この告示は、ユダヤ人のロシア人に対する、残虐飽くなき大復警戦への進軍ラッパとなった。レーニンは同年、赤軍に対して次のような演説を行なっている。「反ユダヤ人主義とは、勤労者をして彼らの真の敵、資本家から目をそらさせるための資本主義的常套手投にすぎない。ユダヤ人を追害し、追放せる憎むべきツァー政府よ、呪われてあれ。ユダヤ人に敵対し他民族を憎みたる者よ、呪われてあれ」
この号砲とともに、権力を握ったユダヤ人の血の復警が始まり、瞬時のうちに労働者十九万余、農民八十一万余、その他合計百四十万人のロシア人をユダヤは虐殺した。ユダヤ・ボルシェビキ政権は、ッァー政府の旧官吏を、窓口の受付に至るまでかたっぱしから追放し虐殺したが、そのあとに収まったのは、革命成功後、世界各国から押し寄せたユダヤ人のインテリ、半インテリたちである。
一九一八年一月、ロシア共産党(ポルシェビキ)中央委員会ユダヤ部と、人民委員会付属中央ユダヤ委員会が設置され、ユダヤ人ディマンシュタインが両機関の長官を兼任、一九一九年から二一年にかけて、ユダヤ人の大群がものすごい勢いで共産堂に流れ込んでいる。このようにして、ロシアにおけるユダヤ独裁のお膳立ては完成した。このあとのソ連では、『プロトコール』を持っていることが発覚するとただちに死刑、というまでに、共産主義の仮面をかぷったユダヤによる、ロシア国民家畜化の徹底的独裁が完成する。以後は、ロシア人大衆のユダヤヘの不満と反感が爆発する。そしてそれをさらに残虐な手段で押さえつける。この繰り返しがソ連の歴史である。