イスラエルがスファラディ系ユダヤ人児童にX線照射実験

 

 
 
 

バリー・チャミッシュ
 
 
 

        『10万人への放射線照射』──番組を見て

        バリー・チャミッシュ

        8月14日の午後9時からイスラエルのテレビ局“10チャンネル”で放映された番組は、これまでのすべての因習を打ち破り、この国の創建を担った“労働シオニスト組織”の最も醜悪な秘密を暴き出した。つまりイスラエル政府がスファラディ系ユダヤ人の子どもたち殆ど全員に、意図的に大量の放射線を浴びせて健康被害を及ぼしてきた事実を、暴露したのである。
        この暴露騒動のきっかけを作ったのは、『10万人への放射線照射』と題するドキュメンタリー番組の放映だった。この番組は最後に司会のダン・マルガリットが進行役を務める討論で終わっているが、彼は“体制派”べったりのテレビ文化人としてつとに評判の悪い人物だったから、こういう仕事をしているとは驚きだ。

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        番組の詳細:『10万人への放射線照射』(ディモナ・プロダクション、2003年)
        プロデューサー:ドゥーディ・ベルグマン
        ディレクター:アッシャー・ハミアス、ダーヴィッド・バルロセン
        パネル討論の参加者
        “しらくもX線照射被害者補償委員会”代表のダヴィッド・エドリ氏[←David
        Deriの誤記の可能性あり]とモロッコ人歌手、それに厚生省スポークスマンのボアズ・レヴ氏。
        番組内容の骨子:
        1951年、イスラエル厚生省の総指揮を執っていたハイム・シェバ医師は米国に飛んだ。そして米軍から供給された7台のX線照射装置を祖国に持ち帰った。
        これらの装置は原子力艦系の大規模な人体実験を行なうために用いられた。スファルディ系ユダヤ人の子どもたち全員が、まるごと1世代にわたってこの実験のモルモット代わりの実験台にされたのだ。イスラエルに住むスファラディ系ユダヤ人の子どもは、誰もが許容量の3万5000倍もの強力なX線を頭部に照射された。この大規模実験を行なうに際して、米国政府がイスラエル政府に年間3億イスラエルリラの資金を供与していた。当時はイスラエル政府の厚生予算が総額6000万リラだったわけだから、この資金援助がどれほど大きなものだったかが分かる。米国政府がこのX線照射事業のためイスラエル政府に供与していた資金は現在なら数十億ドルに相当する。
        スファラディ系の子どもをX線照射実験に連れ出すため、親たちをだます策略としてインチキな「遠足」がデッチ上げられ、いったん子どもたちにX線照射が行なわれると、あとで親には「お子さんの頭皮に巣食っていた“しらくも”[=子どもの頭皮に生じる白癬菌感染症の病変]を治療するためでした」とウソの告知を続けていた。こうしてX線照射を受け、その直後に死亡した子どもたちはじつに6000人に達する。それ以外の子どもも多くは癌になり、すでに死亡したか現在死にかけている。いまも生存している被験者たちだって、癲癇[てんかん]・健忘症・アルツハイマー病・慢性頭痛・精神病など、各種の障害に苦しんでいる。
        そう。まさにこれが、問題のドキュメンタリー番組の主題であり、番組は淡々と事実を伝えたのだ。それに劣らず画期的だったのは、この実験の犠牲者たちが実際に画面に登場したことだ。許容線量の3万5000倍ものX線を頭部に照射されたモロッコ人の女性は、当時の様子をこう語った──「大声で泣き叫びました。泣き叫べば頭痛を忘れることができると思って。頭痛から逃げ出したかった。頭痛をどうにかしたかった。でも頭痛が楽になるなんて、一度もなかったんです」。
        背中がすっかり曲がってしまった顎髭の男が街頭を歩きながらこう語る──「まだ50歳を過ぎたばかりですが、みんな私を70歳を過ぎた老人だと思ってるんですよ。こうやって前かがみで歩かないとひっくり返っちゃうんでね。あのX線のおかげで若さをすっかり奪われちまった」。
        何千人もの子どもたちにX線照射を行なっていたという老女が証言する──子どもたちは一列に並ばされて、まず頭の毛を剃られてヒリヒリするジェル剤を塗られます。つぎに足の間にボールを挟まれて「これを落とさないように」と命令されるんです。これで子どもたちはその場にじっと立っていなきゃならない。子どもたちの体は、照射部位以外はなんら保護されていませんでした。鉛入りの防護ベストを着せるなんてことも全くありませんでした。私も“しらくも”退治で子どもたちを助けているんだと聞かされていましたしね。あの子たちが危険な目に遭っていると知っていたなら、ぜったいに協力なんかしなかったんですよ。絶対に!」
        子どもたちは全身にX線を浴びたため、遺伝子に突然変異をこうむり次世代に悪影響が及んだ事例も多かった。我々は、顔が歪んでしまった女性から、こんな話を聞いた──「子どもが3人いるんですが、どの子も同じ癌に罹[かか]りました。親が罹ったのと同じ癌にね。これでも“偶然の一致だった”なんて言えますか?」
        現在50代のスファラディ系の女性たちは、たいてい頭髪にまだら状の濃淡が見られる。それを隠すためにヘンナで頭を染めていることは、誰もが気づいている。我々はたいてい「スファラディ系人種の女性は頭にそういう“模様”ができるものなんだ」と信じ込んでいて、これを疑問にも思わない。この女性は野球帽をかぶっている。一枚の写真を差し出すと、そこには流れるような黒髪が美しい十代の可愛い少女が写っていた。「これ、私なんですよ。治療を受ける前のね。だけど今はこう!」 そう言って帽子を取ると、無惨な瘢痕[はんこん]で頭部にまだら状のハゲができていた。ヘンナの赤い毛染めではもはや隠せないほど酷い状態だった。
        この実験の犠牲者は、圧倒的多数がモロッコ系の移民だった。それはイスラエルに移入したスファラディ系民族のうち、モロッコ人が最も多かったからだ。彼らは一世代にわたって丸ごと健康被害を負わせられた。おかげで今やイスラエルの経済的な最底辺の階層となり、もっとも犯罪者が多い集団になってしまった。この状況が改善される見通しは全くない。理不尽ここに極まれりである。実際、フランスに移住したモロッコ人は経済的に豊かな生活を享受し、進学の機会にも恵まれているのだ。移住先がフランスかイスラエルかでこれほどの違いが出た理由として、たいてい持ち出されるのは「フランスは裕福な国だから移民に対しても“そつなく”行なえるからだ」という理屈である。だがフランスに移住したモロッコ人の子弟はだれ一人としてガンマ線[←訳注:X線の間違いではないかと思われる]で脳細胞を焼かれたことなどない、というのが本当の理由だろう。
        この番組を見てただちに分かるのは、偶発的なめぐりあわせでかくも大量の児童に放射線照射が行なわれたのではない、ということだ。この事業が実施される40年も前からX線の危険性は知られてきたのである。X線治療の際に医師が遵守すべき注意事項を記した1952年当時の公式指針を読むと、イスラエルでは児童への最大許容線量は0.5ラドだった。間違いが行なわれたわけでは全くない。子どもたちは故意に健康危害を加えられたのだ。
        ダヴィッド・デリ氏はスファラディ系の子どもたちだけがX線照射を受けたことをこう告発する──「授業中だったんですが、男たちが突然教室に入ってきて私らを遠足に連れ出したんです。それから私らは名前を聞かれました。ところがアシュケナージ系の子どもらだけ教室に戻るように言われたんです。こうして有色人種の子どもだけがバスに乗せられたんです」。

