聖書改ざんにより作られた艱難前携挙説:エレミヤ
告:
艱難前携挙説を作り上げたJ.N.ダービーは、聖書の語句を改ざんしてこの教理を作り上げた
J.N. ダービー
このページでは艱難前携挙説とは、J. N. ダービーの聖書の改ざんや、教理の押し付け、により人工的に成立し、また広げられた説であることを見ていきたい。
<艱難前携挙説、デイスペンセーション主義の概要>
まず、艱難前携挙説の概要を見ていきたい。
艱難前携挙説は1830年頃イギリス、プリマスブラザレンのJNダービーが
提唱しだした教えである。この教えは新しい教えであり、それまでの教会の長い歴史において、彼のいう艱難の前に教会が挙げられる、キリストの2段階の再臨などという
教えを語った人物はいない。
初代教会にもまた、ルターもカルビンもウエスレーも誰一人、
聖書を普通に読んでこのような教理を言い出した人物はいない。
したがって、この教理は、その土台として、
特殊な聖書史観というか、独特な解釈なしにはなりたたない。
恣意的な解釈をしないと成り立たない教理なのである。
その特殊な聖書史観、独特な解釈とは何かというと他でもない
デイスペンセーション主義である。
艱難前携挙説はデイスペンセーション主義がその基い、基礎となっている。
したがって何故艱難の前に教会が携挙
される、という今までの教会の歴史のなかった教え、教理が成立するのかは、
デイスペンセーション主義を理解しなければ正しくはわからない。
ここでは、デイスペンセーション主義のその成り立ちを客観的に述べたい。
(意味合い)
デイスペンセーションということばは聖書にあり、
以下の箇所で使われている。
1コリ9:17
9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務め(dispensataion)がゆだねられているのです。
上記箇所の「務め」がその箇所であり、dispensationということば(ギリシャ語oikonomia)
の意味合いは神の家の管理や、行政、仕えることという意味があるようである。
(デイスペンセーションの説明)
デイスペンセーション主義では、神の民の歴史を7つの時代区分に分けて説明する。
ウイキペデイアによれば、以下の7つである。
<七つの契約時期>
ディスペンセーション神学が主張する、七つの契約時期 は以下のとおり:
1.無垢の時代
天地創造からアダムとエバのエデンの園追放までの時代。
人間は無垢の状態で創造された。しかし、罪を犯した結果、霊的な死、罪の知識、神からの交わりの喪失がもたらされ、エデンの園からアダムとエバが追放された時にこの時代は終わった。
2.良心の時代
創世記3章7節から8章19節までの洪水の前までの時代。
善悪を知るようになった人間は、自分の良心に基づいて生きるように、与えられていた神の知識に基づいて生きるように要求されていた。しかし、人間の邪悪さが極まったので、神は洪水によって人間を滅ぼすことになった。
3.人間による統治の時代
洪水後から、神が人間を地の前面に散らされるまでの時代。
人間は肉を食べることが許されるなど、それまでとは違った、生活が始まった。人間が神の権威に対抗して、バベルの塔を建てたことによって、神は人間の言語を混乱させて、人間の文明は散り散りにされた。
4.約束の時代
アブラハムの召しから、モーセに律法が与えられた時までの時代。
このディスペンセーションはイスラエル人だけのもので、異邦人は前の時代のままである。イスラエルにはモーセに啓示された、神の約束を信じる責任が与えられた。
5.律法の時代
モーセの律法が与えられた時から、ペンテコステのまでの時代。
それまで、イスラエルの民はモーセに律法に支配されていた。神の祝福は、イスラエル人が律法に服従することを条件にしていた。しかし、民は律法を破り、偶像礼拝を行ったために、イスラエル王国は二つに分裂して、北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国は新バビロニアへ捕囚になった。さらに、イスラエルはメシヤとしてこられたキリストを拒絶したので、神のさばきをもたらし、エルサレムは崩壊して、イスラエルの民は全世界に離散した。
6.恵みの時代
キリストの死と復活から始まって、現在も継続しており、携挙で終わる時代。
この時代には、人間に課せられた責任は、キリストを受け入れ、聖霊に導かれて歩むことである。救いは信仰のみによることが明白にされた時代である。
恵みの時代はパウロが書簡を書き始めた時から始まったとする、ウルトラ・ディスペンセーション主義と呼ばれる立場もある。
7.御国の時代
キリストの再臨をもって始まる時代、地上における人間生活最後の千年間の時代。
この時代に、ダビデに約束された御国が建てられる。イスラエル国が回復して、回心する、千年の間、国々の長、また、祭司の国として復活する。御国の時代における人間の責任は、主としてキリストに服従することである。この時代は、サタンが縛られ、悪霊どもの活動が阻止される。
7つのデイスペンセーション
------------
デイスペンセーション主義者、艱難前携挙主義者は、
上記の様な時代区分がある、と語る。
そして、上記7つの中で教会に関係する時代、デイスペンセーションは、6の恵みの時代のみである、と語る。教会時代は5のイスラエル、ユダヤへの律法の時代と7のイスラエル、ユダヤによる御国の時代との間にはさまれた、挿入括弧のような一時的な時代に過ぎない、と語る。
彼らはマタイ24章などに書かれた世の終わりとはすなわち、6つ目のデイスペンセーションである教会時代という「時代の終わり」と理解する。したがって、キリストの再臨のときには、その役目が終わり、デイスペンセーションが終わった教会は天に上げられるとする。その後、7つ目のデイスペンセーションが始まり、
それはユダヤ人の時代であると説く。黙示録はその7つめのデイスペンセーションについて書かれたものであり、艱難時代は7つ目のデイスペンセーションにおける出来事であり、艱難にあうのはユダヤ人であると説く。
デイスペンセーション主義は概ねこのような教えである。
そしてこのデイスペンセーション主義が艱難前携挙
説の土台である。デイスペンセーション主義が艱難前携挙
説という前代未聞の教えに対して説得性や信憑性を与えている。
「教会時代が終わったので、役割を終えた教会は天に挙げられる」と聞くと
