エジプトと呼ばれる都 by エレミヤ

-終末の教会はエジプト化する。悪霊のリバイバルに席巻され、聖霊を追い出し、あがないの血を失い、結果、永遠の命を失う。

 

エジプトと呼ばれる都:過ぎ越しの主の使いはエジプト化した教会に災いをもたらす

 

 

 

本日は「エジプトと呼ばれる都」としてこのことを見ていきたいと思います。

 

1.  終末の教会はエジプト化する:

 

黙示録は終末の日の教会がエジプト化することを預言して以下の様に述べます。

 

黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

 

ここには、終末の日に教会が背教し、結果、神の前には、ソドムやエジプトと呼ばれる存在となること、

さらにこの教会の中で2人の預言者が殺されること、主も十字架につけられることが、

語られているのです。

 

すなわち、かつての日、主の初降臨の日に起きたことが終末の日に再現することを述べているのです。

 

主の初降臨の日に起きたことは以下の様なことでした。

1.)旧約の神の民が背教し、

2.)エリヤの再来であるバプテスマのヨハネを殺し

3.)主イエスキリストを十字架につけて殺した。

 

同じく主の再臨の日に同じパターンが繰り返されるのです。

1.)新約の神の民が背教し、

2.)エリヤの再来、モーセの再来である2人の預言者を殺し、

3.)主イエスキリストの霊、聖霊をふたたび十字架につける

 

そして、それゆえ、神の怒りが燃え上がり、主の日の災いが新約の背教の教会に臨むのです。

 

 

2.    ソドムの意味合いは何か?

 

上記聖書箇所で、神は単に教会がエジプト化する、と語るのみではなく、

ソドム化することをも預言します。

このことを考えてみましょう。ソドムとは、どのような意味あいで終末の教会に関して語られているのでしょう?

 

ソドムに関して聖書は以下の様に語ります。

 

創世記19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。

 

 19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

 

この箇所はソドムの人々がロトの家を訪れた御使いを知ろう(性的関係を持つ)として、

押し寄せたという記事です。すなわち、同性愛の関係に関して語っているのです。

そうです、ソドムは同性愛で有名な町なのです。

ですから、終末の教会がソドムと呼ばれるとき、それは同性愛に

関係することばであることがわかるのです。

 

 

聖書の中では、旧約の中でも新約の中でも同性愛は禁止されています。

以下の通りです。

 

レビ 18:22 あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。

 

しかし、現在の教会では、このような聖書の明白な教えに逆らい、

同性愛を認め、牧師が同性婚を祝福したり、さらに同性愛者の牧師さえ誕生しています。

そうです、教会は神の都ならぬソドム化しているのです。

ですので、我々は上記黙示録のことば、ソドムと呼ばれる都とのことばは、

現代の教会において成就していることを見るのです。

すでに教会のソドム化は成就しつつあります。もう一つのこと、エジプト化も

成就しつつあることを我々は見るようになります。

 

ソドムから逃げるロトたち:教会はソドム化する

 

3.    エジプトの意味合いは何か?

 

さて、それでは、エジプトということばの意味合いは何でしょうか?このことを考えてみましょう。

 

黙示録の中でエジプトに関してもっとも詳しく書いてある書は、出エジプト記です。

 

そして、黙示録の時代にはどうも出エジプトが再現するように思えます。

その理由としては、今回のテキストのみことばのように、黙示録にはエジプトと呼ばれる都として、

終末の日にエジプト化する教会が描かれていることがあります。さらにいうなら、黙示録11章に登場する2人の預言者の特徴は出エジプトを行ったモーセと似ています。

 

出エジプト11:6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。

 

水を血に変える、さらに何度でもあらゆる災害をもって打つとは、まさに

モーセが出エジプトの時に行ったことなのです。

 

4.    エジプトに起きた災いの多くは悪霊をたとえるものである。

 

出エジプト記の中で、神はエジプトを10の災いで打ちます。その災いの多くはたとえの理解としては

悪霊に関する事柄と思えます。このことをみてみましょう。

 

<ナイルの水が血に変わる>

 

出エジプト: 7:17 主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、

 

 7:18 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」

 

 7:19 主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」

 

 7:20 モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。

 

 7:21 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。

 

 

水は聖霊のたとえです。聖霊は命の水です。しかし、この日、エジプトに災いが下り、

水が血に変わり、その水を飲むことができなくなりました。この血は明らかに悪霊のたとえです。

聖霊の働きが悪霊のものに変わったことを示すと理解できます。

血に変わるナイルの水:エジプト化した教会では、聖霊の働きが悪霊のものへと変わる

<かえる>

出エジプト8:1 主はモーセに仰せられた。「パロのもとに行って言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。

 

 8:2 もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。

 

 8:3 かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家にはいる。あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、はいる。

 

 8:4 こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、はい上がる。』」

 

 8:5 主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」

 

 8:6 アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。

 

ここでは、ナイルから出たかえるがエジプトをおおったことが描かれています。このかえるは、

ナイル、水から出るのですから、かえるも霊的なことに関係しているのでしょう。

黙示録では、かえるが汚れた霊とともに描かれています。

 