        番組では歴史家が登場し、まず優生学運動の歴史をざっと説明する。その後に、この学者はきっぱりと断言する。「しらくも退治」の名目で行なわれた放射線照射事業は、じつは「イスラエル社会の足手まとい」と見なされた血統集団を根絶やしにするための一種の優生学事業だったのだと。ここで番組はユダヤ社会からのスファラディ系人種排除を主張していることで有名な2人の指導的人物ナフム・ゴルドマンとレヴィ・エシュコルの発言を紹介する。ゴルドマンはホロコーストが行なわれていた当時スイスで生活していた。だがスイスではユダヤ人難民の安全が保障されないことを思い知らされて米国のニューヨークに移住し、そこでサムエル・ブロンフマン率いる世界ユダヤ人会議の指導的立場に就いた。カナダの作家モーデカイ・リチラー氏によれば、ゴルドマンはヨーロッパからのユダヤ人がカナダに移住できないようにするためマッケンジー・キング首相と取引していたという。

        だがレヴィ・エシュコルがホロコーストで果たした役割は、「他人の命を救う」などというものでは到底なかった。彼は「他人の命を救う」どころか、むしろ「命を奪う」側の仕事で大忙しだったのだ。イスラエル政府のウェブサイトに掲げられた彼の略歴には、次のような記述が見られる。
        「1937年、レヴィ・エシュコルはメコロト水資源会社[=現在のイスラエル国営水道企業]の創設に中心的な役割を果たした。これによりドイツ政府はユダヤ人が僅かばかりの所帯道具を抱えてパレスチナに移住していくのを認める決意を固めたのである。ユダヤ人が移住の際に所持していたのは、主にドイツ製の品物だった」。
        1930年代、世界中のユダヤ人社会がナチス・ドイツのボイコットを行なっていた最中に、エルサレムの“ユダヤ機関”[=世界シオニスト機構から拡大して創られた機関でパレスチナへのユダヤ人入植を進めてきた]はヒットラーを支援していた。すなわち彼らは「移送協定」と呼ばれる協定を結んでナチスと取引を行なった。この協定の下で、ナチスはドイツのユダヤ人たちをパレスチナの土地に追い払い、一方、“労働シオニスト組織”はパレスチナに逃れてくるユダヤ人移民に圧力をかけて、彼ら移民の資産でむりやりドイツ製品だけを買わせたのである。そしてエルサレムの“ユダヤ機関”は、自らが欲していたドイツ系ユダヤ人を手に入れると、今度はシャブタイ・ツヴィやヤコブ・フランクが唱えた反ユダヤ主義をひそかに吹き込んで洗脳を行ない、ナチスの関心をヨーロッパ全域のユダヤ人の放逐へと仕向けた。いわゆる「ホロコースト」とは一種の優生学事業だったわけだが、レヴィ・エシュコルはその重要な役割を果たしたわけである。

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        ★補注
        ●シャブタイ・ツヴィ(Shabtai
        Tzvi)──その名は、サッバタイ(Sabbatai)/サッベタイ(Sabbetai)/シャッベサイ(Shabbethai)/シャッベタイ(Shabbetai)・ズビ(Zvi)/ツヴィ(Tavi)とも音訳表記されてきた。1626年7月23日に生まれ1676年9月30日に死去したと伝えられる歴史上有名な自称「メシア」であり、カバリストである。彼は「サッバティアン(Sabbatian)運動」──いわゆる「サッバティアニズム(Sabbatianism)」──を創始したが、これはユダヤ教の教義に近いもので、彼の死後もヨーロッパでの普及が続いた。一方、オスマン帝国ではユダヤ教・キリスト教・イスラム教の各要素をこね合わせた教義を信奉する「デンメ(Donmeh)派」として存続した。
        (デンメ派は17世紀末にギリシア北部の港湾都市サロニカに興った隠れユダヤ教徒の一派で、イスラム教に改宗したユダヤ教徒シャブタイ・ツヴィを救世主として信奉し,
        イスラム教徒を自称しながらユダヤ教的風習を受け継いだ。デンメ派の信徒はギリシアのサロニカとトルコ西部のイスタンブル、イズミル、エディルネに集中している。)[参考:http://encyclopedia.thefreedictionary.com/Sabbatai%20Zevi]
        ●ヤコブ・フランク(Jacob Frank)──本名はヤコフ・ベン・ユダー・ライプ・フランコヴィチ(Yakov ben Judah Leib
        Frankovich)。1726年に(当時はポーランド領、現在はウクライナの)ポデリアにユダヤ教ラビの息子として生まれ、1791年に死去。青年時代に中東を旅し、トルコでは「フランク」の名で呼ばれていた。1755年にポーランドに戻り「フランキスト(Frankist)」というユダヤ教の異端的なセクト運動を興したが、これはシャブタイ・ツヴィの神秘主義思想に感化されたタルムードの教えを否定する教派であった。
        その後、彼は神から直接の啓示を得たと言い出すようになり、フランキストの信者たちに“きたるべき救世主の教え”を受け入れるための準備としてキリスト教を信奉するようにと熱心に説くようになる。こうして1759年にフランキスト集団は、ポーランドのルヴォフ(現在はウクライナのルィヴィフ)で“集団洗礼”を受け、当時の社会では奇行として話題になった。だがヤコブ・フランクはキリスト教会から異端勢力であるとの指弾を受け、1760年に投獄された。13年後に釈放されると、彼は自ら“メシア”と名乗って12人の「使徒」を選び出し、オーストリアのブリュン(現在のチェコ共和国のブルノ)に拠点を移し、そこでオーストリア大皇妃マリア・テレジア(1717〜80年)の庇護を獲得した。マリア・テレジアはヤコブ・フランクを“キリスト教の護教論者”として利用したわけである。

