終末とはどのような時代か? by エレミヤ

―その日多くのクリスチャンが永遠の命を失う。

 

 

福音のゆえに逮捕されるアメリカのクリスチャン:

すでに艱難時代のきざしは見えている

 

 

 

この記事では聖書に基づき、今来たりつつある終末の時代についていくつかの

キーワードに従って、考察してみたい。

 

<封印> 

聖書が語る終末のみことばに関してまず初めに理解しなければならないことは、

聖書の終末に関する全ての記事は「封印」されている、ということである。

神の意思により、読んでも簡単にはわからないようになっているのである。

 

事実、黙示録などの終末の記述は難解であり、一読しても2読してもさっぱり

意味のわからない記述となっている。この

封印の理由は、クリスチャンの間に区分を行うためである。聖書は終末の日に全ての人に

封印が開かれる、などとは決して述べていない。逆に、封印により、人々の間に区分が行われることを語る。以下のことばの通りである。

 

ダニエル12:9 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。

 

 12:10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。

7つの封印

 

ここでは、神が終末の預言のことばを封印した理由として、その封印されたことばに関して、思慮深い人々は悟るが、「悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。」ことが語られている。悪者と正しいものとの区分を行うために封印が用いられるのである。

 

 

事実、このダニエル書の封印に関することばは、主の初降臨の日に成就し、その日、神の知恵を与えられた思慮深い人々は、ダニエル書に預言されたメシヤの来臨を悟り、イエスこそ、その方であることを悟った。ペテロ、ヨハネを始めとした人々である。しかし、悪者、すなわち、人前には白く塗られた墓の様であってもその内側にはあらゆる、貪欲と罪にあふれていた律法学者やパリサイ人は、悟らず、この方を拒否し、十字架の死に追いやった。確かに封印は人々の間に区分をもたらしたのである。

 

 

同じことが再臨の日にも再現するようになる。その日、白く塗られた墓の様な歩みをする偽善教師、神学者、クリスチャンたちに対して、この終末の封印は決して開かれることはないだろう。

彼らに対しては黙示録の7つの封印は最後まで封じたままになる。

 

主の初降臨の日にそうであったように、この封印が開かれるかどうかは大きな差であり、

その差により、永遠の命に関連する差が生まれる。

封印
NO.127 黙示録のわな
No.233 空想話
No.234空想話(2)
No.338 悪人は一人も悟らない
NO.414 自分の目で見る

 

 

 

<終末のみことばはたとえにより書かれている>

 

主は多くのことがらをたとえを通して語られた。以下のみことばの通りである。

 

マルコ4:33 イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。

 

 4:34 たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。

 

マルコ4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。

 

 4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」

 

このように主の語られる多くのことばはたとえなので、たとえを理解しないかぎりは

主の語られた終末のみことばは理解できない。

 

たとえば、主は終末に関連して以下の様にいわれた。

 

マタイ24:19 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。

 

このことばを文字通りに理解しようとするなら、解釈は難しい。

確かに身重の女と乳飲み子を持つ女は悲惨になりそうだが、何故彼女たちだけが、悲惨なのかその理由がわからないからである。

しかし、たとえを理解するなら、わかってくる。

身重の女と乳飲み子を持つ女の共通点は乳を必要とすることである。

乳は以下のことばによれば、堅い食物、すなわち、たとえや、謎を理解できない信者の食べ物である。

 

ヘブル 5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。

 

 5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

 

 

終末のみことばの多くはたとえにより、書かれている。それは、すなわち堅い食物なのである。それなのに、乳を必要とする信者、たとえを理解できない牧師、信者しかいない女、すなわち教会はその日、悲惨なのである。

 

その日、身重の女は悲惨とは?

 

 

 

 

 

通算No.5 たとえを理解する
No.20 聖書の真理はたとえの中で明かされる
通算No.27 乳飲み子を持つ女のたとえ
通算NO.80 たとえを聞きとる
No. 221 悟る
No.222 悟る(2)
NO.223 悟る(3)

<全ての幻が封じられた書物のようになる>

 

聖書は終末のみことばが、全ての教師、神学者にとり、封じられた書物の様になる日がくることを預言している。以下のとおりである。

 

イザヤ29:10 主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。

 

 29:11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、

 

 29:12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。

 

 29:13 そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。

 

 29:14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」

 

このように、預言が封じられる日について語られている。

今がその時であり、多くの教師にとり、終末のみことばは、封じられた書物の様になっており、彼らはここに何が書いてあり、これから何が起きるのかを理解しない。

それゆえ、艱難前携挙説(2段階携挙説)だのレフトビハインドなどの誤りを盲信している。

艱難前携挙、2段階携挙説の誤りを広げるレフトビハインド
NO.736 驚き、驚く(2)

NO.735 驚き、驚く

NO.322  見るには見るが 

NO.232 顔おおい





NO.232 顔おおい<初降臨の日のできごとは、再臨の日に再現する>

 

主の初降臨の日の三年半のできごとは、再臨の日の3年半の艱難時代に再現する。

このことを通して我々はまだ到来していない艱難時代の3年半を類推できる。

主の初降臨の日はすなわち、以下の様な日であった。

 

1.      旧約時代の終わりにキリストは旧約の神の民であるイスラエル、ユダの民の間に来られた。

2.      その日は、彼ら旧約の神の民の背きのきわみの日であった。

3.      それゆえ、キリストは拒絶され、十字架につけられ、代わりに極悪人バラバが許された。

 