黙示録16:13 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。

 

ですので、このナイルから出たかえるも汚れた霊をさすたとえ、と理解できます。

 

蛙の災い:蛙は汚れた霊のこと

 

<ぶよ(しらみ)>

出エジ8:16 主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」

 

 8:17 そこで彼らはそのように行なった。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。

 

 8:18 呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。

 

この災いは新改訳では、ぶよと記されており、KJVでは、しらみと訳されています。

ぶよであってもしらみであってもそれは、血を吸う、かゆみをもたらすものなので、

血すなわち、聖霊の働きをとどめるものとして、悪霊のたとえ、と理解できます。

 

<あぶ(蝿)>

 

出エジプト8:21 もしもあなたがわたしの民を行かせないなら、さあ、わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。エジプトの家々も、彼らがいる土地も、あぶの群れで満ちる。

 

 8:22 わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである。

 

 8:23 わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。』」

 

 8:24 主がそのようにされたので、おびただしいあぶの群れが、パロの家とその家臣の家とにはいって来た。エジプトの全土にわたり、地はあぶの群れによって荒れ果てた。

 

 

新改訳では、あぶと書かれていますが、KJVでは、蝿と書かれています。

悪霊のベルゼブルには、蝿の王という意味合いがありますので、蝿も

悪霊をたとえるたとえと理解できます。

 

このように、エジプトに起きた災いは悪霊的なものだったのです。

あぶ(蝿)の災い

 

 

1.  悪霊の災いは今のキリスト教会にあふれている。

 

さて、上記の様にエジプトに起きた災いには悪霊的なことがらが多かったのです。

そして、聖書は終末の日に、背教の教会がエジプト化すなわち、悪霊の災いに会うようになることを語るのです。

 

この視点、悪霊の災いという観点で今のキリスト教会を見てみましょう。

私の理解では、今のキリスト教会で起きているいわゆる、しるしと不思議のリバイバルこそ、この悪霊の災いではないか、思われます。

 

ピーターワグナーが提唱した聖霊の第3の波、現在、アメリカを基点として起きているリバイバルの波とは、他でもない、悪霊のわざの様に思えます。

 

そう思う理由は、我々が発行しているトロントビデオCDでもわかるように、

このリバイバル運動で働く器たちが隠れて悪霊を呼び出したり、悪魔的なサインを

行っているからです。

ベニーヒン、ビルハモンなど、アメリカの多くのリバイバルの器は悪霊的な器であり、

そのリバイバルとは悪霊のリバイバルであるとは、我々だけが語っているわけではなく、

欧米でも多くの人々が警告していることなのです。

ピーターワグナー:彼の提唱した聖霊の第3の波は悪霊のリバイバル

 

6, それはしるしと不思議である

 

聖書はエジプトに起きる災いに関してそれは、「しるしと不思議」であることを

語ります。以下の通りです。

出エジプト:7:3 わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。

 

出エジプト10:1 主はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行なうためであり、

 

 10:2 わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」

 

 

詩篇 135:9 エジプトよ。おまえのまっただ中に、主はしるしと奇蹟(不思議:KJV)を送られた。パロとそのすべてのしもべらに。

 

 

このように聖書はエジプトに下った、血の水、かえる、あぶ()などの災いを

「しるしと不思議」という表現で語っているのです。

このこと、しるしと不思議という表現がここで、使われていることは非常に象徴的です。

何故なら、ここ、2−30年の間に起きたいわゆる聖霊の第3の波、というリバイバル運動では、しきりに「しるしと不思議」ということばが使われるからです。

 

このリバイバル運動、アメリカを基点に起き、今全世界を席巻しようとしている

リバイバル運動の本質をこれらのみことばは語っているように思えます。

 

これらのリバイバル運動に関してすばらしい神のわざ、聖霊のわざが溢れているなどと語る人もいますが、それは、実際と異なっており、霊の吟味ができておらず、本質が見えていない人のことばだと思われます。

 

神のことばはにべもなく、遠慮会釈もなく本質を語ります。それは、

悪霊であり、聖霊の働きがあふれているのではなく、かえる、すなわち、悪霊が席巻しており、あふれているのに過ぎないのです。すばらしい神のわざどころか、蝿、悪霊が聖会の中で、飛び回っているのです。

そのように神のことばが語り、それらの表現こそこれらのリバイバル運動の霊的な現実を語るものなのです。

しるしと不思議のリバイバル:それは悪霊からのもの

 

2.  過ぎ越しの血はエジプトから取り去られる

 

どんな霊だろうと、恵まれればよいではないか、しるしがおき、不思議が起きればよいではないか、さらにいやしが起きていればなおよい。リバイバル運動を批判するな、などという意見もあるかもしれませんが、このリバイバル運動に惑わされる人は

永遠の命が危なくなることをみていきましょう。

出エジプト記はこれらのリバイバル運動の行き着く先、その結論を述べます。

 

そのことをみましょう。それは以下の過ぎ越しの祭りの記述に反映されています。

 

 

出エジプト 11:4 モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。

 

 11:5 エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。

 

 11:6 そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』

 