        1786年にドイツのオッフェンバッハという町に拠点を移し、信者からの寄付で裕福な晩年を過ごした。91年に彼が死ぬと、フランキスト派の実権は娘のエヴァ・フランクに移譲されたが、ほどなくカトリック教会に吸収されてしまった。ヤコブ・フランクは“サッバティアニズム”の存続普及に貢献したが、その党派的な閉鎖性や独善性を改めて、ユダヤ教からの自己脱皮を促した。フランキズムは、オスマン帝国やフランスやアメリカで続発した18世紀の革命運動の思想的な原動力のひとつだったと言われている。[参考:http://www.kheper.net/topics/Kabbalah/Jacob_Frank.htm,
        http://en.wikipedia.org/wiki/Jacob_Frank]

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        先ほどのモロッコ人の女性が登場してこう語る──「あれはまさにホロコーストでした。スファラディのホロコーストよ。なのに何故だれも止めようとしなかったのか、私はそれが知りたい」。
        ダヴィッド・デリ氏が今度は討論会の一員として登場し、自分の子ども時代の医療記録を入手しようとした際の不愉快な経験を語った。
        「私が知りたかったのは、自分が何をされたか、それだけだったんです。あんなことを認可したのは一体だれなのかが知りたかった。当時の指揮命令系統をはっきりさせたかった。ところが厚生省はもうあんたの記録は紛失していて残ってない、というのですからね」。
        厚生省のボアズ・レヴ報道官は、番組の中でこう繰り返すばかりだ──「ほとんどすべての記録書類はすでに焼却処分してしまいましたから」。

        だったら我々はデリ氏に加勢して当時の指揮命令系統を追及してやろうじゃないか。だがその前に私[=バリー・チャミッシュ]自身の体験を、この番組紹介のなかで紹介しておく必要がある。6年ほど前のことだが、私は4500人もの子どもたちが犠牲になった誘拐事件のことを調査したことがある。これはイスラエル建国直後に起こった事件で、誘拐されたのは大部分がイエメンから移住してきた家庭の赤ん坊や子どもたちだった。私は、誘拐イエメン人児童救援運動で指導的な活躍をしていたウズィ・メシュラム師と“面会”した。当時彼は真相究明の活動に言いがかりをつけられて投獄されていたのだ。その後、彼は釈放された。「植物状態」の廃人となって帰宅したのだった……。メシュラム師はいまだに「植物状態」のまま回復の兆しはない。
        まだ健康だった獄中の彼は、私にこう語ってくれた。誘拐された子どもたちはアメリカに移送されて、核実験に用いられ[←原文直訳では「核実験」だが、これが核爆発の被爆被験者として使われたか放射線被曝の被験者として使われたかは、この文章からは不明である]、無惨な最期を遂げたという。アメリカ政府は自国民の人体実験を禁じていたから“人間モルモット”が必要だったわけだ。そこでイスラエル政府は資金や核兵器の極秘技術情報を供与してもらう見返りに、こうした“人間モルモット”をアメリカに提供するという契約を結んだわけである。イスラエルの核兵器開発事業を始動させたのは、当時の国防長官シモン・ペレスに他ならない。