何となく正しいように思えてくるのである。
<聖書と矛盾する艱難前携挙説>
艱難前携挙説は画期的な教理かもしれないし、多くの信者にとってみみざわりの
良い話かもしれない。しかし、一つ問題がある。それはこの教理は聖書と矛盾するという問題である。繰り返すが、この教理は聖書を普通に読んでいたら出てこない教えである。
もし、誰でも普通に聖書を読み艱難前説の教えに行き着くなら、昔から
この教えを誰でも語っていたはずである。
しかし、実際は教会の歴史の中でこのような教えを口にするものは誰ひとりなく、
この教え、艱難前携挙は19世紀になってダービーが始めて作り出した教えである。
艱難前の携挙は聖書が語っていない教え
彼はそれらしい、聖書の箇所を説明しているが、しかし、いくつか、
聖書と矛盾する部分がある。これらが解消されない限り、
艱難前説は聖書に基づいた健全な教理とはいえず、むしろ、
神のみことばに逆らった異端教理といわざるを得ない。
矛盾点?それは以下の部分である。
(2つの再臨があるなどと聖書は語っていない)
聖書は2度にわたるキリストの再臨など述べていない。その矛盾を解消するために、
彼、ダービーはどうしたか?彼はそのために、今までの聖書にはなかった概念、
すなわち、終末には「キリストの日」と「主の日」という2つの日がある、
ということを語りだした。
少し説明のいる話なので、聞いていただきたい。
彼の説明、また艱難前説者の説明はこうである。ダービーの教えに賛同し、彼の
教えに従い、艱難前説を普及するのに大いに貢献した「スコフイールド注解付き聖書」を書いたスコフイールドはこの件を彼の注解の中でこう説明している。
「キリストの日(day of Christ)」という表現は、以下の箇所で見出される。
1コリント1:8 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主イエスの日(KJV)に救われるためです。
2コリント1:14 あなたがたは、ある程度は、私たちを理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです。
ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
ピリピ2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
これらの箇所からわかるように、キリストの日の表現はすべて、キリストの来臨のときに聖徒が受ける報酬や祝福に関して語っている。一方、
主の日(day of the Lord)という表現は以下で用いられている。
イザヤ2:12 まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。
黙示録19:11-21
「主の日」は、裁きとつながっている。」
このようにダービーやスコフィールドは「キリストの日」と「主の日」という
2つの日が終わりの時代にあることを語る。そして、キリストの
2段階の再臨のうち、最初の再臨、秘密の再臨はキリストの日に該当し、
2度目の再臨は、主の日に該当する、と語る。
なお、最初の再臨は、艱難前の再臨であり、それは、秘密の再臨、奥義の
再臨であると説く。
キリストの日、主の日という2つの日があるとの
異端教理を語る
<明らかに矛盾する聖書箇所がある>
このように説明されると「なるほど」と納得しやすいものである。「なるほど、
最初の再臨はキリストの恵みの日なのか、だから携挙
されるのか」と。しかし、この説明と明らかに矛盾する聖書箇所がある。以下の箇所である。
2テサロニケ2:2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、キリストの日(KJV訳)がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
この箇所ではキリストの日、恵みの日に関して書いてある。
しかし、この日は以下に続く箇所を読む限り、明らかに艱難時代のまっただ中の時代を語っており、不法の人、反キリストが宮に現われる日を語っている。艱難時代のまっただ中にキリストの日があることになってしまう。艱難の前にキリストの日が来る、最初の再臨があって、クリスチャンがみな、引き上げられると語る艱難前の教理と食い違うのである。
2テサロニケ2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、その日(KJV訳)は来ないからです。
2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
<矛盾した箇所は聖書を書きかえて対応する?>
この矛盾を解消するためにダービーはどうしたか、というと彼は
彼の訳したダービー訳の中でこの箇所を「主の日」と書きかえることで
対応した。すなわち、彼の教理を聖書にあわせるのではなく、聖書の方を彼の
教理にあわせて書きかえたのである。
2テサロニケ2:2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日(the day of the Lord)がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。(ダービー訳)
彼がせっかく作り出したうまいストーリー、すなわち、
2段階に渡る再臨というストーリーに信憑性をもたらせるには、
以下のストーリーは大前提であった。
1度目の再臨=キリストの日=艱難時代の前に聖徒を引き上げる
2度目の再臨=主の日=艱難時代の後に裁きと災いをもたらす
どの聖書のことばもうまくこの彼のストーリーを裏ずけるようにも見えるが、
しかし、たった一つ、この2テサロニケ2:2のことばは、
彼にとり大きな妨げだった。
この箇所は、キリストの日が背教や反キリスト到来、すなわち、
艱難時代が到来するまで起きないことを明言している。
これではせっかくのストーリーが崩壊してしまう。
困った彼は窮余の策だか、結果として、キリストの日と
原文にあるものを勝手に主の日と書きかえた。
しかし、こんなことが許されるのか?
銀行員が勝手に小切手や、手形を書き換えたら、問題、
いや犯罪ではないのか?
聖書なら書き換えてもよいのか?否、聖書こそ、勝手に
書きかえてはいけないものではないのか?