 11:7 しかしイスラエル人に対しては、人から家畜に至るまで、犬も、うなりはしないでしょう。これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです。

 

 11:8 あなたのこの家臣たちは、みな、私のところに来て伏し拝み、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください。』と言うでしょう。私はそのあとで出て行きます。」こうしてモーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った。

 

 11:9 主はモーセに仰せられた。「パロはあなたがたの言うことを聞き入れないであろう。それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである。」

 

 11:10 モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行なった。しかし主はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。

 

 

 12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。

 

 12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

 

 

 

 この箇所を順に見ましょう。

 

 

出エジプト 11:4 モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。

 

 

真夜中ごろ主がエジプトの中に出てこられ、裁き、罰を下されました。

同じように終末の日、夜も更け、闇も増した頃、エジプト化した教会に主が出てこられ、罰が下されます。

 

 

 11:5 エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。

 

その最後の災いとは何かというと、初子が死ぬ、という災いです。

ですので、このことを通して我々は理解しなければ、なりません。それは、

今起きているエジプト的なリバイバル運動、悪霊のリバイバルの行き着く先を理解することです。

 

エジプトには10の災いが下されました。水が血に変わったり、かえるが現れたり、さらにあぶ(蝿)が現れたり、10もの災いが下り、そして最後の災いにおいては、初子が打たれ初子が命を失って終わったのです。

 

同じことがエジプト化し、悪霊のリバイバルを追い求める人々にはおきるようになります.

何をいっているのか、というと今おきている悪霊によるしるしと不思議のリバイバルの行き着く先は、

初子の死をもたらす、だろうと、いうことです。初子の死が意味することは、

過ぎ越しの血が取り去られ、子羊の血が取り去られ、死や罰はエジプトの家を過ぎこさないこと、

あがないが取り去られることです。

 

11:6 そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』

 

この災い、エジプトに起きる初子の死というわざわいは、キリスト教会の歴史においてもかつてもなく2度とない災いです。

それは、驚くべき災いであり、すべてのクリスチャンに与えられていたあがないの血、子羊イエスの

あがないの血がエジプト化したクリスチャン、教会から取り去られ、許されたはずの罪や罰がみな、

戻ってきてしまい、神の怒りを掛け値なしに受ける、という恐ろしい災いの日なのです。

 

 

 11:7 しかしイスラエル人に対しては、人から家畜に至るまで、犬も、うなりはしないでしょう。これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです。

 

しかし、すべての民に災いが下るわけでなく、終末の日においても、エジプト化したクリスチャンと

イスラエルとして残り続ける民との間には区分があります。「イスラエル人に対しては、人から家畜に至るまで、犬も、うなりはしないでしょう。」と書かれている通り、災いは過ぎ越します。

その日には、「主がエジプト人とイスラエル人を区別される」のです。

 

11:8 あなたのこの家臣たちは、みな、私のところに来て伏し拝み、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください。』と言うでしょう。私はそのあとで出て行きます。」こうしてモーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った。

 

 11:9 主はモーセに仰せられた。「パロはあなたがたの言うことを聞き入れないであろう。それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである。」

 

 11:10 モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行なった。しかし主はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。

 

ここに、「わたしの不思議がエジプトの地で多くなる」と書かれているように、その日、かたくななエジプトの民には多くの不思議が起こりました。同じく今のエジプト化したキリスト教会には不思議やしるしが多くなっています。しかし、それは、神の祝福が現れているのでなく、聖書的には災いの日が近づいているのです。

 

 

 12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。

 

この日、主はエジプトの地を行きめぐり、エジプトの全ての家に災いをもたらしました。

初子が打たれたのです。また、「エジプトのすべての神々にさばきを下そう。」と書かれていることにも

目をとめてください。神々、すなわち、

今、エジプト化した教会で神の様にあがめられているリバイバルの器も同じさばきをうけるのです。

それは、初子が打たれることであり、あがないが取り去られることです。

 

12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

 

さて、主はどのようにして、エジプト人の家とイスラエルの家とを見分けるのでしょうか?

それに関して、聖書は、「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。」と

語ります。すなわち、家の戸口に塗ってある子羊の血がその区分をもたらすのです。

その血は、裁きのときにイスラエルの人々を守り、滅びの災いはイスラエルにくだらないのです。

 

ですので、この箇所はたとえをもって、終末の日にエジプト化したクリスチャン、教会と、その

エジプト化した教会と一線を画すクリスチャンとの間の大きな区分があることが描かれているのです。

 

その日、エジプト化した教会に入らず、具体的には今起きているおかしな悪霊的なリバイバルに巻き込まれずとどまる教会と、その悪霊リバイバルを全面的に受入れる教会との間に大きな区分が起きることが描かれているのです。

 