        エルサレムのダヴィッド・セヴィリア師からも、この犯罪の確証を得ることができた。そればかりか後に私は、この誘拐事件で生き残った数少ない子どもたちに放射線照射の証拠となる瘢痕[はんこん]が出来ている様子やカゴに入れられた赤ん坊たちがアメリカに陸揚げされている様子を撮った写真まで見ることができた。
        ちょうど5年前になるが、私は自分が得た確信をインターネットで発表した。つまりイスラエルを建国した“労働シオニスト組織”はイエメン人や他のスファラディ系の子どもたちをモルモット代わりに使って原子力開発のための生体実験を行ない、何千人もの命を奪った──という確信である。そして3年ほど前には自著『イスラエルを救え!』にもこの確信をはっきりと書いたのだが、当時は荒唐無稽の妄想を書いているといって笑いものにされたものだった。……けれども私は正しかったことが、今や歴然としている。
        ドキュメンタリーの話に戻ろう。米国は1940年代に法規制を定めて囚人や精神薄弱者などへの放射線照射実験を禁じてきた、という話が一種の“常識”として伝えられてきた。けれども現実にはアメリカの原子力事業はどこかから人間モルモットを調達してくる必要に迫られ、イスラエル政府がその供給役を担ったわけである。
        「しらくも退治」の名の下に残虐行為を指揮した当時のイスラエル政府の大臣は、次の連中だ。
        ダヴィッド・ベン=グリオン首相
        エリーゼル・カプラン大蔵大臣
        レヴィ・エシュコル植民大臣
        モーシェ・シャーレット外務大臣
        ヨセフ・ブルグ厚生大臣
        ゴルダ・メイヤ労働大臣
        アモス・ベン=グリオン警察大臣
        その他、閣僚ではないが最高位の政府高官としてシモン・ペレス国防長官も、この陰謀に関与していた。
        この大規模生体実験事業はアメリカ政府からの数十億ドルの供与金の見返りとして実施されていたわけだが、財政的な困難を抱えて外貨を欲していた建国当時のイスラエルの首相が、この事実を知らなかったとは言わせない。ベン=グリオン首相自身がこの恐るべき事業に関与し、だからこそこの事業への妨害を排除しようとして息子のアモスを警察大臣にまで据えていたことは疑いようがない。
        他の共謀者たちについても、ざっと見ておこう。まず財務大臣のエリーゼル・カプラン。この男は大規模生体実験事業で手に入れた利益をじかに扱う立場にあった。その甲斐あってレホヴォト[=イスラエル中部のテルアヴィヴ南東にある地方都市]に自分の名を冠した“記念病院”が立ち、こうして彼の“栄誉”は永久に記憶されることになったほどだ。しかしそのとんでもない“栄誉”に与[くみ]したのはカプランだけではない。“しらくも退治”の事業組織を運営していたのは、人種差別主義に凝り固まったハイム・シェバ医師であったが、彼ものちに自分の名前がついた“記念”総合病院を建ててもらった。地方医師会にひとかけらでも“良識”というものがあるなら、これらの病院名を変えるべきであろう。……言うまでもないことだが。
        そしてヨセフ・ブルグ。誘拐イエメン人児童救援運動の指導者たちは、この男こそ彼らの子どもをさらっていった犯罪の最大の下手人だと糾弾している。なるほど彼は厚生大臣として“しらくも退治”児童大量虐殺事件で中心的な役割を確実に果たした。彼の息子アヴラハム・ブルグは父親の立場とは正反対の平和活動家になったわけだが、どうしてそういう劇的な親子対立が起きたかも、これで説明がつこうというものだ。
        当時の外務大臣モーシェ・シャーレットも忘れてはならない。この男は1944年にシリアのアレッポでヨエル・ブランド師を逮捕した張本人だが、その理由はブランド師が[当時の第二次大戦下に]ハンガリーで囚われの身となっていた80万人のユダヤ人同胞を救い出そうとして実現可能な方策を提案したから、というものだった。シャーレットはこんな迷言を吐いて有名になった人物だ──「シモン・ペレスの奴が入閣するような事態になったら、私は着ている服を破り捨てて大声を上げて嘆くだろうね」。誘拐イエメン人児童救援運動の何人かの活動家から聞いた話だが、シャーレットはこの迷言を吐いた際に、イエメン人児童の誘拐事件について言及していたという。
 

        ほかにも在野の歴史研究者たちから聞いた話だが、レヴィ・エシュコルは自分がシャブタイ・ツヴィの教義を信奉していると、堂々と宣言したことがあるという。ただし私自身は、この件の真偽について情報の裏付けを得ようと試みたが、そうした発言記録を見つけることがまだ出来ていない。とはいえエシュコルがこの放射線照射実験の当時、まず植民大臣に就き、その後、エリーゼル・カプランの後継として大蔵大臣になったことは周知の事実だ。彼の略歴にはこう書かれている──
        「1951年にエシュコル氏は農業開発大臣に任命され、1952〜63年の10年ほどの間に移入民の編入と1956年シナイ戦争という財政的困難を乗り越えながら未曾有の経済成長を実現させた人物として特筆すべき活躍をした。1949〜63年には大蔵大臣を務め、そればかりかユダヤ機関の入植部長も務めた。イスラエル建国当初の4年間はユダヤ機関の収入役として主に祖国の開発や大量に押し寄せる移民の編入事業や軍備に必要な資金獲得の主導役を担った」。
        要するにエシュコルはイスラエルに移住してきた人々の最高責任者だった。放射線照射の虐待部屋に移民たちを送り込んだのも彼だが、その責任を負わねばならないのも彼である。
        最後に控えしはゴルダ・メイヤ。この女性閣僚が具体的にどんな役割を担ったのか私はまだ解明できていないが、彼女も確実にこの陰謀に加担し、その報酬を得ていたのである。この時期以降、メナヘム・ベギンが首相に就任した1977年までの歴代イスラエル首相たちの顔ぶれを見ればいい。この陰謀仲間たちが順ぐりに首相の椅子を手に入れてきたのだ。さらにもう一つ注目すべきことがある。それは今日言うところの「右派」勢力が、スファラディ系児童のこうした大虐殺に一人として関与していなかったことだ。現時点で判明している事実から次のような歴史の皮肉を知ることができる。すなわちオスロ合意の「平和」を我々イスラエル国民にもたらしたのは、こうした虐殺者たちの末裔に他ならないということ。そしてこうした連中が、いまやユデアやサマリアやガザの入植民を決然たる態度で一掃しようとしていること。その決然さたるや、50年まえに「肌の黒い劣ったユダヤ人」に対して手を下し、彼らスファラディ系ユダヤ人を危機に追い込んだ時の態度と変わっていないのである。

        もしあなたが1952年当時、イスラエル政府の閣僚だったなら、イエメン人入植者の赤ん坊たちを最終的には殺す目的でアメリカに送るか、それともここイスラエルの地で殺すかを、論じることになったはずだ。魔王のごとくに傲慢で悪辣きわまるサッバティアニズムにかぶれた我らの建国の父たちが、国の重要な政策課題を論ずべき場所で、そういうろくでもない謀議にうつつを抜かしていたのである。
        ドキュメント映像をひととおり放映したのち、番組司会者のダン・マルガリットが今まで見てきた事実について好意的な解釈を試みていた。今しがた見た事実は、いずれにせよやむを得ない事情だったと釈明しようとする態度が丸見えだった。粛々と彼は説明するのである──「でも当時はわが国も貧しかったのです。来る日も来る日も、生きるか死ぬかの瀬戸際だったのです」。だがこれ以上、彼は二の句が継げなかった。スファラディ系ユダヤ人の子どもたちに行なった残虐行為には、もはや釈明の余地がないことを、彼とて心得てはいたのである。