そして彼が聖書を書きかえた箇所は実はこの箇所だけではない、後で、詳しく見たいが、彼は他にも多くの聖書箇所を自分の都合に合わせて改ざんしている。
さて、ダービーの教理にあわせて注解付き聖書を作成した
スコフィールドもこの箇所に関して、ダービーに負けない、
不忠実な態度を示している。この箇所すなわち、上記2テサロニケ2:2の
「キリストの日」と明確に書いてあるKJV 訳に関して、それは
間違いだと決め付けているのである。彼は、注解の中でこう書いた。
「KJV訳の2テサロニケ2:2の“キリストの日(day of Christ)”とは不正確である。」
すなわち、彼は何の根拠もなく、聖書が間違っている、と注解の中で語っているわけなのである。
彼は注解者の範囲を超え、何の根拠もなく、自分の理論に合わない、
聖書箇所は誤りだと決め付ける、神やキリストを叱り付けるような
越権的な働き人である。
現実には、聖書には「キリストの日」「主の日」という
2つの日など存在せず1つの日しか存在しない。しかし、
それでは、せっかく自分で作り出した2段階にわたって「再臨するキリスト」という
ストーリーが崩れてしまうので、彼らは自分の教理に合わせて
聖書を改ざんしたり、勝手な注釈をつけたりしているのである。
しかし、このことで驚いてはいけない。
この最初の記事を皮切りに私たちは、この文章の中で艱難前説を広げる人々の不忠実さ、不誠実さ、インチキ、惑わし、ウソをさらに見ていくようになる。
しかし、前に進む前にこの箇所で語った事柄は正しく理解いただきたい。
それは彼らの作り上げた理論、キリストの日、主の日という2つの再臨の日があるという教理は、聖書とぶつかり、矛盾した教理であるということ、
さらに、キリストの日、すなわち「艱難前の再臨の日に聖徒は携えられる」という教えは上記2テサロニケ2:2のキリストの日に関するみことばにより
粉砕されていること。
聖書が明言しているのは、キリストの日、すなわち、聖徒が挙げられる日が来る前には、「背教も反キリストも到来した後である」、すなわち艱難時代の後であると語っていることを明確に理解いただきたいのである。
さてここから以降はこのダービーが彼の訳した聖書の中で行った
数々の改ざんを見ていきたい。その多くは艱難前説、デイスペンセーション主義の教理を正当化するためにおこなわれたものである。
(切迫したキリストの再臨を作り出す)
知恵のある深謀遠慮のあるダービーがさらに艱難前説に従い、
作り出した教え、教理は「キリストの再臨は切迫している」という
教理である。元来の聖書にはキリストの再臨に関して、
そのような意味合いはなかったが、彼は自分の改ざん聖書を
用いて切迫した再臨というイメージを作り上げている。
何故そうしたか?その理由は以下のとおり。
彼ら2段階携挙説をとなえる人々は以下の様にキリストの2段階の携挙
を区分している。
1 最初の再臨(キリストの日)は秘密の再臨であり、この再臨の時までは
何一つ終末の預言は成就しない。すなわち、最初の秘密の再臨に関しての
予兆は存在せず、そのはっきりしたきざしもない。
また最初の再臨はいつ突然起きるのか、誰も予想ができない。また
いつ起きても不思議でない。すなわち切迫している。
2 2度目の再臨(主の日)の場合は上記と異なり、あらゆる
終末の預言が成就して後、主の日が来ることになる。
このような教理を彼は作り出した。そして「いつ起きても不思議でない、
携挙は迫っている」との教理とつじつまを合わせるため、
切迫した、ということばを聖書に付け加え、切迫する再臨という
イメージ、概念を作り出しているのである。結果としてこの教えを信じた
信者は、「自分は再臨に取り残されるかもしれない」という
不安の中を歩むことになる。またレフトビハインド(取り残された)
のシリーズのような信者の不安を煽るような作品も次々と出されていく。
具体的には彼は、以下の様にキリストの再臨に関することばに
about to be (まさに〜しようとしている)という言葉を加え、「切迫した」という意味合いを付け加えている。
1ペテロ5:1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。(KJV訳)
1ペテロ5:1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、まさに現われようとする(about to be revealed)栄光にあずかる者として、お勧めします。
(ダービー訳)
マタイ16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。(KJV訳)
マタイ16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、まさに来ようとしているの(is about to come)です。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。(ダービー訳)
2テモテ4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。(KJV訳)
2テモテ4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをまさにさばこうとする(about to judge)キリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。(ダービー訳)
切迫した再臨という教理を作り上げる
(「世の終わり」を「時代の終わり」に変える)
次にダービーが改ざんしたことは、聖書の「世の終わり」という表現を
「時代の終わり」へと書きかえることである。何故、彼らはそんなことをするのか?