従って、主の再臨の日はすなわち、以下の様になる。

1.      新約時代の終わりに、キリストは新約の神の民である、クリスチャンの間に来られる。

2.      その日は、新約の神の民の背きのきわみの日である。

3.      それゆえ、キリストは教会から拒否され、代わりに反キリストが、教会の中で拝される。

 

これから、来る終末とは、すなわち、新約のクリスチャンの背教のきわみの

日であり、教会の変質のきわみの日である、という終末に関する基本の基本が理解できなければ、終末のことばを悟ることはできない。

 

艱難前携挙説などのインチキ話に追従する今の教会の牧師は盲目であり、教師は盲人を手引きする盲人である。彼らに従って終末を正しく歩むことは難しい。

 

また、多くのクリスチャンは、堕落しており、耳ざわりの良い話しか受け付けない。

それが、このような終末インチキ話が教会に広がる理由である。しかし、

聖書に語られている終末の日は、盲人教師や、堕落クリスチャンの妄想に従って、到来するわけではなく、あくまで神の定めたように実現する。

 

結果、真実と異なるヨタ教理を盲信する彼らにとり、主の日は思いがけないものとなり、以下のことばのように、滅びが突然到来する。

 

1テサロニケ 5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

 

 5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

 

 

 

 

サタンが説きつける終末ヨタ教理

 

 通算No.37 イエスの時代のたとえ

 

 

<背教>

 

終末の日の非常に大事なポイントはその日、教会が背教する、ということである。以下の様に書かれている。

 

2テサロニケ 2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 

ここにはっきり、背教として、教会がキリストを裏切る日が来ることが描かれている。

であるので、終末の日、教会がキリストを裏切り、背き、その結果反キリストを拝するようになる、また、神の裁きを受けるようになる、と語ることは、全く聖書的なことがらなのである。また、このこと、背教こそが、終末の日に教会に対して神から下されるあらゆる災いの原因なのである。

 

旧約の神の民もその背教のゆえに災いに会っている。

以下のことばの通りである。

 

2歴36:16 ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。

 

 36:17 そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。

 

 36:18 彼は、神の宮のすべての大小の器具、主の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。

 

 36:19 彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。

 

 36:20 彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕え移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。

 

ここに書かれているように、ダビデ王朝の最後にはユダ国は、その不信、背教のゆえに、神の怒りをかい、バビロンへ捕囚されてしまったのである。

彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにした」と

書かれているように、彼らは神のことばを侮った。それゆえ、

「ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ」と書かれている。であるので、

旧約の神の民が災いに会ったその裏には理由があり、彼らの背教がその理由なのである。ゆえなく、神が怒ったわけでなく、ゆえなく、彼らが災いにあったわけでもないのである。

 

 

同じように教会時代の最後には教会は背教に陥る。それゆえ、神の怒りが新約の教会、クリスチャンに対して燃やされる。その結果、彼らは敵の手に渡され、そして、反キリストを受け入れるようになる。それが、聖書が預言する終末の日なのである。

新約の終わりに教会に災いが来る、そのことは理由無く起きることでなく、逆にそこには理由があり、

原因があるのである。

 

黙示録の4匹の馬:教会の背教、クリスチャンの背信のゆえ、災いは教会に臨む

 
通算No.68 背教に関して




<獣の国>

終末の日に全世界の教会に対して災いが臨む。その災いは具体的にはある特定の国、獣と呼ばれる国を通して行われる。以下のみことばの通りである。

 

黙示録13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。

 

 13:6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。

 

 13:7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

 

 13:8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

 

終末の日のあらゆる災い:すなわち、聖徒の迫害、背教、反キリスト礼拝、艱難時代などは、皆この獣の国を通して起きてくる。

また、この国が全世界を支配するようになるので、全世界の全ての国において、正しいクリスチャンは、艱難を経験する。以下のことばのとおりである。

 

黙示録 3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

 

 

この獣の国とはすなわち、現在のアメリカのことである。+*

 

かつての日、ダニエルの時代に、ダニエルの3人の友は火の炉に投げ込まれた。

その迫害は、当時の世界帝国、バビロンの圧倒的な権力の下で行われた。

同じ様に終末の日における正しいクリスチャンへの迫害も終末の世界帝国アメリカの全世界支配の下で行われる。

獣の国アメリカの象徴、自由の女神:フランスから寄贈された。

キリスト教絶滅を目指したフランス革命の象徴、自由の女神をあらわすものである。

もとは、異教バビロンの女神イシスがモデルである

 

 

 

 

聖書を手に福音をつたえたゆえに逮捕されるアメリカクリスチャン:

アメリカは獣の牙をむきだしつつある


No.283 獣との戦い

NO.495 獣となる国
NO.496レビヤタン
NO.497 レビヤタン(2)
レビヤタン(3)
NO.499呼び起こされたレビヤタン
NO.500 殺されるレビヤタン
NO.501 殺されるレビヤタン(2)
NO.502 レビヤタンの頭を砕く
NO.503 戯れるレビヤタン
No. 556獣の国を拝む

 

 

<宮の崩壊>

 

終末に関して記されているマタイ24章はまず、宮の崩壊から語られている。

以下の通りである。

 

マタイ24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

 

 24:2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

 

このことばから、宮の崩壊と終末の日が密接に関係することが想像できる。宮の崩壊の意味合いは何か?