        だが番組に出演していたモロッコ人歌手が放った一言が、この経験の重みを何よりも的確に言い表していた──「苦しいことだろうけど真相は明らかにしなきゃだめだ。それができないかぎり、いつまでたっても傷は癒えないのですよ」。
        この児童虐殺活動に加わり、真相を知っている人物がただ一人、いまでも生きている。野党の指導者で今ではパレスチナ和平の提唱者のシモン・ペレスだ。真実を明らかにして和解と癒しを生み出すには、シモン・ペレスがイエメン人乳幼児4500人の誘拐やスファラディ系ユダヤ人の青少年10万人以上を対象に行なった大規模放射線被曝活動でどのような役割を担ったのか、彼を捜査することから始めるしか方法はない。
        だが現状では、それは到底無理だろう。そもそも『10万人への放射線照射』が放送されたこと自体が奇跡といっていいほどなのだ。だがそれにしても、結局は妥協を強いられたとはいえ、この番組を世に出そうとして闘いが続けられてきた。そしてわが国では昨今一番の視聴率をとっている『スター誕生』と同じ時間帯にぶつけて、その裏番組としてひっそりと放映されたのである。翌日の新聞には『10万人への放射線照射』についての批評記事はただの一言も載らなかった。『スター誕生』で生まれた新人スターの写真は新聞一面の半分ものスペースをとってでかでかと載ったというのに……。
        イスラエルではこうして真実が葬られ、こうして誤魔化しのトリックが発動されている。ラビン氏暗殺のときも、これと同じ仕掛けが働いて、真実が闇に葬られた。
        けれども十万人かそこらの国民は、この放送を確実に見ていたわけである。彼らはこの事実をけっして忘れないだろう。ラビン氏を暗殺しても“労働シオニズム組織”を永久に葬り去ることができなかった。だが『10万人への放射線照射』には最終的にそれを成し遂げるだけの潜在力がある。

        番組紹介記事はここで終わり

        「しらくも[=リングウォーム]ホロコースト」の惨害をめぐる事件の概要は、下記の『ハアレツ』記事(2004年7月30日付)で読むことができる。
        http://www.haaretz.com/hasen/spages/458044.html

        原文:100,000 Radiaciones - Una Revisi溶
        http://www.animalweb.cl/n_o_imperial/zionismo/holocausto_sefardita.htm

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        バリー・チャミッシュ
        バリー・チャミッシュはイスラエルのジャーナリスト。これまでイスラエル政府の腐敗を、強力な調査力と内部告発の力を借りて数多く行なってきた。
        バリー氏は、1971〜75年当時にカナダで3冊の小説と短編集1冊を発表した。その後イスラエルにわたり、ヘブライ大学で修文学修士号を取得し、兵役に就いた。1982年にはレバノン戦争で戦っている。その後は執筆活動に精進し、500本以上の記事を『アトランティック』『ナショナル・レビュー』『ハリウッド・レポーター』『ニューヨーク・ニューズデイ』などに発表した。
        だが92年に“物書き”としての彼の人生は予期せぬ転機を迎えた。きっかけは英国のキャノンゲイト出版社から出した『イスラエルの凋落』である。これはイスラエル政界の腐敗を手厳しく暴露した本だったが大好評を博し、やがてジョエル・バイナーマンと共同で『インサイド・イスラエル』というニューズレターを創刊した。当初は政界汚職などを暴露していたが、やがてイスラエルの政治体制そのものが抱えている犯罪性が見えてきた。なにしろイスラエル政府の上層部は“新世界秩序”づくりを画策する勢力、とりわけ外交問題評議会(CFR)に取り込まれていたのだから。こうした事実を知り、彼は政界の闇をさらに深く追及することになり、その成果は2冊の著作『約束の地で暗躍する売国奴と渡り政治屋』『誰がイツハク・ラビンを殺したか?』として発表された。
        Barry Chamish E-mail chamish@netvision.net.il

        原文:http://www.pushhamburger.com/barry.htm

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        「しらくも[=リングウォーム]ホロコースト」の惨害をめぐる事件を報じた
        『ハアレツ』記事(2004年7月30日付)

        2004年7月30日;イスラエル時間03時44分

        被害者たちの苦しみは続いている

        アリエー・ダヤン記者

        イスラエルに移住してきた何万もの人々が1940〜50年代に“しらくも退治”のために放射線を浴びせられた。それから60年を経た今なお、彼らはこの処置によるとされる各種疾患への賠償を求めて闘い続けている。
        「しらくも事件」は、(イエメン人移民の児童を誘拐して養子に出したとされる)イエメン人児童虐待事件や、新移民にDDTを散布した問題とともにイスラエル国民にとっては重大問題になってきた。こうした事件と同様、「しらくも事件」も、1950年代にアラブ諸国から新たにイスラエルにやってきた移民たちに示した、古株の(ヨーロッパ起源の)アシュケナージ系ユダヤ人社会の傲慢で冷酷な態度の象徴となっている。そして他の事件と同様、「しらくも事件」の傷跡はいっこうに消えそうにない。
        「しらくも事件」の遺恨を一掃するための法律が制定されて10年が経つ。しかし遺恨はふたたび甦ったようだ。被害者たちはふたたび闘いを開始し、政府に馬鹿げた賠償金を要求しているばかりか、政府が犠牲者の大部分に“涙金”を渡して事を済ませようとするのを阻止しようとさえしている。当然の成り行きとして、イスラエル政府が50年前にアラブ諸国からのオリーム(新移民)に恩恵を施すつもりで実施した「医学的・人道的キャンペーン」なるものが一転して人道上の悲劇に変わってしまった現実について、政府がどこまで責任を負うべきかについての熾烈な議論が蒸し返されるであろう。