それは、具体的には何かというと、血の差であり、霊の差です。

最後まで、イスラエルとして神の前にとどまる教会には子羊イエスの血は有効であり、聖霊はとどまり、あがないは有効となり、神の罰は下されません。

しかし、エジプト化した教会、すなわち

悪霊のリバイバルに狂奔し、悪霊のしるしを追い求める教会に関しては災いが起きます。それは、教会から聖霊が去り、結果、あがないの血が去り、

クリスチャンにとって、非常に大事なこと、イエスの血によるあがない、ということが消えうせてしまう、という深刻な事態に陥るのです。その代わり、聖霊らしい霊が働き、それらしいいやしや、奇跡、不思議は起きるのですが、何しろその霊が神からの霊ではないので、あがないが神の前に有効とならないのです。それで、エジプト化した神の民にはかつての出エジプトの日の災いが再現します。

すなわち、初子が殺される、死がエジプトを覆う、すなわち、エジプト化した民からあがないが失われ、永遠の命が失われ、死や神からの罰が下されるのです。

 

過ぎ越しの祭りの子羊の血:それは、イエスの血である聖霊の象徴

 

 

3.    あがない、ということ

 

ここで、途中ですが、聖書の言うあがない、ということを一度考えてみましょう。

 

あがない、とは買い取るという意味合いがあり、具体的には我々の払うはずだった、罪過の値を

主が買い取って、下さり、我々を受けるべき罰から救ってくださる、ということです。

聖書にはこう書かれています。

 

レビ17:11 なぜなら、肉のいのちはの中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのはである

 

このように、神が備えた血こそ、我々をあがない、命を救い、罪過の値を払ってくださるものなのです。

 

この血は我々クリスチャンが代々受けている聖餐式のぶどう酒に通じます。

主ご自身がこういわれています。

 

1コリント11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

 

ここに書かれているように聖餐式のぶどう酒は、主の血を象徴したものであり、この主の血により、

我々があがなわれ、罪から買い取られたのです。

 

さて、この血に関してヨハネはこう述べています。

 

1ヨハネ  5:8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。

(地において証するものが3つあります。御霊と水と血です。そしてこの3つは一つに合意しています。kJV)

 

ここで書かれているように、すなわち、血とは、他ならない神の霊である御霊をさす表現なのです。

 

ですので、我々クリスチャンが神により、罪を許されている、あがないを受けている、というとき、

何が大事か、というと、血すなわち、聖霊を受けているか、聖霊を保っているか、ということが大きな鍵になり、

キーポイントとなるのです。何故なら、我々の大きな罪の代価、支払う代金は血であり、それは、他ならない、

主の霊である聖霊をさす表現だからなのです。

 

逆に我々が聖霊を万一失うなら、大変なことになるのです。

それは、まるで、たくさんの買い物をした後、頼みの財布を捜したら、いつのまにかなくなっている、

落として紛失していた人の様なものです。頼みの財布が無いので、払うべきお金を払えないとして、大変な問題に直面するようになるのです。

 

同じ意味あいで、聖霊を失うなら、あがない、を失うのです。すでに、全て支払い済みであり、すでに代価を払ったはずだったのに、いつのまにか、私たちの罪や罰がみな、

戻ってきてしまい、自分で全ての罪の代価を永遠の地獄の火で支払わなければならない、という恐ろしい事態になるのです。

 

我々のあがないの基本である血、すなわち、聖霊がいつの間にか消えている、聖霊がもう我々と一緒にはいない、

このことは冗談の様に聞こえるかもしれないですが、まさにエジプト化した教会で起きることであり、

否、今あちこちのリバイバルに熱心な教会で起きていることなのです。

 

彼らが、たまものに引かれ、いやしや奇跡や、不思議を起こすことにあこがれ、そんなことばかりに

注目して、あちこちの怪しげなリバイバル聖会に加わり、怪しげな器からの按手を受けているうちに我々に

悪霊が下り、結果、我々から聖霊が消え去る、ということが起きてくるのです。

 

そして、行き着く先が、上記エジプトの初子が打たれる日、子羊イエスの血が我々から消え去る日なのです。

 

悪霊が教会で幅をきかし、結果聖霊が教会から去り、クリスチャンから去る日に関しては、

テサロニケの手紙にも預言されています。

 

2テサロニケ 2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。

 

 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

 

ここで、彼すなわち、反キリストの霊の現れ、と関連して「今引き止めているもの」すなわち、聖霊が取り除かれることが記載されています。ですので、教会が反キリストの霊、悪霊を受け入れることと、それを引き止めている聖霊が追い出されることとは相互に関係があるのです。

 

不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。」

 

ここでは、引き留めるもの、聖霊が「取り除かれる」すなわち、追い出される日に関して述べられています。あたかも、このこと、聖霊が教会から追い出されることは既定路線であるかのように

記載されているのです。

 

そして、このこと、聖霊が追い出されるということがら、と今まで見てきたエジプト化した

教会が悪霊のリバイバルに席巻され、結果、聖霊が教会から去り、クリスチャンのあがないを

行う聖霊が去っていく、という事実とは、符合します。

 

そうです、聖書はあらゆる箇所で、このこと、終末の日の教会が背教化し、結果、聖霊が教会から去る、追い出されることを語っているのです。

あがないは、イエスの血を象徴するぶどう酒、すなわち、聖霊によりなされる

 

4.    ラオデキヤの教会の問題:

 