宮の崩壊は2回に渡って成就する。

すなわち、

1.      旧約の神の民への裁きの日に成就し、かつ

2.      新約の神の民への裁きの日に成就する。

 

上記1旧約の神の民への裁きの日とは、西暦70年、ローマによる、エルサレム攻撃の日に成就した。その日、キリストを十字架で殺したエルサレムの人々はローマにより、滅ぼされ、宮は崩壊した。

さて、2に関する終末の日の宮の崩壊は物理的な宮の崩壊ではない、と思われる。

何故なら、現在のエルサレムにはもう宮は存在していないからである。

存在していない宮、既に崩壊して影も形もない宮を再度崩壊させることはできない。

織田信長の有名な城は安土城であるが、この城を崩壊させることはできない。

何故なら、すでに安土城は崩壊しており現在は、城が存在していないからである。

エルサレムの宮も同じ話なのである。宮は存在せず、かつて宮のあったところには、

イスラム教の神殿が建てられており、すでに占拠され、場所が無いので、再建などありえない話なのである。

 

 

 

それでは、終末の日に再度繰り返されるという、宮の崩壊をどう理解すべきなのか?それを考えるに、たとえの理解として、

宮は神の宮、教会に通じる。以下のことばの通りである。

 

エペソ2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

 

 2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

 

 2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

 

このことばから、神の宮とは、すなわち、今の教会であることがわかる。そして、

宮の土台石は使徒、預言者さらに礎石であるキリストであることがわかる。

このことがわかると「ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」とのことばの意味合いが理解できる。それは、すなわち、神の宮である教会が崩壊し、その教理の基本である使徒や預言者の教え、さらにキリストの教えさえ、教会の土台から取り除かれるという恐るべき背教の日を預言したものなのである。

エルサレムの崩壊は終末の日にたとえで、再現する

 

通算No.24 宮がくずされる日
NO.464 イエスが、宮から出て行かれると

<キリストの名のゆえに全ての人から憎まれる>

 

この後、世界は神に背き、キリストを憎み、キリストに関するあらゆるインチキ話、作り話、

虚偽のストーリーが流布する。それにより、いずれ、キリストの評判は地に落ち、

イエス・キリストとは、稀代のペテン師である、福音書に描かれた十字架も復活もウソであるとのストーリーが定着する。このような「歴史的な事実」を受入れず、あくまで、聖書に

固執する人々は頑迷なカルトである、と判定され、正しくキリストにとどまる人々は、

「キリストの名のゆえに、全ての人から憎まれる」ようになる。

以下のことばが成就するのである。

 

 

マタイ 24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

 

 24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

 

キリストは復活していないとの嘘を広げるダビンチコード

 

 

No.376 殺す者が神に仕えていると思う日

NO451みなの者に憎まれる

<反キリスト礼拝>

 

キリストの名が全世界で地に落ち、卑しめられた後、満を持したように、反キリストが登場する。そして、彼が今まで教会でキリストが占めていた座を占めるようになる。

すなわち、教会の神として、君臨するのである。

 

以下のことばはその日を預言する。

 

2テサ 2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 

 2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

反キリストは神の宮の中、すなわち教会の中に座をもうけ、自分こそ神である、キリストはペテン師であり、

神ではない、と宣言する。

 

黙示録 13:14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。

 

 13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

 

 

教会の中で獣の像、すなわち、反キリストを拝することが強要されるようになる。

 

 

ダニエル 11:36 この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。

 

 11:37 彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。

 

 11:38 その代わりに、彼はとりでの神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。

 

 11:39 彼は外国の神の助けによって、城壁のあるとりでを取り、彼が認める者には、栄誉を増し加え、多くのものを治めさせ、代価として国土を分け与える。

 

獣の国また、獣の国によって擁立される反キリストは、「すべてにまさって自分を大きいものとする」すなわち、

キリストより偉大なものとされ、教会の神として座す。

 

 

反キリスト

 

 
通算No.103 荒す憎むべきもの
NO.122 像について
No.345 獣の国の宗教支配
NO.406反キリスト
NO.557獣の像
NO.558 反キリスト
NO.559 反キリスト(2)
No. 560 自分こそ神であると宣言する

<教会は獣の国の権威に従い、自ら獣と化す>

 

教会は獣の国アメリカの絶対的権力の下で、

変質し、変節する。結果、教会自ら獣と化し、その下で教会員の反キリスト礼拝が行われる。以下のことばはその日を預言する。「小羊のような二本の角」を持つ獣とは

2つの勢力、(プロテスタント、カソリック)からなるキリスト教会をさす。

 

 

 

黙示録 13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。

 

 13:12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。

 

 13:13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。

 

 13:14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。

 

 13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

 

 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

 

 13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

子羊の様な獣:教会は獣化する


通算No.146 小羊のような2本の角を持つ獣
No.150 獣となった神の民
No.316 バビロンの金の像

 

<ソドムやエジプトと呼ばれる都>

 

教会はさらに神の前には、ソドム、エジプトと呼ばれるようになる。以下のことばのとおりである。

 

黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

 

ソドムの特徴は同性愛であり、教会で同性愛が容認されるようになることを語る、と理解できる。

 

ソドムから逃げるロト:教会は同性愛を公認し、神からソドムとみなされる

NO.433エジプトを食い荒らすいなご
NO. 434エジプトを食い荒らすいなご(2)

 

<艱難時代>

 

上記のように、公の教会では、反キリスト礼拝が合法化され、推奨される。

その様なトレンドと平行して正しくキリストを礼拝しようとする人々は苦難に会う。これが艱難時代である。以下のことばのような日がやってくる。

 

マタイ24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 

 24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

 

 24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

 

 24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

 

 24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

 

 24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

 

 

黙示録7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

 

 7:10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

 

 7:11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、

 

 7:12 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」

 

 7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。

 

 7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

 

 7:15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。

 

 7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。

 

 7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

艱難時代

NO. 240 艱難とさばき
No.297 試練の時(艱難時代)

 