        イスラエル政府の放射線照射キャンペーンは1940年代後半に始まった。当時、この国では“しらくも”の感染爆発を恐れる声が高まっていたのである。“しらくも”というのは毛根を侵す皮膚病で、不潔な環境で密集状態で暮らしている子どもたちに急速に広まる。イスラエルの支配的な既存社会には、ミズラヒ(北アフリカや中東起源のユダヤ人)移民に対する偏見がある。この差別的な先入観が、“しらくも”感染の恐怖を増幅し、その問題解決の性急な実施に拍車をかけたのだった。
        当時のイスラエル厚生省と国防軍衛生部隊の上層部が、“しらくも”感染の治療と予防をめざす一種の包括的作戦を開始すべく決定を下した。この作戦の一環としてアラブ諸国から移住してきた15歳以下の児童全員の頭部に放射線照射を施すことになった。こうしておよそ10万人の児童が放射線照射処置を受けた。
        この“しらくも駆除”作戦は1960年まで続いたが、ある時点で放射線照射装置を(フランスの)マルセイユなどヨーロッパ各地に置かれたユダヤ機関の“入植待機収容所[トランジット・キャンプ]”に運び込み、そうした場所でも放射線照射処置を実施することが決まった。当時は、北アフリカからイスラエルへの移民を望む子どもたちが、まだ“入植待機”状態でそうした国外施設に収容されていたのである。当時の医学界は、イスラエル国外においてさえ、このような放射線照射を行なえば将来どんな結果を招くか気が付いていなかった。こうした放射線照射処置が癌やその他の疾患につながることが発見されたのは、それから何年も後になってからのことだ。

        この放射線照射キャンペーンのせいで子どもたちに深刻な情緒障害が起きた、とこれまで多くの人々が証言してきた。なにしろ全く説明もなしに、アラブ系の子どもたちが診療施設に連れて行かれて頭髪を剃られ、そり残しの頭髪まで熱した蝋[ろう]ですっかり抜かれてしまい、その毛根をX線で根絶されたのであるから……。
        “しらくも駆除”の放射線照射のせいで各種の癌に罹ったイスラエル国民がどれほどいるのか、正確な数はつかめていない。だがバルーク・モダン教授はテル・ハショメルのシェバ医療センターで臨床疫学部長をしていた当時、この問題を調べ、この集団における発症率が一般国民の2倍以上であることをすでに30年以上前に見いだしていた。この放射線照射キャンペーンは、癌の他にも、不妊・歯や毛髪の喪失・頭皮や他の部位の重症の醜悪な瘢痕[はんこん]など、さまざまな障害を生み出した。最近の推測では、この放射線照射キャンペーンによって数万人が癌その他の疾患に罹ったと考えられている。

        政府内部でも食い違う所見

        何十年もの間、イスラエル政府は法的にも道義的にも放射線照射キャンペーンの責任を追及される道理はないと言い張ってきた。だが1994年に初めて態度を変え、アミル・ペレッツ議員[MK=
        Member of
        Knesset]が提出していた“しらくも駆除”処置犠牲者への賠償法案を承認した。こうして施行された法律は、子どもの頃に“しらくも駆除”の放射線照射を受けて成人してから重症の癌に罹った者には誰でも少額の賠償金が支給されると定めていた。この新法を制定したことで、政府は事実上、自らが過去に行なった放射線照射事業と発癌との因果関係を、認めたわけである。

        この法律の実施当事者として指定された政府の2つの機関──厚生省と国家保険機構(NII)──は賠償金受給資格をもつ被害者の人数について、食い違う所見を出している。厚生省は、受給資格の認定と、賠償総額を決める根拠となる“障害”の重症度(百分率評価)を決める任務を負っており、受給資格者は「およそ1万3500人」いると発表している。すでに1万3000人ほどが賠償請求を提出しているという。ところが実際に賠償金の支払いを担当する国家保険機構は、受給資格者を「およそ1万1000人」と発表しているのだ。さらに厚生省は、すでに1万件ほどの賠償請求が却下され、7500件の請求については検討中でまだ結論が出ていない、とも発表している。国家保険機構の広報部は2003年10月の時点で「本庁が“しらくも事件”被害者に支払った賠償額はすでに総額6億4000万シェケル[1シェケル(NIS:
        new Israeli shekel)=100アグロット≒28円]に達している」と発表している。

        障害重症度が(百分率評価で)5〜39%と診断された被害者は、重症度1%につき1218シェケルの賠償金を一度だけ受給できる。重症度40%以上の被害者は、この一度きりの賠償金のほかに、毎月、賠償金が受給される。認定委員会が重症度40〜74%と診断した被害者には5万シェケル、重症度75%以上の被害者には10万シェケルの“一度きりの賠償金”が支給される。重症度100%の障害を有すると認定された被害者には、国民平均所得の25%に相当する1800シェケルほどの賠償金が月々支給され、障害重症度が下がるに従い、月額支給金の算定額も下げられる。

        「これはまったく最低額の賠償にすぎません。これじゃ被害者をわざわざ侮辱しているようなものです」と、多くの“しらくも事件”被害者の法的支援を行なってきたヤディン・ヤロン弁護士は語る。「賠償を受ける立場にある圧倒的大多数の被害者は障害重症度が40%未満なのですが、彼らはみな度し難い涙金を一度受け取ったきりで始末されてしまうのです。脳腫瘍やからだのあちこちに腫瘍ができた患者だけが、重症度40%以上と見なされているわけですからね。」 国家保険機構の統計調査によれば、月々の賠償金をこれまで支給されてきた被害者は、わずか27%にすぎない。同庁の受給資格者「およそ1万1000人」に当てはめて考えれば、わずか3000人ほどしか月払いの賠償金を受け取っていないのだ。