聖霊が教会から追い出され、代わりに悪霊に席巻される、ということが

黙示録7つの教会の中のラオデキヤの教会の中でも語られています。このことをみてみましょう。

 

この教会に関して以下の様に書かれています。

 

黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 

ここでは、神の家の主であるはずのキリストがこの教会の外に追い出されていることが描かれています。

このキリストが追い出されることは前述のテサロニケ書の取り除かれる聖霊と同じことがらです。

 

ですので、終末の日にキリストが教会から追い出される、聖霊が教会から追い出される、とは、

まさにある意味、聖書が語る終末の日の常識の様なものなのです。

 

そして、このラオデキヤの教会はキリストを外に追い出し、そして、その

代わりに悪霊を受入れるために大きな深刻な問題に直面しています。以下の記述の通りです。

 

黙示録 3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

 

このみことばを見てわかるように、この教会は大きな誤解の中を歩んでいる教会です。それは、悪霊による惑わしです。

この教会自身の判断では、自分たちは、「富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」という

状況なのです。 この世的な言い方をするなら、「年収1000万円、貯金一億円、もう車も家もあるので、何もほしいものは無い」という状態なのです。

しかし、神の目には、「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」という

状態なのです。その貯金1億円というお札は、狐にだまされて渡された木の葉であり、住んでいる豪邸とは、実は犬小屋だった、そんな話なのです。

 

なんだかあまりにも両者の認識にはギャップがありすぎて、本当の話なのか、と

思わないでもありませんが、わざわざ聖書に書かれているのですから、

このようなはなはだしい勘違いは必ずこの教会でおきてくるはずなのです。

しかし、何故、この教会はこんなひどい勘違いを起こしてしまうのか、何でこのような

ひどい盲目状態になるのか?という疑問が起きます。

 

その理由、彼らがはなはだしい勘違いに陥るその理由は何といっても、彼らが

聖霊なる方、キリストの霊を追い出していることに尽きる、と思えます。

 

その結果、悪霊の惑わしの中ですっかり盲目となり、正しい判断ができなくなっている、

そう理解できるのです。そして、そうであるがゆえに、主はこの教会にこう勧めます。

 

 

 3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

 

 

主はこの教会に対して、自分が豊かになった、と思っているが、それは、神の霊、聖霊からの

富ではなく、偽りの霊からのものなので、神の前に富んだものとはならない、と

語っているのです。

 

「あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。」

 

この白い衣とは何でしょうか?白い衣に関しては以下の記述にも記載されています。

 

黙示録 7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。

 

 7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

 

ここに書かれているように、白い衣は子羊の血で洗ってきよくされた衣です。

すなわち、義となり、子羊の血のあがない、を受けたものが白い衣を着るのです。

したがって、この白い衣を持っていないラオデキヤの人々にはあがない、血によるあがないが欠けていることがわかるのです。そうです、この教会の大きな問題は、あがないがなされておらず、裸の恥がそのまま表れていることです。

これは、先ほどから語っているエジプトの問題、過ぎ越しの子羊の血が取り去られていることに通じます。この教会もエジプトと同じく、悪霊を聖霊と思い込み、その結果、あがない、主の血を失っているのです。

 

「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」

 

上記ことばの中の「みじめ」とは以下のことばと同じです。

 

ロマ7:24 7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 

このロマ書では、このことばは、罪や、死から抜け出せないみじめな状態を表現してこのことばが

使われています。ですから、このラオデキヤの人々は自分はすばらしいたまものに満ちている、

神の恵み、素晴らしい啓示や教えに満ちている、と思い込んでいるが神の前には、

罪から救い出されず、死から抜け出していない、といわれているのです。

 

この惑わしは悪霊のリバイバルの中で、悪霊から与えられる勘違いなのです。

 

「哀れ」とは以下の箇所でも使われています。

 

1コリ 15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

 

 

ここでは、パウロは、実際は罪の中にいるのに、単なる希望を持っている人をさして、すべての人の中で一番哀れな者です、と表現しています。

ですので、このラオデキヤの人々にとっては、罪からの開放とは名目だけであり、実際には実現していない可能性があります。

 

このように、このラオデキヤの人々の大いなる勘違い、大きなギャップは、どこまでも、

悪霊の惑わしなのです。彼らが聖霊を追い出したために、彼らには正しい判断力も見る目も

失われ、霊的な真理が見えなくなってしまうのです。

 

「また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」

 

彼らは自分たちの真の姿を見ません。彼らに見えるのは自分たちが何かすばらしい霊を受け、

すばらしい神のたまものを受け、奇跡やいやしが起きていることです。

しかし、彼らはそれが実際はどのような霊からきたものなのかを知らず、そして彼らがその霊を受けたゆえ、肝心な聖霊が消えうせ、あがないが消えうせたことをみていないのです。

 

結論としてラオデキヤの問題点も、その教会の中から、イエスの霊を追い出していること、

それゆえ、悪霊の惑わしに入り、肝心なあがないが消えうせていることであることがわかるのです。

戸の外でたたくキリスト:聖霊を追い出すとき、あがないも失われる

 

9. 賢い乙女、愚かな乙女

 

