い改めて福音を信じるべきである。

 

 

<キリストの再臨>

 

キリストの再臨は世の終わりのハイライトである。ところで、なぜキリストは再臨するのだろうか?

以下のことばがそのことを説明している。

 

2テサロニケ1:6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、

 

 1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。

 

 1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。

 

 1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。

 

 1:10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。

 

すなわち、キリストの再臨の目的は2つある。

ひとつはその人々の反逆がきわまった日にキリストの名のゆえに迫害されている人々を助けるためである。

そしてもう一つは不敬虔な人々、正しいクリスチャンを迫害する人への報復のためである。

そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。」

と書かれているとおりである。私たちはその日、正しい人々を迫害してキリストに報復されたりしないよう、また神を知らない、神を否定する人として罰を受けないよう、今から歩みをただすべきである。

 

 

<この世は終わり、新しい世が来ようとしている>

 

今の世、この世、この宇宙は、燃え尽き、とけ去って消えていく。

前述したとおりである。この世は、神を認めず、神に従わないからである。そしてこの世にあって、この世の方法に従い、神など毛ほども注意を払わず、不敬虔な歩みをする人々も

その燃え尽きる天地とともに滅びるようになる。

 

そして、新しい天と新しい地がくることが聖書にはかかれている。すなわち、今の不敬虔な世、宇宙ではなく、新しい世が来るのである。以下のとおり。

 

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 

 

正しく神の福音を信じ、キリストを信じ、罪が許された人はそこに入る。

 

<悔い改めて福音を信ぜよ>

 

かつてキリストの先駆者としてきたバプテスマのヨハネはこう語った。

 

マタイ3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。

 

 3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

 

 3:9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

 

 3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 

今もこのヨハネのことば、警告は語られており、我々は来たらんとする神の怒りのとき、世の終わりを迎えようとしている。悔い改めて、それにふさわしい実をむすぶようになることが大事であることを知りたい。

 

以上