        どうしてこんなに馬鹿げた涙金しか支払われていないのか? 放射線照射処置の被害者たちが裁判を起こしても勝訴の見込みが殆どないことを知りながら、政府が被害者の足下を見て対応してきたのは歴然としている。ヤロン弁護士はこう証言する──「15年前、まだ賠償立法が定まる前の話ですが、放射線照射処置の被害者たちが一大集団を組織して私に相談を持ちかけました。政府の医療過誤を追及する訴訟を起こせないものか、検討してほしいと頼まれたんです。この案件を検討した結果、私が出した結論はこうでした。放射線照射処置は当時の医学界の常識にもとづいて行なわれたものだから、「医療過誤」訴訟として闘っても勝つ見込みは全くない……。しかし私としては、政府は被害者に対して非常に大きな道義的責任があると感じていましたから、彼らには訴訟を起こしなさいとアドバイスしました。政府の道徳的責任を追及する訴訟を起こしなさい、とね。」 そして被害者集団は実際に訴訟を起こしたわけだが、政府はすみやかな立法措置でこれに対応した。要するにわずかばかりの涙金で「賠償」を済ませる態勢が整い、法廷での審理に幕が引かれたのである。

        1994年に制定された賠償立法の目的は、“しらくも事件”で尾を引いていた遺恨を幕引きすることだった。だがさまざまな不穏な動きが長く続いてきたし、ここ数ヵ月の間にそうした動きが増え出しているのを見ると、政府による“遺恨の幕引き”は失敗したと考えざるを得ない。現在、放射線照射処置の被害者たちから成る一大連合組織が公然たる闘いを開始しつつある。彼らは、賠償金がすでに涙金同然の少額だというのに、大蔵省が何年にもわたってその支給額を減らそうとあらゆる企てを行ない法律を骨抜きにしようとしてきた、と主張している。被害者たちの訴訟を応援している弁護士たちは、厚生省が大蔵省に屈服して賠償金請求者の資格審査を行なう医学委員会の活動を大幅に後退させ、法的策動と官僚主義によって原告被害者たちの権利をどこまでも阻害する邪魔者に成り果てている、と主張している。医学委員会の認定に異議がある場合は、法の定めにしたがい労働裁判所に控訴できるわけだが、現在イスラエル全土の労働裁判所で、認定結果や賠償額に異議ありとして控訴を行なう例が増えつつある。

        「[94年に制定された“しらくも事件”被害者救済の]法律は、制定直後の数年はなんとか我慢できる程度に施行されていたのです。でも西暦2000年か2001年をさかいに状況が一転して悪化しました」と語るのは、“しらくも駆除放射線照射被害者連合”のマルカ・コーエン=ギルボア弁護士だ。同法の定めでは、賠償を求める被害者はまず“専門家委員会”の審査を受けることになっている。申請者が抱えている疾患と、過去に受けた放射線照射に、直接的な因果関係があるかどうかを判定するのが、この委員会の任務である。「ところが最近では」と弁護士は続ける。「専門家委員会は被害者自身に因果関係の立証を非常にきびしく要求するようになったんです。以前ならそういう作業は委員会がやるものだと自任していたわけですが、今や、被害者が本当に放射線照射を受けたと立証できる書類や証人を出せ、と要求してくるんですから。だけど被害者はだれ一人そんな書類を持っていないから問題なのですよ。証人と言ったって本人の親しかいないわけだし、たいていはすでにご両親を亡くしているわけですから。」
        “専門家委員会”で賠償金の受給資格が認められた被害者は、つぎに“医学委員会”に送られる。申請者の障害重症度を判定するのが“医学委員会”の仕事である。この判定結果で賠償金の額がきまる。ヤロン弁護士によれば「3年まえまでは重症度の判定はとても被害者に同情的な、配慮の行き届いたものだった」という。ところが「大蔵省がどうやらこの問題で大きな圧力をかけた」らしい。そればかりか、以前なら訴訟を起こしてから審理が始まるまで平均3〜4ヵ月待てばよかったのだが、現在では提訴から1年半も待たないと審理が始まらない、とヤロン弁護士はぼやいた。

        被害者対策の国立機関はいまだに作られていない

        ヤロン弁護士によれば、以前なら放射線照射で生じた瘢痕[はんこん]や、頭皮に生じた“まだら模様”やその他の損傷も、障害の重症度算定に加えられていたという。ところが現在では、こうした後遺症は「障害」扱いされていない。[94年に制定された]法律にはこんな定めが記されている──「(厚生省は)しらくも事件の被害者の実態調査と治療法の探究を行なう国立機関を設置する」ものとし、この国立機関は「しらくもに罹って放射線照射を受けた人々の所在の特定・登録・資料整備」や「放射線被爆者に発症する恐れがある各種疾患の早期診断が行なえる一大システムの確立」などを任務とする……。
        救済法案が議会で可決された当時は、少なくとも次のような説明がされていたものだった。……この被害者対策機関では放射線照射処置と(癌以外の)各種疾患との因果関係も究明し、これによって癌以外の疾患で苦しんでいる被害者にも受給資格を与えられるようにすると……。