その理由には、少し説明がいると思うので、書いていきたい。
先述したように、艱難前説またデイスペンセーション主義は今の時代は
6つ目の時代である教会時代(恵みの時代)であるという。そして、これから次の時代、7つ目のデイスペンセーションであるユダヤ人の時代が始まると語る。
彼らにとって大事なことは、世の終わることではなく、
次のデイスペンセーション、すなわちユダヤ人の時代が始まることのようである。
それで、彼らは「世が終わる」という聖書の表現を好まない、逆に時代の終わりという
表現を好む。時代の終わりということばの意味合いは、6つ目のデイスペンセーション、教会の時代が終わることであり、そのあと,彼らが期待していた7つ目のデイスペンセーション(時代)、ユダヤ人の時代へと入っていくことをさす。
プリマスブラザレンのダービーや、Thomas
Newberryやスコフィールドなどは、世の終わりとは
いわない。その代わりに時代の終わり、という表現を使う。
聖書のいう世の終わりとは何か、というと、
創世記の「神がはじめに天と地とを創造された」というときから始まった現在の
世界のすべての終わり、という意味合いである。
それは、アダム以来のすべての人類の生存が終わるときであり、すべての動植物も存在も終わる日のことである。いや、我々が住んでいる天や地も滅びる日のことである。
ペテロの手紙にこう書いてある。
1ペテロ4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
2ペテロ3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
ペテロは、世の終わりとは、万物の終わりである、すなわち、人類も動物も植物も
山も谷も海も終わり、終了してしまう日であると語る。
人類が終わってしまうなら、教会の時代もユダヤ人の時代もあったものではないし、
そんな区分は意味がない。何しろ人類全体が終了してしまう(滅びる)からである。
さらに上記2ペテロ3:10でペテロはさらに世の終わりに関して説明し、主の日には天の万象すなわち、太陽や月や星が焼けて崩れ去ることが書いてある。また、地と地のいろいろなわざ、すなわち、地上の山も丘も、森もみな焼き尽くされることが書いてある。
キリストの再臨の日、主の日には、このように天も地も焼けとけてしまうので、
これで終わり、終了である。
世界が終わってしまい、人類も太陽も地球も滅びてしまったら、6つ目のデイスペンセーションも7つ目のデイスペンセーションもない。そんな細かい区分をしても
何の意味もない。
このように「時代が終わる(1つのデイスペンセーションが終わる)」ということばと、
「世が終わる」とのことばとは天地も異なる意味合いの違いがある。
そしてデイスペンセーション主義の特徴は明らかに教会蔑視、軽視、そして
ユダヤ人尊重ということだろうか。それで、デイスペンセーション主義者の
主張はすみやかに教会時代が終わり、すみやかに次のデイスペンセーションである
ユダヤ人の時代、ユダヤ千年王国の実現ということになる。
彼らの熱望していることは、次の時代へ速やかに移ることであり、
それが実現しないうちに勝手にこの世が終わってしまい、天地が焼けとけて終了してはこまるのである。そしてダービーをはじめとしたデイスペンセーション主義者の理論もこの願いに沿ったものとなる。彼らは以下の様な「世の終わり」という表現を憎む。
マタイ13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
それで、ダービーはこの箇所を以下の様に改ざんする。
マタイ13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの時代の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。(ダービー訳)
このように、彼らは聖書が明確に語る「世の終わり」を勝手に「時代の終わり」と変えてしまうのである。彼らはなりふりかまわない人々であり、自分たちが主張する「教会時代が終わり、ユダヤ人の時代が来る」という教理に正当性を持たせるためには聖書を書き換えることをも躊躇しない人々なのである。
しかし本来の聖書の終末の記事(マタイ24章、ダニエル書、黙示録など)は明らかに世の終わりに関して強調し、警告しており、時代の終わりのことなど語っていない。
そして繰り返すが、世の終わりとは、現在我々が住んでいる地球も天も焼けとけてしまう究極の壊滅の日であり、これですべて終わり、ジエンドなのである。
地球が焼けとけてしまったなら、
それ以降の7つ目のデイスペンセーションなど、この地上ではありえないのである。
「世の終わり」とは太陽、地球が焼けとける日のことであり、
単に時代が移り変わる「時代の終わり」とは大違いである
(聖霊は消え去ってしまう)
艱難前説が語っていることは、艱難の前にキリストの秘密の再臨があり、
そのとき、教会は挙げられるとの教えである。この教えは何度もいうように
今までの教会歴史の中で語られたことも説かれたこともない教えなので、
この教えを語る人々はこの新奇な教えに信憑性をもたらすためにあらゆる
もっともらしい、聖書の箇所を動員して説明している。その一つの説明の中に艱難の前に聖霊も挙げられてしまうとの教えがある。
「クリスチャンに内住している聖霊も挙げられるなら、当然クリスチャンもそのとき、挙げられる」としてこれは、艱難前説の教えに信憑性をもたらす教理となる。以下がその根拠となる聖書箇所である。
2テサロニケ2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで(until
he be taken out of the way)引き止めているのです。(KJV訳)
ダービーはこの箇所をこう改ざんした。
2テサロニケ2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が行ってしまうまで(until he be gone)引き止めているのです。(ダービー訳)
このように聖霊がいってしまう、と書きかえることにより、聖霊が自分の意思で、この世から去っていってしまう、というニュアンスを生み出し、上記、艱難の前に聖霊が天に戻り、聖霊を内住するクリスチャンも挙げられるとの教えに信憑性を与えるのに貢献をしている。
