日本人を洗脳したユダヤ映画

ユダヤは、第一次世界大戦を契機に、映画を非ユダヤ人奴隷化のための戦争の主要な戦線の一つとすることを決定した。ユダヤの仕掛けた世界映画戦争は、これを三つの局面に分けることができる。第一次世界映画戦争は、第一次世界大戦で米英ユダヤがドイッに対して行なったもので、ユダヤに凱歌があがった。続いて第一次大戦後、ユダヤは非ユダヤ民族堕落のために、本格的な第二次映画戦争に乗りだし、米英仏ユダヤ映画の完勝となった。ナチス・ドイツが台頭すると、ここにユダヤ米英仏とドイツの間の、第三次映画戦争となり、ついにユダヤの圧勝となった。そしてその後は、世界の映画は、ユダヤの完全独占するところとなったのだ。大正四年(一九一五年)、コクレンが米国ユニヴァーサル映画会社の代表として来日し、大正六年、目本最初のアメリカ映画日本支社が創設された。大正十一年、彼は再ぴパラマウント社代表として来日、アノリカ映画全盛時代を切り開いた。
 

それから、毎年数百本のユダヤ欧米映画が日本を襲撃したから、日米開戦まで、合計、約一万本のユダヤ映画が日本国民に注入した毒は、はかり知れない。それに、日本の映画会社も、映画評論家も、映画ジャーナリズムも、ユダヤ映画を至上のものとして崇拝し、その模倣をこととした(とくに、東宝が著しい)から、洋和あいまって、この十年のうちに、日本国民は、『プロトコール』の三S(セックス、スクリーン、スポーツ)政策の餌食となり、拝欧拝米、アジア蔑視の呪縛にかけられ、ユダヤ・アメり力文化の植民地奴隷に仕立てられたといえよう。その証拠として、一九三五年(昭和十年)三月に公開されたユダヤ映画「ベンガルの槍騎兵」に対する、日本国民の熱狂ぶりをあげることができる。この映画は、ユダヤ・アングロサクソンのインド征服を正当づけ、アジア民族を威嚇する目的をもって、反乱するインド民衆を討伐する英国軍を英雄として描いたものである。当時の日本国民は、英国軍がインド民衆を残酷に殺戮する機関銃の昔に酔った。ここまで日本人は、米英ユダヤに魂を奪われていたのである。昭和二十年、対米敗戦となるや、一夜にしてマッカーサー元師を救世主として仰ぎ見、「どうか日本をアメリカの属国にしてください」と懇願する手紙を送るような日本人に化けたのも、別に不思議でもない。