        この救済立法が講じられてすでに10年を迎えるが、法が定めた被害者救済の国立機関はいまだに設置されていないし、賠償金受給資格の対象疾患も、当初指定された癌だけに限られたままだ。「数年前に、ニッシム・ダハン厚生大臣が、甲状腺の良性腫瘍も受給資格疾患のリストに追加する命令書に署名したのですが、大蔵省がこの行政命令を認めなかったんです」とヤロン弁護士は語る。
        コーエン=ギルボア弁護士もこう語っている──「すでに1974年にモダン教授が放射線照射処置と乳癌発症の因果関係を立証しているんです。なのに乳癌は受給資格の対象疾患リストにいまだに入れられていません。それに以前は情緒障害も障害重症度の算定に含まれたものでしたが、今では除外されている。我々はずいぶん前から、かつらの購入費を賠償するよう政府に求めてきました。だって我々の大部分が、もう50年間もかつらを使用せざるを得ない状況に置かれ続けてきたのですよ。なのに政府は何もしてくれない……。」
        放射線照射被害者の数十件の訴訟を扱っているハデラ法律事務所のズヴィ・レゲヴ弁護士は、原告の被害者たちが弁護士の立ち会いを許されぬまま“専門家委員会”に出頭することを求められ、そこで巧みな“ひっかけ質問”を浴びせられている、と指摘する。たとえば賠償申請者は委員会から「放射線照射は痛かったですか?」などと質問される。「そこで“はい”とでも回答すれば賠償申請はただちに却下です。これは“ひっかけ質問”でしてね、だって放射線照射そのものは痛みを伴うものではないですからね。でもその際にロウで頭髪を引っこ抜かれるんです。これはとっても痛い。もう50年も前に放射線照射を受けた60代の老人に、子どもの頃に体験した出来事の正確な感覚を語らせようとするなんて、どんな魂胆なのか分かったもんじゃありませんよ」とレゲヴ弁護士は述べた。
        この件について厚生省は正式な回答を拒んだ。最高裁で係争中だから、というのがその理由。厚生省のある高官が匿名を条件にこう語った。同省も被害者対策で動いている各種委員会もちゃんと法に従って仕事をしています、と……。

        被害者には“知る権利”がないのか?

        「もし15年か20年前に“あなたはしらくも対策で放射線照射を受けていました”と厚生省が知らせてくれていたら、自分のいのちを救えたかもしれないのに……」とバッチェヴァ・ガダッシさんは悔しがる。54歳のガダッシさんは最近、重症の癌で倒れた。彼女の名前はいわゆる『モダン教授のファイル』に収録されていた。このファイルが編まれたのは35年も前のことだ。だから厚生省が本人にこの事実を告げもせず無為無策のまま取り返しのつかない事態を招いたことを、彼女は責めるのである。『モダン教授のファイル』には1万2000人の氏名が列挙されていた。だがそれとて放射線照射処置を受けたおよそ10万人の子どもたちのごく一部にすぎない。
        『モダン教授のファイル』が編まれてからも、厚生省はそこに名を記された被害者たちに頑として警告を行なわなかった。ガダッシさんはこのファイルに記された人々に被害実態を知らせることを厚生省に求めて裁判を起こし、現在は最高裁で争われている。「裁判に勝っても私はもう助からない。でも他の人たちの命を救いたいのです」と彼女は語る。
        ガダッシさんは1950年にモシャヴ・シュトゥリムで生まれた。両親はその前年にイエメンからイスラエルに移民してきたばかりだった。1957年の夏に、このモシャヴ[=自営小農の集まったイスラエルの共同農場]の児童全員がハイファに連れて行かれた。「サマーキャンプに連れて行くから」という口実で……。「大型トラックが一台やってきて、私たちを全員を乗せました。ハイファへの道行きは、みんなで歌ったり遊んだりと、それはそれは楽しいものでした。ところがハイファ近郊のシャール・ハーリヤー・キャンプに着いたとたんに酷い目に遭わされました。みんな病院に連れて行かれて頭に何かを塗られ、髪の毛を全部引っこ抜かれました。そして放射線を浴びせられたんです。私たちはつるっぱげで家に帰されました。身も心も傷だらけだったんですよ。」
        これはガダッシさんにとってあまりにもショッキングな出来事だった。おかげで彼女は何十年もこの経験をすっかり忘れていた。ところがほんの数ヵ月前に当時の細かい情景まではっきり思いだした。きっかけは喉[のど]に出来た癌の治療で放射線照射を受けたからである。そして今、この癌のせいで彼女は死の淵にいる。厚生省を訴える裁判を起こしたが、そこで初めて自分の名前が『モダン教授のファイル』に載っているのを知ったという。
        35年も前に『モダン教授のファイル』が編まれたというのに、それ以降の厚生大臣や厚生省の長官たち全員が、被害者に警告を出すべきだという要請を拒否し続けてきた。バルーク・モダン教授自身もそうした拒否に関わっていた。彼はこのリストを編んだのち、1980年代に厚生省長官に就いた。同省は今になって『モダン教授のファイル』は「単なる研究目的のために作成した」と釈明し、このファイルに掲載された人々全員が本当に放射線照射を受けていたかどうか定かでない、とまで言っている。さらに厚生省は、ファイルに載った全員に警告を送ると医学的効果がないのに「不要なパニックを煽るだけだ」とも言っている。もし警告を与えても、それで癌の発症を止められるかどうか疑わしい、というのが同省の理屈である。だが『モダン教授のファイル』に載った人名リストは秘密扱いにしていない、と同省は言い訳している。自分の名前がリストにあるかどうか同省に問い合わせれば、ただちに教えてくれるそうだ。(アリエー・ダヤン記者)

        原文:http://www.haaretz.com/hasen/spages/458044.html

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        (訳=佐藤雅彦 「阿修羅」HPより ※文中[ ]内の注釈と補注は訳者による)
 
 
 

        【関連記事】
        シオニスト政権が、人体に放射能を当てる検問所を設けました。
        中国・新華社通信が23日水曜、パレスチナ医療筋の話として伝えたところによりますと、イスラエル当局が、最近、ガザ地区のラファ国境で、取調べをする人物に強い放射性物質を当てるガラス張りの検問所を設けました。
        ここでは、人の内臓や骨までが透けて見えるということです。
        ガザのシェファー医療センターの広報担当局長は、これに関し、このように放射能を人体に当てると、細胞の死、視聴覚の障害、胎児への影響、癌の発生、知能発達の遅れ、不妊などを引き起こすと語っています。
        また、同広報担当局長は、こうしたイスラエルの措置は、パレスチナとの戦争が始まって以来のことであるとし、IAEA国際原子力機関が、核エネルギー利用の明確な基準を設けているにも拘らず、パレスチナ人はイスラエルの検問所で、このような殺人的な放射線を浴びている、と語りました。(IRIBラジオ日本語
        2005/03/24)
        ref. Israel's Peeping Tom in Rafah still operational
        (Electronic Intifada)
 
 

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