しかし聖書の原意は「自分が取り除かれる時まで」とのことばのように、
聖霊が(自分の意思に反して、背教の教会)から追い出される、という
意味合いである。この箇所がいわんとしていることはこうである。まず教会に背教が起こり、そのためキリストの霊である聖霊が教会から追い出される。その結果、反キリストが教会に君臨するようになる。このような順番を語っているのである。
このようなたとえでこのみことばを理解できるだろうか。
ここにある夫婦がいるとする。旦那はよく働くし、
性格も優しく親切な非のうちどころのない人物だった。
しかし、奥さんは、この旦那に難癖をつけ、ありもしないDVを
でっちあげ、離婚を持ち出し、持ち家を慰謝料としてとりあげ
旦那を追い出した。その結果、家は女ひとりの無用心な
家になってしまった。そこに悪い知恵の働く男が取り入り、
その家に入り込み、ヒモのような存在になった。
上記奥さんは背教の教会であり、追い出されたやさしい旦那は
キリストの霊である聖霊である、後で家に入り込んだ男は
反キリストである。
上記テサロニケの箇所はこのような状況、すなわち意思に反して
背教の教会から追い出される聖霊に関して語っているのであり、
クリスチャンを見捨てて勝手に天に戻っていく聖霊のことなど
語っていない。
世の終わりに聖霊が追い出される、これは、7つ目の最後の教会ラオデキヤの教会への主のことばの中でも語られていることである。
黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
ここでは、背教の教会の外へ追い出された主ご自身がなおかつ、
外から教会の戸をノックする姿を描くみことばである。
主は「見よ私は世の終わりまであなたがたとともにいる」と約束したように、
聖霊となって最後まで我々を助けてくださる方である。
艱難の前に地上のクリスチャンを見捨てて勝手に自分だけ天に挙がる方ではない。
ダービーが聖書を改ざんして、作った教え、聖霊が取り残された人を見捨てて艱難の前に勝手に天に戻ってしまうとの教えには根拠が薄く、本来のみことばからは出てこない教えであり、「世の終わりまでともにいる」との主の約束を冒涜した教えである。
キリストの霊である聖霊は最後まで
背教教会のドアをノックする
(艱難時代から救い出すキリストという嘘の教理を作る)
1テサロニケ1:10 また、神が死からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださった(which delivered us from the wrath to come)イエスが天から来られるのを待ち望むようになったか(KJV訳)
1テサロニケ1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださる方である (our deliverer from the coming wrath)イエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、(ダービー訳)
この箇所はダービーのいう秘密の再臨、そしてその日に来臨したキリストがクリスチャンを来るべき艱難時代から我々を救い出してくれるという教理を説明するために
用いられる箇所である。
ここでダービーはイ聖書を書きかえて、イエスの
最初の秘密の再臨は、この艱難時代から我々を救い出すためである、と
我々が誤解するような訳を作り出している。しかし、この箇所の本来の聖書の
意味合いは、「キリストが我々を神の御怒りからすでに救い出してくださった」という過去形の意味合いである。未来の日に艱難から救い出すという意味合いではない。
さらに彼は来るべき神の御怒りを艱難時代と誤解させている。
しかし、聖書の中では、終末の日に正しいクリスチャンが会う「艱難」と神が背教の民や
神を知らないものへ下す「御怒り」とは厳密に区分されている。
ここでは、艱難時代のことではなく、神の「御怒り」のことを語っているのであり
この箇所が、キリストの秘密の再臨や艱難前の再臨を支持しているわけではない。
(試練のときから救い出すとの誤った訳)
ダービーはまた、フィラデルフィアへの手紙の聖書箇所を改ざんし、
試練の時の外へと守る、と訳してここでも「来るべき艱難から救い出し、外へ
運び出すキリスト」という嘘の概念を広めた。以下の箇所である。
黙示録 3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試みの時には、あなたを守ろう。(keep
thee from the hour of temptation)
黙示録3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、まさに地に住む全世界に来ようとしている試練の時の外へと(keep thee out of the hour of trial)、あなたを守ろう。
この箇所は、艱難前説者が、「艱難の前に再臨したキリストがクリスチャンを携挙
して災いから守る」という教理を説明するために用いる箇所である。しかし、
この箇所の本来の聖書の訳は「試みの時には、あなたを守ろう」という意味合いで、
あり、その試みの時を経過する正しいクリスチャンには、キリストの守りがあることを語る箇所である。試みの外へ連れ出す、運び出すとの意味合いはない。
しかし、ダービー訳は「試練の時の外へとあなたを守ろう。」として、out(外)という
ことばが付け加えられている。このようにして、艱難の期間の外へ我々を救い出してくださるキリスト、という教理が作り出されていく。
いったい、この2つの区分、すなわち我々クリスチャンは試みの時を経過するが、
しかしキリストによって「守られる(keep)」と考えるのが
正しいのか、それとも「試練の時の外に連れ出す」(keep out)、試練に合わないと考えるほうが正しいだろうか?実は、このことに関してはすでに主ご自身が答えを与えておられる。以下がその箇所である。
ヨハネ17:15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
KJV John 17:15 I pray not
that thou shouldest take them out of the
world, but that thou shouldest keep them from the
evil.