<艱難時代の期間は3年半である>

 

以下の様に聖書は繰り返し、繰り返し、その艱難時代の期間は3年半であることを述べる。

 

ダニエル7:25 彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。

 

ダニエル8:13 私は、ひとりの聖なる者が語っているのを聞いた。すると、もうひとりの聖なる者が、その語っている者に言った。「常供のささげ物や、あの荒らす者のするそむきの罪、および、聖所と軍勢が踏みにじられるという幻は、いつまでのことだろう。」

 

 8:14 すると彼は答えて言った。「二千三百(Brenton 70人訳では2400)の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所はその権利を取り戻す。」

 

 

 

黙示録 11:2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。

 

 11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」

 

黙示録 13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。

 

何故聖書は艱難時代は3年半であることを強調するのだろうか?その理由は、

このように考えられる。

すなわち、このこと、艱難時代は3年半であることを明確に記載することにより、艱難に会うクリスチャンが絶望することの無いためと考えられる。人は期限のない無限の苦しみには耐えられない。しかし、

期限が決まっているなら、耐えられる可能性がある。苦難に会うクリスチャンに対して、

艱難の時代は到来するが、しかし、その期間が永遠に続くわけでもなく、獣の支配も

時が来れば、終了することを神は語られているように思われる。

アメリカの強制収容所:艱難時代にクリスチャンを逮捕、監禁するために用いられる

No.256 いくつもの三年半

No.169 3年半の大患難時代
No.257 いくつもの3年半(2)

<艱難時代の基点は反キリストが公に教会の神として立つ日である>

 

それでは、その3年半はいつから始まるのか?

その艱難時代の基点、始まりはいつになるのか?

それは、反キリストが教会の中心に立ち、キリストの代わりに神として立つ日、それが基点であると理解できる。

以下の様に記されている。

 

 ダニエル12:11 常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。

 

 12:12 幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。

 

 12:13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」

 

ここで、書かれているように、艱難時代の始め、基点は、荒らす忌むべきもの、すなわち、反キリストが

教会の真ん中に神として、据えられる日が艱難時代の基点なのである。

 

艱難時代の期間は3年半であり、「幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。」として、3年半(プラス75日)後にまで、達し、耐えられる人が幸いであることが描かれている。

この日に何が起きるのか?

普通に考えるなら、この日にキリストの再臨があると理解できる。以下の様に書かれているからである。

 

2テサロニケ 2:8 その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

 

3年半の間、神として君臨した、反キリストは、その後、キリストの来臨の日に滅ぼされる、と理解するのが正しいと思われる。

艱難時代の終わりにキリストの来臨がある

 

<仮庵の祭り>

 

聖書は終末に関連して仮庵の祭りに言及している。

以下の様に書かれている。

 

マタイ24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

 

 24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

 

 24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。

 

 24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。

 

ここで、主は突然の様に屋上にいる人に関して語っている。

何故この人は突然屋上にいる様になったのか?事情がさっぱりわからない記述である。あたかも話の後半部分のみ、切り離して語られたかの様な記述である。

この話の前半部分は、以下と思われる。

 

ネヘミヤ8:14 こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない、と書かれているのを見つけ出した。

 

 8:15 これを聞くと、彼らは、自分たちのすべての町々とエルサレムに、次のようなおふれを出した。「山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、なつめやし、また、枝の茂った木などの枝を取って来て、書かれているとおりに仮庵を作りなさい。」

 

 8:16 そこで、民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や、庭の中、または、神の宮の庭や、水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。

 

 8:17 捕囚から帰って来た全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。

 

ここで、仮庵の祭りのとき、家の屋根(屋上)に仮庵をつくることが語られている。

仮庵の祭りとは、不思議な祭りであり、家があるのに、家の屋上に仮庵を作る様命じられ、

宮の庭、都の広場などに仮庵を作るよう命じられるのである。

この祭りは地下教会をあらわすたとえと理解できる。すなわち、家、教会の外に庵、教会を作ることを勧める祭りと理解できるのである。

 

であるので、これらの話をつなげると、主の語られた「屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。」

とは、地下教会にいるものは、決して公の教会に戻ってはいけない、との警告を示すと理解できる。

何故戻ってはいけないのか?それは、『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つ、すなわち、公の教会の神の座を反キリストが占めるようになるからである。そして、背教の教会に属し、かつ反キリストを拝まないものは皆、殺されるようになるからである。

 

このように、仮庵の祭りで象徴される終末の日の大きなポイントは、背教し、反キリストを拝するようになった公の教会を出て、

それぞれが地下教会を作り、そこにとどまるということ、なのである。

 

以下の記述も地下教会を示すものと理解できる。

 

黙示録12:6 女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。

 

 

黙示録 12:13 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。

 

 12:14 しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

 

女すなわち、天的な教会は背教の教会を出て、荒野すなわち、地下教会へ逃れた。そこで、「一時と二時と半時の間」すなわち、3年半の間、養われた。

 

仮庵の祭り:家の屋上に仮庵を作る

地下教会への圧迫:自分の家で集会を開き逮捕された牧師

NO.493 第7の月の仮庵の祭

 

 

<キリストの来臨により、艱難時代は終わり、永遠の御国が実現する>

 

聖書はこの王たちの時代、すなわち、獣の国アメリカが存続している

まさに現代の時代に、永遠の御国を打ち立てることを語る。以下のとおりである。

 

 

ダニエル2:44 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。

 

 2:45 あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」

 

ダニエル 2:34 あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。

 

 2:35 そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。

 