実は聖書は同じような問題、聖霊が終末の日に教会やらクリスチャンから追い出されている、ということを他にも何度か述べています。その一つは賢い乙女、愚かな乙女の話です。

この話を見てみましょう。聖書では以下の様に書かれています。

 

マタイ25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

 

 25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。

 

 25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

 

 25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

 

 25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

 

 25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。

 

 25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。

 

 25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』

 

 25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

 

 25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

 

 25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。

 

 25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。

 

 25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

 

 

この話は単純といえば、単純、簡単といえば、簡単な話です。

 

そして、論点、大事なポイントは一つだけです。大事なポイントすなわち、賢い娘と愚かな娘との

区分、違いはただひとつであり、油を持っていたかどうかだけなのです。

それ以外のポイント、片方の娘たちが美人であり、他方が不美人だったからとか、

持参金がどうとか、家柄がどうとか、ということは問題となっていないのです。

それで、私たちはこの話から学びを受けようとするなら、油に関して注目するべきです。

油は、天からの油、すなわち、聖霊に関する問題なのです。

ですから、これらの2者の娘たちの区分、差は片方が油、聖霊を持っており、他方が聖霊を持っていなかったという区分なのです。

 

このように私は書いていますが、実はこの箇所は私にも長年の間、わからなかった箇所なのです。

私のこの箇所に関する疑問は、長年の疑問は、このことです。愚かな乙女もクリスチャンであり、なおかつ、キリストの花嫁となろう、と志すクリスチャンのはずです。何はともあれ、クリスチャンでありながら、なおかつ聖霊を持たない、ということがありえるのだろうか?という

疑問でした。

 

油を持たない、聖霊を持たない、クリスチャンの存在ということが理解できなかったのです。

しかし、今は少しわかるような気がします。前述の様に主はエジプトの地での、災いは、

悪霊のしるしと不思議を追い求め、結果、聖霊を追い出し、そのため、子羊の血による

あがないが消えうせるという問題であることを示しておられます。

そして、同じことがこの愚かな花嫁にも通じるのです。

この花嫁は、エジプトの民と同じように、さらにラオデキヤの民と同じように、

悪霊のしるしと不思議を追い求め、その結果、聖霊を追い出し、油を失ったクリスチャンたちなのです。

彼女らは自分たちは他の何の奇跡も起こせないクリスチャンよりよっぽどまし、立派と

思っているのでしょうが、しかし、彼女らの真の姿は神の前には油を持たない花嫁、聖霊を持たない

クリスチャンであり、よって、彼女らにはキリストの花嫁となる資格が無いのです。

そして、彼女たちの天の御国への道も閉ざされ、キリストにより、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と宣言されてしまうのです。

 

この話を通して、いかに今の時代の悪霊のしるしと不思議のリバイバルを追いかけ、これらのしるしに惑わされることが危険なことか理解できるでしょうか。

今の時代にもし我々がこのようなしるしを行い、奇跡を行い、預言を行い、キリスト教会内で良い評判を得たとしても、その報いとして、

後の世が危なくなり、天の御国があぶなくなり、永遠の命が危なくなるのです。

 

この愚かな娘たちに関する以下のことばに、耳を傾けてください。

 

“そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。(KJV:主よ、主よ)あけてください。』と言った。

 

 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。“

 

この娘たちは、自分たちには、新郎に迎えられる権利がある、とその日まで

確信していたのです。そして、新郎であるキリストに対して、ご主人様、ご主人様(主よ主よ:Lord, Lord)と呼んでいます。

すなわち、彼女らはキリストを主と呼ぶクリスチャンだったのです。

しかし、彼女らの思い込みにもかかわらず、主は彼女らを受入れませんでした。

その日まで、彼女たちは自分たちが受入れられないとも、自分たちから花嫁の資格が失せているなどとの考えは全く持っていなかったのです。それで、何のためらいもなく、権利をもっていることを確信して主の名を呼んだのです。しかし、その結果は彼女たちにとり、思いもかけないものであり、

彼女たちはもうすでにキリストとは無縁のものとなっていたのです。

ここに大きな誤解、認識の差、大きなギャップがあるのです。

自分が富んでいると思い込んでいたが実際は貧しいものであったラオデキヤの様に

大きな誤解があったのです。

 

これらの記述を通して、いかに彼女たちが深い惑わしの下にいたのか、が理解できるのです。

終末の日の霊の惑わしを軽視してはいけないのです。

 

受入れられなかった愚かな娘:彼女たちが持っていたものは油、聖霊ではなかった

 

 

10.              主よ主よというもの

 

この件に関連してもう一つの例を見てみましょう。それは、以下の主よ主よという記述です。

 

マタイ7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

 

 7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』

 

 7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

 

 7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

 

 7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。

 

 7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

 

 

この箇所の驚くべき点は、キリストの名によって、「預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟をたくさん行なった」にもかかわらず、なおかつキリストにその日、『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』といわれてしまう人が大勢いるということです。なんとも、

驚くべきこと、恐るべきことを語る箇所です。一体全体どうしてそんなことになってしまうのでしょうか?