この箇所は最後の晩餐の場面であり、キリストがもう明日にはいのちを失う、という最後の場面である。そのとき、
主は弟子たちを「この世から取り去る」(take out oft the
world)という艱難前説者の論理ではなく、弟子たちはこの世にはとどまるが、しかし、彼らが悪いものから守られる(keep them from
the evil)ことを祈られた。
このことはこのときの12弟子へのことばではあるが、しかし、12弟子の末裔、終末の日に、艱難時代を経過する弟子へのことばとも理解できる。
この主のことばや信条、意思が終末になったからといって、ひょこひょこ変わるはずもなく、主は終末の弟子に対しても彼らを艱難の前に世から取り去ろうとは意図しておらず、しかし、その試みの中でも守ることを望んでいる、と考えることが妥当と思われる。
(国々の完成、という教理)
ダービーは、何とかして「世界の終わり」ではなく、
「時代が終わる」のであるとの教理をクリスチャンに
植えつけたいためか、時代が終わる、ということに
関していくつか聖書箇所をかいざんしている。
以下もその一つである。
ロマ11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人が満ちる時までであり、(KJV訳)
ロマ11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは国々の完成のなる時までであり、(ダービー訳)
ここでダービーは、異邦人が満ちる、との箇所を「国々の完成」と
書きかえている。何故そんな訳に変えたのかということに関してはスコフィールドによるこの箇所の注釈を見ると理解できる。
“「異邦人が満ちる」とは、この時代における神の目的が
達成されたこと。キリストの名によって、異邦人の中から
人々を召しだすこと。“
ここでスコフィールドは、このみことばの解説、解釈を行なう
風をよそおいながら、時代の目的が達成された、との
自分の意見や信条を注解の中で書き、この注解を読む人が、
みな、自然と「時代が終わる、次のデイスペンセーションが始まる」と
思い、このデイスペンセーション主義を自然と受け入れるように、
文章を運んでいる。しかし、実際の聖書箇所には、
どこにも時代が終わることなど書いていない。
(「ウソを信じる」という箇所を変更する)
聖書は終末の日に真理を信じたり、受け入れたりせず、逆に
(自分に都合のよい)悪を信じる人々に対して神ご自身が強い惑わしを
送ることを語っている。その結果、これらの人々の心には、嘘が本物の教えに見えてしまうことを語る。以下のとおりである。まさにデイスペンセーション主義や艱難前説を信じる人々を描いたような箇所である。
2テサロニケ2:11 それゆえ神は、彼らが嘘を信じるように、強い惑わしを送り込まれます。(KJV)
2 Thessalonians
あまりに本質をついているためか、ダービーはこの箇所のニュアンスを薄め、
真意が伝わらないような訳に変更している。以下のとおりである。
2テサロニケ2:11 それゆえ神は、彼らが誤りを信じるように、誤りの働きを送り込まれます。(ダービー訳)
(2 Thessalonians 2:11
And for this reason God sends to them a working
of error, that they should believe what is false,)
(神の罰を語らない)
ダービーに限らず、ものみの塔や、セブンスデーのように、悪霊に導かれたような
教理を語る人々の特徴として、「神の永遠の刑罰」の教理や話題を避ける傾向がある。
ものみの塔もセブンスデーも聖書の言う「永遠の刑罰」を語らず、神により、
有罪とされた人々の魂は消滅してしまい、存在しなくなる、と語る。要は罰は受けない、
と語っているのである。彼らにとり、神の罰は避けたい話題のようである。
ダービーにもその傾向があり、彼の訳した聖書からはdamn
(永遠に罰する)ということばがよりソフトなjudge(裁かれる)や
condemn(裁判を受ける)とのことばに変更されている。
2テサロニケ 2:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、有罪とされる(damned)ためです。(KJV訳)
2テサロニケ 2:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれる(judged)ためです。 (ダービー訳)
damn(永遠に罰を受ける)ということばとjudge(裁かれる)condemn
(裁判を受ける)とのことばの意味合いは異なる。
何故なら裁判を受けたからといってすべての人が有罪となるとは限らないからである。
そういう意味でダービーは、羊の皮をきた狼のように、神は
有罪や罰をクリスチャンへ与えることはない、と人々が誤解するような
方向で聖書を訳している。
(伝統を守られては困る)
ダービーの語る教理や当時のプリマスブラザレンの教えは新しい真理とか、真理の回復とか呼ばれている。
彼らは艱難前携挙
説をはじめ、今まで誰も語らなかった教えを真理の回復との名目で教会内で
広げようとした。何しろ新しい教えなので、当然、伝統的な教えや、聖徒
にひとたび伝えられた信仰にとどまる人とはぶつかるわけである。それで、
彼は伝統にとどまるようすすめる聖書の箇所を改ざんした。
2テサロニケ 2:15 そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝え(tradition:伝統)を守りなさい。
2テサロニケ 2:15 そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた指示(instruction)を守りなさい。(ダービー訳)
言い伝え(伝統)と指示は異なることばである。伝統はペテロやパウロ以来長い間、教会の中で伝えられてきた伝統教理というニュアンスだが、しかし、指示に関しては
それが新しい古いに関係なく、上から指示されたこと、というニュアンスである。
上の人から「艱難前は正しい」と指示されたら、守りなさい、という
ニュアンスになってしまう。グループのトップに立つべく画策し、また
他のメンバーであるジョージミューラーやらニュートン兄やらを追い出してプリマスブラザレングループのトップに立ちメンバーに君臨する彼には、上からの「指示に従え」とは都合の良い訳だったのだろう。
(地獄(hell)をよみ(hades)と書きかえる)
繰り返すようだが、ものみの塔や、セブンスデーなど異端教会が語る
悪霊的な教理にはいくつか特徴がある。その一つは、
地獄や裁き、罰ということがらを嫌がる、またそのニュアンスを弱める、
という特徴がある。悪霊はその裁きの日には、自分たちが裁かれ、
罰を受けることは知識的には知っているので、
その話題はいやなのかもしれない。
そして、不思議なことに、ダービー訳の聖書は、
まさにこの悪霊的な特徴を持っている。
その結果、ダービーの訳した聖書も地獄に関する改ざんがある。
彼は永遠の刑罰の場所を示す地獄(hell)をどの死者も行くことになっている
死後の場所よみ(hades)へと書きかえている。
以下のとおり。
黙示録 20:14 それから、死と地獄(hell)とは火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。(KJV訳)
黙示録 20:14 それから、死とハデス(よみ;hades)とは、火の池に投げ込まれた。
これが第二の死である。(ダービー訳)
よみ(ハデス)とは、何かというとダービーの説明によると、
「(肉体を)離れた霊の一時的な場所、見えない世界」スコフィールドによると「
見えない世界が啓示された、(肉体を)離れた霊が死と復活の間を過ごす」とのことである。
よみ(ハデス)の意味合いには必ずしも刑罰の場所、と
のニュアンスが入っていない。このようにして、地獄(hell)と書
かれた場所をよみ(hades)と書きかえることにより、聖書が
本来語っている、悪を行なったものが受ける刑罰やら、
厳しい報いに関しての警告が薄められていく。
(一度信じたら永遠に救われる?)