ここに書かれているように、一つの石、すなわち、キリストの来臨により、獣の国は砕かれ、艱難時代も終了する。そして、それはいつかというと、「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。」すなわち、獣の国アメリカが台頭している時代である今、まさにこの時代にキリストによる御国は実現するのである。遠い将来を語っているのではないのである。

 

キリストの再臨:獣の国アメリカによる艱難時代が

起きる現代にキリストの御国は実現する

 

 

以上が聖書の語る終末の日の簡単なあらすじである。

 

 

尚、以下に終末に付随したいくつかのことがらを簡単に記載する。

 

NO.331この王達の時代に
No.332 この王達の時代に(2)

<みことばのききんが来る>

 

終末の日に教会、クリスチャンにみことばのききんが来ることを聖書は語り、暗示する。

 

 

黙示録6:5 小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。

 

 6:6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」

 

 6:7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。

 

 6:8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

 

ここには、「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。」として、麦の値段が高くなる、高騰することが描かれている。これは、麦、パンすなわちみことばに関する危機、ききんをさすたとえと理解できる。

以下の主のことばもみことばのききんをさすたとえとして、理解できる。

 

マタイ24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

 

 

アモス

 8:11 見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。

 

 8:12 彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。

 

ききんは麦、パンがないことであり、それは、命のパン、みことばのききんに通じる。

いずれ、教会のあらゆる真理、教理、伝統的な信仰が崩され、否定されるようになる。

キリストは神ではない、復活もしていない、ただのペテン師だなどのメッセージが

礼拝で語られるようになる。また、聖書にも間違いがある、信頼に値しないなどともいわれる。

このようなメッセージで我々の心が満たされ、力がわくであろうか?このようなパンを食べて何の足しになるのか?そして、悲しいことには世界中の全ての公の教会は統制され、支配され、

その内容も検閲され、イエスは神である、とのメッセージは世界のどこの教会でも語ることができない、禁止されるようになる。これは何か?これこそ、まことにみことばのききんの日、命のパンのききんの日である。

 

異教と手を結ぶカソリック法王:みことばのききんがくる

 

NO.422 神のことばとの戦い 

<悪霊の洪水>

 

終末の日のもう一つの大きな特徴はその日が、悪霊のリバイバルの日、悪霊の洪水の日であることである。主ご自身も終末の日が、ノアの日の様である、すなわち、洪水の日となることを語る。

以下のとおりである。

 

マタイ24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

 

 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

 

 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

 24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

 24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

ここには、「洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」として、主の再臨の日とは、いわばノアの洪水の再現の日となることが語られている。そして、その洪水とは文字通りの水、雨水や、海水の洪水ではなさそうである。

何故なら、神は今後文字通りの水による、洪水が2度と地を襲う日がこないことをノアの日に約束されているからである。

 

創世記 9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」

であるので、終末の日の洪水とは文字通りの水というより、たとえであり、それは悪霊の洪水のたとえと理解できる。何故なら、水は以下の様に霊的なことをたとえるからである。

 

ヨハネ7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 

 7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

 

さて、さきほどの主のことばを少し見てみる。

 

 

マタイ24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

 

主の再臨の日にノアの日が再現し、また、ノアの洪水が再現することを主は語られている。

このことばを軽視すべきでない。逆に、耳を傾け、注意を払うべきである。

 

 

 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

 

飲んだり食べたりとは、たとえであり、教会における飲んだり食べたりを語っている。教会は

聖餐のパン、ぶどう酒を食べ飲みするところである。すなわち、洪水にあうのは教会に通うクリスチャンであることがたとえを通して語られているのである。

また、「めとったり、とついだりしていました。」との表現もクリスチャンをあらわすたとえである。我々はキリストの花嫁であり、キリストへとつぐものであるからである。

すなわち、この洪水は通常の教会生活を送るクリスチャンを飲み込む洪水となることが語られているのである。

 

24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

ここには、その霊の洪水に関連してその洪水が全ての人をさらうことが書かれている。

新改訳を見ると「全ての物をさらう」として、洪水がさらうのは物であるように訳されているが、

それは、間違いである。何故なら、

KJVを見る限り「全ての人」がさらわれることが描かれているのである。

このことはノアの時代のできごとと一致する。創世記の洪水の記述にも「物」がさらわれることなど記載されていない。むしろ、下記の様に人が消し去られることが描かれている。

 

創世記 7:4 それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」

 

 7:21 こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。

 

 7:22 いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。

 7:23 こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。

 

ノアのとき、「すべての肉なるもの」が洪水で消し去られたことが描かれている。終末の日の洪水の日にも、肉なる歩みをするクリスチャンは、みなこの霊の大洪水に巻き込まれることが想像される。

ノアの日の洪水の特徴は、それは、洪水が一部の人だけを巻き込んだものでも、一部の地域に起きた局地的なものではなかったことである。逆にそれは、全世界をおおうものであり、

その当時のほとんどの人が犠牲になったのである。

同じことが終末の洪水において繰り返されると思われる。何をいっているのか、というと、

この終末の惑わしの霊の洪水は多くのクリスチャンを巻き込み、滅びに追いやる、ということである。

クリスチャンの一部が犠牲になる、というより、この洪水に巻き込まれ、惑わしの霊のとりこになる人の数のほうが多いはずである。

 

 

 

「彼らはわからなかったのです。」

 

この惑わしの霊の洪水、リバイバルの特徴はその真中にいる人はそれと気付かないということである。誰も自分が悪霊による洪水にあっているとは思わない、むしろ自分はキリストの霊、神の霊によって、