 

キリストの名で預言するとはすごいことだと思います。そして、悪霊を追い出すのも、そうそうできないわざです。さらに奇跡をたくさん行うなど、並みのクリスチャンではできない、これはすごい器、すごい働き人だと

思われるのです。そして、そんな人たちさえ、キリストに知らないなどといわれるなら、

そんな奇跡の一つも起こしていない我々は一体どうなるのでしょうか?

全く大きな疑問が起きる箇所なのです。

 

さて、結論をいうなら、この箇所の問題点も上述のエジプトの問題、ラオデキヤの問題、愚かな娘の問題と

同じものなのです。すなわち、悪霊を持ち、悪霊のしるしと不思議は持っているが、肝心の聖霊は追い出している、という問題なのです。

 

上記、主よ主よという人々は確かにキリストの名により、預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟をたくさん行なったのですが、しかし、残念ながら、その霊はキリストの霊、聖霊ではなく、むしろエジプトのしるし、不思議であり、悪霊による奇跡だったのです。

 

そうであるがゆえに、彼らに対して、キリストは「わたしはあなたがたを全然知らない。」といわれたのです。

キリストとベリアルとは何の関係もなく、聖霊と悪霊とはまったく無関係なので、主は知らないといわれたのです。そして、この「わたしはあなたがたを全然知らない。」とのことばは、前述の愚かな娘に

いわれたことばと全く同じことばです。愚かな娘の問題点が油、聖霊を持っていなかったことであるように、この主よ、主よという人々の問題点も彼らが油、聖霊を持っていなかった、ということに尽きるのです。

そして、つけ加えるなら、主よ主よということばも同じです。

愚かな娘たちもKJVで見るなら、主よ主よと呼んでいるからです。

 

そして、この箇所を通してわかることがあります。ここで、言われている

キリストの名により、預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行うとは、まさに今、聖霊の第3の波など、

アメリカ由来のリバイバル運動で起きていることなのです。ベニーヒン、ビルハモンなどの器を通して起きていることなのです。そして、これらの集会に参加し、さかんにこのリバイバル運動に参加している人々の

うち、誰一人、知らないことがあります。それは、たとえ、このリバイバルに参加し、

預言が行えるようになり、悪霊を追い出せるようになり、奇跡をたくさん行えるようになったとしても、

そして、それを通して多くの人々から賞賛を受けるようになったとしても、それでもいずれ、主にあったときには肝心の主からこれらの人々は「知らない」といわれるようになる、ということです。

 

何故なら、明らかにこれらのリバイバル運動に流れる霊は神からの霊ではないからです。

 

ただ、私は主に命じられているので、このように警告を発しますが、しかし、その反面、

そのように警告を聞いても、なおかつこのリバイバルから戻ってくる人は少ないだろうな、ということも知っています。それは、

主がいわれているように、その日、多くのものが惑わされることを聖書は暗示しているからです。

こう書かれています。

 

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』

 

そうではあっても私はこう書いておきます。

ご存知のように、この件に関して私はことばを変え、表現を変え、繰り返し繰り返し、警告を行いました。もう何年も何年もこのようなことを書いてきているのです。

これらの警告を聞かない人々の血は彼らの頭の上に帰るべきものであり、私の責任ではありません。

私はこのことに関して自分の手を洗います。

 

7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。”

 

何故ある種の人々はこのリバイバル運動に巻き込まれ、悪霊のしるしを聖霊のものと誤解するのでしょうか?その理由として、聖書は、みことばを行うことに関して語ります。結局は、みことばを行わない人は惑わしにはいるのです。

 

 7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

 

 7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。

 

 7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」“

 

雨、洪水、風は、みな霊に関するたとえです。終末の日は、悪霊の雨、洪水、風が許される日ですが、

その洪水に倒され、悪霊に惑わされ、悪霊リバイバルが聖霊からのもののように見え、倒される教会は、みことばを 行わない教会であり、クリスチャンです。彼らが惑わされるのは、神のみことばを行おうとしないからなのです

私はあなた方を知らない:聖霊以外の霊で奇跡を行ってもその日、主にそう宣言されてしまう

 

反キリストのしるし

 

このこと、終末の日に教会から聖霊が追い出され、そのかわりに悪霊が席巻するようになる、ということに関連して、黙示録13章の反キリストの箇所を見てみましょう。

 

 

 

黙示録13:13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。

 

 13:14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。

 

 13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

 

 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

 

 13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

 

 13:18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。

 

これらの箇所を順に見ましょう。

 

13:13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。

 

 13:14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。

 

ここでは、しるしが描かれています。このしるしは、いわゆる聖霊の第3の波、リバイバル運動の中でいわれる、「しるしと不思議」のことです。「しるしをもって地上に住む人々を惑わし」と書かれているように、地に住むすなわち、この世的な歩みをするクリスチャンは、このしるしと不思議を契機に

おかしな悪霊のリバイバルに惑わされるようになります。

 

 13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

 

 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

 

ここでは、人々に獣の刻印を受けさせることが書かれています。

この獣の刻印について考えて見ましょう。

 

この獣の刻印のことをマイクロチップだ、などという人もいます。もしかするとそういう意味もあるかもしれませんが、しかし、マイクロチップは信仰とは関係のないことがらです。