ダービーは以下の箇所で「終わりにいたるまで」という部分を省いている。この箇所を省いて何を彼は意図したのか?
1テサ3:13 また、終わりに至るまであなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。(KJV訳)
1テサ 3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。(ダービー訳)
ダービーはここではもとの聖書にある「終わりにいたるまで(心を強めてくださる)」
という箇所を省いている。
もとの聖書の意味合いは聖徒が生涯の終わり、終末の終わりまで、強められるように、
との祈り、それはそうでなく、途中で脱落したり、堕落したら、受けるべき永遠の報いから外れてしまうから、とのニュアンスがある。すなわち、いったん救われたことで、クリスチャンは油断したり、安心したりせず、それを人生の終わり、また世の終わりまで
保つことを勧める大事な箇所なのである。しかし、ダービーが「終わりにいたるまで」とのことばを省くことにより、「聖徒は一度救われたら、永遠に救いからもれることはない」という都合のよい異端教理につながることばへと変えられてしまう。
(無条件の永遠の救いの教理)
ダービーやその後継者であるスコフィールドが教会に持ち込もうとした教理の一つは一度救われたクリスチャンは何があっても
滅びや救いからもれることはない、という教理である。このような教理を受け入れた
クリスチャンは滅びや、救いを失う危険が多い。
そしてこの教理とぶつかる箇所を彼は積極的に改ざんしている。以下の箇所のように。
1テモテ1:5 この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。
1:6 ある人たちはここから向きを変えて(swerved)、わき道にそれて無益な議論に走り、(KJV訳)
1テモテ1:5 この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。
1:6 ある人たちはミスをして(missed)ここから、わき道にそれて無益な議論に走り、(ダービー訳)
もとの聖書のこの箇所はたとえ信仰あるクリスチャンでも自分の意思で道を曲げ、わき道にそれる、可能性に関して語っている。つまり一度救われたクリスチャンでも救いや天国が永遠に約束されているわけではない、逆に歩み方しだいで滅びる
可能性を語っているのである。しかし、ダービーが「向きを変えて」とのことばを
「ミスをして」と書きかえることにより、クリスチャンが自分の意思で間違った道を選ぶ可能性に関しての警告が消え去り、意味が薄められてしまう。
(イエスは罪びと?)
ダービー訳の聖書は、彼の隠れた本音やら、隠された悪意、
神やキリストへの悪意をあらわすものとなっている。
「ダービーがキリストに対して悪意を持っている?そんな馬鹿な!」
と思う人もいるかも知れないが、彼が目立たないがしかし、
ひっそりと改ざんしている部分には彼の意思やら、本音が見えている。
たとえば、以下である。
ルカ2:22 さて、モーセの律法による彼女のきよめ(of her purification)の期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。(KJV訳)
ルカ 2:22 さて、モーセの律法による彼らのきよめ(their purifying)の期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。(ダービー訳)
KJVでは、きよめる必要があり、汚れているのは、母マリヤのことだと
正しく書いている。実際、モーセが律
法で語っているのは、女が出産のあとの汚れの清めに関する規定である。
しかし、ダービーはさりげなく、「彼ら」ということばに変えることにより、
マリヤのみならず、ヨセフもまた幼子イエスも汚れやら、罪をきよめる
必要のある存在であることを語る。すなわちキリストは生まれながらの罪びとだと
暗に語っているのである。このように、彼にはキリストへの隠れた悪意や、
憎しみがあることが想像できる。
(ヨセフがキリストの父である?)
聖書はイエスの誕生に関して、処女マリヤが結婚前に神の霊により、子を宿したこと、
またヨセフは世間からはイエスの父と思われていたが、
真の父は神であり、ヨセフはいわば養父のような位置にいたことを語る。
しかし、ダービーはこのような聖書の記述に納得していないのか
以下の様にヨセフこそ、イエスの父であると書く。
ルカ2:33 ヨセフと彼の母(Joseph and his mother)は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた(KJV)
ルカ2:33 彼の父と母は( his father and mother)、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。(ダービー訳)
(キリストの肉体の復活を認めない)
異端であるものみの塔は、キリストの肉体の復活を信じない。
ただ、イースターの日には彼の霊だけが復活したと説く。
不思議にもダービーの聖書も同じくキリストの肉体の復活を信じないものの
訳となっている。彼はキリストの肉体の復活は、再臨のとき、多くの聖徒が
よみがえった日に初めて行われると考えているようである。
2コリント 4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスによってよみがえらせ(by Jesus)、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。(KJV訳)
2コリント4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ(with Jesus)、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。(ダービー訳)
KJVは将来我々がイエスの力で復活することを約束しており、
ダービー訳は、我々の復活するその日にイエスも一緒に復活することを述べている。
すなわち、彼は十字架にかかった後、キリストの肉体が3日目にすでに復活したことを
認めていないのである。ものみの塔のように、その日、キリストの霊は復活したが、肉体は復活していないと思っているのかもしれない。
ダービー訳はグノーシス的な考えの入った訳となっており、その考え、「イエスは
十字架の死後霊的には復活したが、肉体は復活していない。彼の肉体の復活は将来の日、キリストに従うものが復活したとき、一緒に行なわれる」との教理に立つ。
(イエスは死者の間からよみがえる?)
ダービーが隠れてひっそりと行ったキリストへの悪意に満ちた聖書
改ざんのもう一つの例は、キリストの復活に関して、KJVの
「死(the dead)からの復活」ということばを「死者の間(among the
dead)からの
復活」という語に書きかえたことである。
マタイ 17:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死からよみがえる(from the dead.)ときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。(KJV訳)
マタイ17:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえる(from among the dead.)
ときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。
(ダービー訳)
英語の細かい話になって恐縮だが、the deadということばとamong the
deadという
ことばとは意味が異なる。「死(the dead)からの復活」
とは死の状態からの復活というニュアンスであり、それはまさにキリストの復活を正しく描写したことばである。
キリストは十字架につけられ、呼吸も停止し、まさに肉体の死を迎え、なおかつ
3日目にその死の状態から復活したからである。
それに反して、「死人(among the dead)の中から
よみがえる」ということばには、このようなニュアンスがある。
世の中の人はみな死にます。罪の払う値は死、と聖書に書かれているように、
みな、死を迎えて今までの歴史の中で多くの死者が起こり、その数は増えている。
イエスキリストもその死者の中、罪を犯した多くの人と同列のひとりであるが、
しかし、その日、その多くの死者の中からキリストも復活する、そういうニュアンスがある。
すなわち、among the deadとは、キリストの死も他の人の死も同じ死であり、
キリストは十字架にかかったあと、他の人と同じように肉体は死んだままでとどまっている。そのよみがえりも他の人がよみがえる日にその他大勢と一緒にキリストもよみがえるに過ぎない、という意味合いがあるのである。簡単にいえば、キリストの死や復活は、他の人の死や復活と何ら特別に変わりない、と語っているわけである。
そしてダービーは多くの箇所で、キリストの復活を「死人(among the
dead)の中から
よみがえる」ということばで表現している。
(キリストは始めであり終わりである方ではない?)
黙示録 1:8 神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。私ははじめであり、終わりである。」(KJV訳)
黙示録1:8 神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(ダービー訳)
KJVと比べてダービー訳の方は、「はじめであり終わりである」という神をさす表現が
消えている。何故彼はこの表現を除いたのか?それはもしかすると
彼はキリストを神だとは思っていなかったのかもしれない。
この箇所に限らず、ダービー訳には、キリストへの称号である主、
Lordなどの文字を省いた訳が多い。これは、彼の隠れたキリストへの
悪意を示していると思われる。
(キリストを礼拝しない)
彼はまた、キリストを礼拝する、ということにこだわり、
礼拝ということばを書きかえている。
黙示録5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(worshipped )(KJV訳)
黙示録 5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して敬意を表した。(did homage)(ダービー訳)
この箇所でダービーは、キリストを礼拝するという訳を拒み、
did homage(敬意を表する)ということばに変えている。
このような訳を通して彼がキリストを本音ではどう思っているのか、彼の隠れた悪意が読み取れる。
(肉体をもって来る反キリストを信じるべき?)
彼はまた反キリストに関することばをも書きかえた。
以下のとおりである。
2ヨハネ1:7 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが肉体をもって来られた(come in the flesh)ことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。(KJV訳)
2ヨハネ 1:7 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られること(coming in flesh)を告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。(ダービー訳)
ダービーはイエスキリストの初降臨に関しても巧妙に偽りを入れている。
本来の聖書、KJV訳はキリストが肉体を持ってきたこと、を現在形で語っている。
すなわち、初降臨のキリストが肉体を持って来臨したことを告白しないものは、
惑わすもの、反キリストであると述べているのである。
しかし、ダービーがこの箇所をcoming in fleshと未来形に訳すことにより、
この箇所は将来「肉体をもって地上に来られるキリスト」を信じないものは
惑わすもの、反キリストである、という意味に変わってしまう。
肉体をもって将来現われるキリストとは誰か?というと、
それは、キリストに代わって将来、教会で君臨する反キリストである。
彼は人間であると聖書は語っているので、当然、肉体をもって
反キリストは我々の前に将来現われる。そしてその彼を信じないものは惑わすもの、
であるという、恐るべき教理へと変えられてしまうのである。
反キリストは将来肉体をもってあらわれる
(改ざんのことばは嫌い?)
彼はさらに聖書のことばを改ざんするなとの箇所をも
書きかえている。
2コリント 2:17 私たちは、多くの人のように、神のことばに改ざん(corrupt)するようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。(KJV訳)
2コリント2:17 私たちは、多くの人のように、神のことばを売るようなことは(make a trade of )せず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。(ダービー訳)
本来の聖書はここでは、聖書を改ざん、改悪する害の事を
語っている。しかし、どんどん聖書を改ざんしているダービーにとってはこの箇所は
さすがに後ろめたいのか、「神のことばを売る」と変更している。
(真理はお嫌い?)
ガラテヤ3:1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを真理に従わないように迷わせたのですか。(KJV訳)
ガラテヤ3:1 ああセンスのないガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたのまさに目の前に、あんなにはっきり描かれたのにだれがあなたがたを迷わせたのですか。(ダービー訳)
この箇所ではダービー訳では、「真理に従う」ということばが省かれている。
何故彼はこのことばを嫌うのか?聖書の真理に逆らって偽りの教理を作り上げ、
数々の改ざんをなしとげたので後ろめたいのか?
(聖書を学んで欲しくない?)
2テモテ 2:15 あなたは神に受け入れられた者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に示すことができるよう、学びなさい(Study)。 (KJV訳)
2テモテ 2:15 あなたは神に受け入れられた者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに切り離す、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい(Strive diligently)。(ダービー訳)
ダービーは聖書を学ぶことを奨励しているこの箇所を改ざんし、別のことばで置き換えている。何故そうしたのか?彼は本音では神の民が真に聖書を学び、結果、彼の行なった改ざんに気づくのを恐れていたのかもしれない。彼の艱難前説を盲目的に受け入れる人が増えることを望んでいたのかもしれない。
(参考文献)
これらの記事は以下のダービーに関するサイトからの情報に基づく。
https://libertytothecaptives.net/darby_version_corrupt_methodically.html
―以上―