奇跡やいやしを行っている、と誤解するようになるのである。

しかし、惑わしの霊やら、悪霊の奇跡をおこなっていてそれで、神に喜ばれる、などということはありえない。これらの霊に惑わされて奇跡やわざを行っている人々はみな、キリストの霊とは関係がない、

キリストのあがないとも関係がない人々となる。それゆえ、彼らがキリストに会うその日、肝心のキリストから「あなた方を知らない」といわれてしまうのである。

以下のことばのとおりである。

 

マタイ7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

 

 7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』

 

 7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

ここに書いてあることは恐るべきことがらである。自分たちはてっきりキリストの名により、奇跡を行い、悪霊を追い出し、預言をしており、自分はキリストの働きをになってきたのだ、と得意満面でその日、キリストに出会った人々が何と当のキリストから、

「知らない」といわれてしまうのである。いかに彼らを惑わす惑わしの霊が巧妙な霊であるかわかろうというものである。

また、キリストの名を用いて奇跡が行われたとしても、それが必ずしもキリストの霊によるものとは、かぎらない、ということもわかるのである。

 

 

 24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

 24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

これらのことばは、洪水に関連して語られているのである。決して携挙のことなどではない。

従って、「一人はとられ、一人は残される」とは、その悪霊の洪水に一人のクリスチャンは取られ、一人のクリスチャンは残るということを語っているのである。

畑はみことばの種と関連しており、クリスチャン用語、臼も麦、みことばと関連しており、クリスチャン用語。これらのことは教会やクリスチャンに関して語られているのである。

その教会の中で、ある人は霊の洪水に巻き込まれ、ある人は洪水にさらわれることなくとどまる、そう語られているのである。

 

他にも終末の日の霊の大洪水を語る聖書箇所はある。たとえば、以下である。

 

ダニエル 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。

 

ここにも、「その終わりには洪水が起こり」として、その背教の後、洪水が起きることが語られているのである。

 

洪水という表現を用いないにしても、終末の背教の教会が、

悪霊の影響を受けていくことは黙示録の中で語られている。たとえば以下である。

 

 

黙示録 8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。

 

 8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。

 

 8:9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。

 

 8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。

 8:11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。

 

 

 

これらの記述はみな、終末の日に教会が悪霊の大洪水に席巻されていくことを語るたとえである。

ノアの洪水:終末にも悪霊の大洪水がやってくる

 

 

 

リバイバルの霊の洪水:それは神からの霊か?

 

 

No.152 ノアの日
通算No.153  めとり、とつぎ
通算NO.154 ノアの日、ロトの日(改訂版)
NO. 412 ひとりはとられ、ひとりは残される

<偽預言者によるしるし、不思議>

 

この悪霊のリバイバルに巻き込まれたクリスチャンは、しるしと不思議を行うようになる。

しかし、それは、以下のことばの様に偽預言者のしるしである。

 

マタイ 24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

 

これらのしるしと不思議は、キリストの名前で行われる。しかし、その働きは神からのものではない。

彼らは自分は神の霊に満ち、みことばの解釈もすばらしく、たまものに何も不足はない、

と思うが、しかし、それは、惑わしの霊に惑わされているに過ぎず、実際はキリストの前に、

みじめなもの、罪があがなわれていないものである。

以下のラオデキヤへのみことばは、そのような霊のたまものに満ちた人々に対して語られたものである。

 

黙示録 3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

 

世の終わりにはキリストのいわれたとおり、しるしと不思議を行う偽預言者が起きる。この偽預言者の特徴は、彼らは自分が偽預言者だなどと少しも思っていない、ということである。

 

 

聖霊の第3の波を提唱したピーターワグナー:その霊は神からのものではない

 
通算No.78 終末の偽預言者

<霊のぶつかり合い>

 

このように、悪霊のリバイバルがキリスト教会に浸透した後、起きてくることは霊のぶつかり合いである。すなわち、聖霊に導かれる人と悪霊に導かれる人とのぶつかりあいが起きる。

以下の主のことばはその日を預言したものである。

 

ルカ12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。

 

 12:50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。

 

 12:51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。

 

 12:52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。

 

 12:53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」

 

ここで、主は自分が来たのは地に火を投げ込むことであると語っている。それは、具体的には、

ペンテコステの日の火、聖霊の火である。そして、その聖霊の火が下った後は平和が来そうなものだが,逆に分裂がくることを語られている。

そして、「一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるように」なることを語られている。何故、聖霊が下った後、分裂があり、分かれて争うようになるのか?

その理由はそれぞれのクリスチャンが受けている霊が異なるからである。

片方は聖霊を受けており、他方は悪霊に導かれている。結果として、当然の様に分裂がおきるのである。

 

以下のことばは、その霊のリバイバルにともなう、教会のクリスチャンの間の分裂、ぶつかり合いを示す。

 

黙示録6:3 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。

 

 6:4 すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。

 

赤い馬と書かれているが、赤は火の色であり、火は、霊のたとえである。

この火、霊が下るとき、地上から平和が奪い取られ、霊のぶつかり合い、憎しみあいが起きる、そして、

その結果は極端なものとなり、互いに殺しあうようになる、クリスチャンがクリスチャンを訴えて死に至らしめるようになる。

 

以下もそのぶつかり合いの日をたとえを用いて表現していると思われる。

 

マタイ10:21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。

 

 10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

 

兄弟とは教会の兄弟姉妹のことであり、父子は信仰の父子関係をあらわすたとえと理解できる。

 

 

 

 

霊のぶつかり合い

 

 

<悪霊の洪水と砂の上に建てられた家>

 

悪霊の洪水に関連して「一人はとられ、一人は残される」ことが描かれている。

とられるものと残されるものの違いは何か?