 

私はこの刻印とは、度々語っている悪霊をうけることではないか、と

思っています。聖霊を追い出し、悪霊を受けるものは、悪霊のしるしを受けるようになるのです。

結果、悪霊、悪魔には覚えがめでたくなりますが、聖霊は消え去ってしまうので、その日、キリストから、「知らない」といわれてしまうようになるのです。

 

この右手と額という組み合わせにも注目するべきです。これは、他ならない聖会における按手の組みあわせ、だからです。すなわち、ベニーヒンなどの器がその右の手で、クリスチャンの額に按手するとき、獣の霊が下り、獣の刻印が押されるのです。

 

そして、申命記には、手と額の組み合わせに関連してこう書かれています。

 

申命記6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

 

 6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

 

 6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

 

主はその民と契約を結ばれたとき、この様に主の教えをその手と額の上におくよう、

命じたのです。すなわち、この手と額との組み合わせは神とその民との間に交わされた契約と関係があるのです。

このことは、当然新約のイスラエルであるクリスチャンにも通じます。

そして、終末の日、背教のクリスチャンが、その獣の霊を受け、その獣の霊の按手を受けるとき、

それは、獣と契約と交わすことになります。その結果、必然的に神と結ばれ、キリストと結ばれた契約は破棄されるのです。

 

 

 13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

 

ここでは、獣の刻印を受けているもの以外、売り買いができないことが書かれています。

売り買いはあがない(買い取るの意味がある)と関係があります。

獣の刻印はそのクリスチャンのあがない、と関係するのです。

すなわち、以前から語っているクリスチャンからあがないが消える、エジプトの過ぎ越しの祭りのとき、

子羊の血が消えうせ、神の裁きにより初子が打たれる、ということがここでも成就することがわかるのです。獣の霊を受けたクリスチャンは永遠の命を失い命の書から名前が消されます。

 

 

 13:18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。

 

 

この数字は666であることが書かれています。旧約聖書の中で、唯一666という数字が使われている箇所は以下です。

 

1列 10:14 一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。

 

 

ソロモンは聖霊の型であると我々は理解しています。したがって、この666とは、やはり、

霊的な意味合いが強いのではないか、と思われます。

 

666のしるし:それは、悪霊のリバイバルに狂奔する人々の額、右手に刻まれる

 

 

11.              聖霊が消え去り、悪霊が席巻することを語る聖書箇所:

 

終末の日に教会から聖霊が消え去り、悪霊が席巻するようになる、ということは、

聖書の中で奥義としてあちこちの箇所で記載されています。いくつかみてみましょう。

 

黙示録7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。

 

風は聖霊の働きをさすたとえと理解できます。風が抑えられ、聖霊の働きが抑えられることが

描写されています。

 

黙示録 8:6 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。

 

 8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。

 

 8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。

 

 8:9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。

 

 8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。

 

 8:11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。

 

 8:12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。

 

 

血の混じった雹と火とは、悪霊の働きのたとえです。水が血に変わり、いのちのあるものが死ぬとは、

いのちの水、聖霊が枯渇し、悪霊が教会に蔓延することをたとえたものです。

星が落ちてきたため、水が苦くなり、その水のために多くの人が死ぬとは、悪霊の器が教会に蔓延し、結果、水が苦くなり、悪霊の働きが蔓延し、いのちを失う人が多くなる、との意味合いです。

 

黙示録16:12 第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。

 

 16:13 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。

 

ユーフラテス川とは、神の民であるイスラエルと他国との境界線です。今で言うなら、新約のイスラエルであるクリスチャンと未信者との間を区分する聖霊の川です。

そのユーフラテス川、聖霊の働きがかれてしまうこと、さらに「かえるのような汚れた霊ども」が出てくる、ことが描かれています。

 

 

このように、聖書は、終末の日に教会に悪霊が蔓延し、聖霊が消えていくことを語るのです。

しかし、残念ながら、クリスチャンの目が盲目となり、聖霊も悪霊も区分ができなくなり、

むしろ、悪霊の働きを歓迎し、しるしや、たまものに引かれ、自分はすごい神のたまものを受けた、

すごい器になったなどと勘違いする人がたくさんでるようになるのです。

しかし、彼らは悪霊にだまされているのに過ぎず、もっとも大事なもの、キリストの血、聖霊による、

あがないを失い、永遠の命を失うようになります。

 

結論として、主が「エジプトと呼ばれる都」と終末の背教の教会を呼んでいることの、恐るべき意味合い、隠れた意味合いを理解しなければなりません。

エジプトということばの特徴は出エジプトの日に現れたしるしと不思議、悪霊の災いに象徴されており、

それは今のキリスト教会に再現しているのです。

 

今のキリスト教会に起きているアメリカ由来のリバイバル運動は、惑わされた人々には神の栄光、

聖霊のすばらしい働きなのでしょうが、聖書はにべもなく、遠慮会釈もなく、それらは、エジプトに起きた

呪いのわざであり、悪霊の仕業である、と語っていることに目をとめましょう。

 

燃える山:それは悪霊リバイバルに導かれる教会の姿

 

―以上―


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