何が異なるのか?

 

そのことの助けになるのが、岩の上に家を建てた人、砂の上に家を建てた人のたとえである。

 

マタイ7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

 

 7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

 

 7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。

 

 7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

 

 

 

その日には、すなわち、終末のノアの日には、洪水が誰も彼をも襲う。上記箇所で、

賢い人の建てた家にも、愚かな人の建てた家にも同じように、「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつける」と書かれたように、どちらの家にも洪水が押し寄せるのである。

悪霊の洪水は全てのクリスチャンを襲うわけである。

しかし、その洪水の中でも、キリストのことばを行うものは、その洪水に耐え、倒されることはない。

すなわち、霊の洪水に巻き込まれることはない。逆にこの終末の悪霊のリバイバルに巻き込まれ、

惑わされる人の特徴は、みことばを行わない人である、そのような特徴があることがわかる。

砂の上に建てた家

No.670 岩の上に教会を建てる
No. 750 砂の上に家をたてる

 

<教会は移される>

 

その終末の日において、世界中の教会がほとんど強制的に変質、改変、移動してしまうことが語られている。以下はそのことをたとえを通して語られている。

 

黙示録 6:12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。

 

 6:13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。

 

 6:14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。

 

 6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、

 

 6:16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。

 

 6:17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

 

 

地震は建物の崩壊と関係があり、神の家、教会の崩壊と関係がある。

 

「すべての山や島がその場所から移された。」ともたとえの表現であり、要するにあらゆる教会が移されることを語る。その場所とはすなわち、神の定めた教会の位置、場所である。

教会はキリストの花嫁、神の御心を行う、というような位置である。そのあるべき位置から教会が移され、背教となり、キリストの花嫁ではなく、神に従うものでもなくなる。

別の場所へ教会が移されていくのである。

 

移される教会

No. 424 古びた着物
NO. 425 古い着物と新しい布切れ
NO.530 移される

 

<カソリックの偽りがプロテスタントを席巻する>




主はかつての日、背信の道を歩む南のユダ国に関して、

エレミヤにこのようにいわれた。

 

エレミヤ1:13 再び、私に次のような主のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」

 

 1:14 すると主は私に仰せられた。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。

 

 1:15 今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。――主の御告げ。――彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁と、ユダのすべての町に向かって、それぞれの王座を設ける。

 

 1:16 しかし、わたしは、彼らのすべての悪にさばきを下す。彼らはわたしを捨てて、ほかの神々にいけにえをささげ、自分の手で造った物を拝んだからだ。

 

 

この日、ユダに北の国から災いが下ることが預言されたのである。

この預言は旧約のユダ国においてのみならず、新約のユダ国、すなわち、プロテスタントへの預言とも理解できる。すなわち、プロテスタントが背信に陥ったその日、

北の国、すなわち、カソリックからの災いが下るという預言である。
いずれ、プロテスタントにはあらゆるカソリックの誤りが浸透するようになる。

現在、プロテスタントで進みつつある、エキュメニカル運動は

いずれ、プロテスタントの根本教義を覆すようになる。

 

 



マリヤは神の母である、聖4位一体だと冒涜教理を語るカソリック






NO.202 捕らえ移されたイスラエル
No.203 北の国

No.204 北の国、マゴグの地のゴグ

NO.538 エキュメニカルとハルマゲドン

NO.704その道を通らない

NO.705その道を通らない2
NO.706その道を通らない3

 

 

<最後まで耐え忍ぶものは救われる>

 

艱難時代は終末の日の神の民をより分ける試練のとき、試験のときとなる。以下のことばのとおりである。

 

黙示録3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

 

ここに「地上に住む者たちを試みるために」と書かれているように、

終末の試練には意味があり、目的がある。それは、クリスチャンを試験し、その本質、本音を

確かめるためのものなのである。

 

 

この艱難の時を経て、なおかつ、主にとどまるものにみこころがある。

途中で、信仰を失ったり、妥協して反キリストを拝むような人にはみこころがない。

さらに主は最後まで耐え忍ぶものは救われることを語られた。以下のとおりである。

 

マタイ24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

 

 24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

 

 24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 

 24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

 

 24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

 

 24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

 

 24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

 

 24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

この箇所を少し見るなら、以下のとおりである。

 

「戦争のことや、戦争のうわさ」

 

これは、たとえであり、世の中の戦争をさすわけでなく、逆にキリスト教会における戦争、

教団や教会の対立、戦いをさすたとえである。教理や教えが混乱し、争いになる。

 

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」

 

ここに書かれていることもたとえであり、キリスト教会の教団、教派間の争い、敵対が起きることが預言されている。

 

「しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」

 

これらの教団間、教派間の争い、とがめあいが終末の日の艱難時代の初めであり、起点となる。

 

 

 24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

 

その日、キリストの名のゆえに正しい人々は全ての国の人々、さらに全ての教団の人々から憎まれるようになる。正しく主につく人々は背教の教会の人々から憎まれる。

さらに、正しい人々は迫害され、殉教する。

 

 

 24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

 

これらの迫害の中で、多くのクリスチャンがつまずき、キリストから離れる。また、

昨日までともにキリストを信じていた、信仰の友を裏切り、憎むようになる。

 

 

 24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

 

 

多くのキリスト教の牧師、教師が変節し、今までと異なる教理、教えを語るようになる。

いわく、教会の牧師が会衆に向かって、「自分も、今まで、聖書を単純に信じだまされていた。しかし、今、実は、

キリストの十字架や、復活に関する記述は歴史的な根拠のない偽りであることがわかった。

みなさんもこのような誤りから立ち返りましょう。」

このようなことを教会で語り、多くの信者を動揺させ、ぐらつかせ、信仰からつまづかせる。

 

 

 24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

 

このように、多くの教会、教団、教派、クリスチャンがなだれをうったように、信仰から離れる日がくる。その中で、

正しい人々が迫害される日が3年半の間、続く。その期間を最後まで耐え忍ぶものは救われ、永遠の命を獲得する。

路傍伝道のゆえに逮捕されるクリスチャン:最後まで耐え忍ぶものは救われる

NO.408 天からの救い
NO,409 裁き主として来られる主

 

 

<キリストは盗人のように来る>

 

主は再臨のキリストは盗人の様に来られることを語られた。以下のことばの通りである。

 

マタイ24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

 

 24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。

 

 24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

 

1テサロニケ 5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

 

 5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

 

 5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。

 

黙示録 3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 

黙示録 16:15 ――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――

 

 

何故、主は盗人の様に来られると語られているのか?ここにもたとえや謎が隠されている。

聖書では盗人は以下の様にみことばを盗むことと関係する。

 

エレミヤ 23:30 それゆえ、見よ、――主の御告げ。――わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる。

 

 23:31 見よ。――主の御告げ。――わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる。

 

 23:32 見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。――主の御告げ。――彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。――主の御告げ。――

 

このように、盗人はみことばを盗むことと関係する。従って、

主が再臨に関連して、「盗人の様に来る」と語られたとき、それは再臨に関するみことばが盗まれることを暗示していると理解できる。

 

そして、このことは事実であり、キリストの再臨に関するみことば、終末の日に関するみことばは、どれもこれも盗まれており、本来のみことばと異なる意味合いで使われており、

本来聖書が語っていたのと、全く逆の教えが語られている。

 

すなわち、主は終末に関連して、かつてなく今後もない艱難が来ることを語られたのに、このことばはまったく盗まれ、改ざんされ、変形され、クリスチャンは終末の日にもう艱難には会わないことになっている。いわく艱難前、中携挙の偽りの教理である。

 

宮の崩壊に関する預言も盗まれ、別の解釈、すなわち、エルサレムに第3神殿が建つなどとの、

変形した話が語られている。

 

結果として、そのようにみことばを盗まれ、偽りの教理で洗脳されたクリスチャンは、正しく

キリストの再臨に対応できない。以下のことばをそのことを語っている。

 

 

黙示録 3:3もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。




再臨の日は夜中の盗人の様に来る


NO.474 再び雲にのってこられる
NO.475 突き刺した者たち
NO.490 雲に乗って来られる方
NO.518 雲に乗って来られる方(2)

<偽ユダヤ人>

 

黙示録は「ユダヤ人であると嘘をついている悪魔礼拝者」について

語る。また、彼らが正しいクリスチャンに敵対し、迫害を加えようとすることを語る。

以下のとおりである。

 

黙示録 2:9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

 

 

 3:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。

 

終末の日の艱難時代の隠れた主役、背後の立役者は彼らである。

艱難時代に正しいクリスチャンが逮捕、迫害されるための計画、実行は彼らによりなされる。

このHPで語られている全世界の教会が背教する、キリストを否定するようになる日など、

普通には起こりえないことである。しかし、そのように考える人々は、

他の要因、すなわち、裏で、その日を実現しようと日々努力する人々が存在することを知らず、計算にいれていない。どのようなありえない日であっても、それを裏で、用意周到に準備する人々がいれば、それは実現する。

 

終末の日に全世界を支配するアメリカは実は偽ユダヤ人に操られた国である。

彼らは長年にわたる彼らの望み、すなわち、全世界の支配、及び、キリスト教の壊滅を

めざすべく、その実行の道具として、獣の国アメリカを作り上げた。

彼らは、クリスチャンを憎んでおり、キリストを憎んでいる。彼らの積年の大望は、

キリスト教会を支配し、その教会の真ん中に彼らの王、ユダヤ王を立て、全てのクリスチャンに彼らの王を礼拝させることである。この彼らの計画はシオン長老の議定書に記されている。

また、キリストの信用や、評判を地に落とし、みなで、キリストをののしることである。

それは、また、サタンの望みでもあり、彼ら悪魔礼拝者である偽ユダヤ人は、彼らの礼拝する悪魔の意思を行うようになる。

アメリカにすでに存在している多くの強制収容所は、彼らのクリスチャンへの憎しみのあらわれである。

サタンは彼らを用いて、艱難時代を来たらせようとしている。



 
獣の国アメリカの裏には悪魔的偽ユダヤ人がいる

NO.312ユタヤ人だと嘘をついている者達
NO.315 ユダヤ人だと嘘をついている者達(2)
NO.400 年を経た蛇
NO.617偽ユダヤ人の冒涜
No.725 悪魔礼拝者が教会を席巻する日

 

 

 

 

 

 

 

 

<結論>

 

終末の日に起きることは、割と単純といえば単純なことがらである。

黙示録には、多くのことがらが記されている。それらの全てを解説するには、

かなりのページが必要である。しかし、

その主旨、基本、骨格は割と単純な事柄に思える。

キーワードは7つの封印、教会の背教、宮の崩壊、獣の国、反キリスト、艱難時代、

悪霊の大洪水、キリストの再臨などである。

そこに書かれているのは、終末の日における神の民、教会の背信と、
それゆえ、下る神からの災いである。

今は、終末の獣の国はすでに台頭しており、教会の変質も目に見えるほどである。これらの災いが下る日は遠い先の日ではない。

 これらの声に耳を傾け、歩みをただしたい。


ー以上ー

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