あやしいメシアニックジュー

*ユダヤ人キリスト教徒の隠された使命とは

 

 
 
 
 

一三世紀、スペインを支配していたマホメット教徒は北から攻めてきたキリスト教徒によって追放され、スペインはキリスト教国となった。次いでスペインを完全なキリスト教国としようとしたフェルナンドとイザベラによってユダヤ人はスペインを追放されることになった。ただし、キリスト教の洗礼を受けてクリスチャンになれば許された。これはおよそキリスト教の本質とはかけ椎れたものだが、当時の考えでは正しいと考えられたのだろう。この頃、キリスト教に改宗するユダヤ人が沢山いた。その中には本当に改宗したものもいたが表向きだけの者もいたのである。この偽のクリスチャンをマラノ(スペイン語で豚)と呼んだ。恐らく改宗者のほとんどが表向きだったに違いない。なぜなら、キリスト教は決して強制されてはなれるものではないからである。

一方、本気でクリスチャンになったという連中は自分の忠誠心を見せつけるために、激
しく同胞のユダヤ人を迫害した。その一番有名な者がトマス・トルケマーダで、彼の異端審間所の残虐さは背筋が凍るものである。私はこの男こそ実は最も熱心なュダヤ教徒ではなかったのだろうかと思っている。本当のクリスチャンは絶対にそんな事をしない。「敵を愛し迫害するもののために祈れ」と言ったキリストが許さないのだから。さて、これはしかし、ユダヤ人の歴史の同情すぺき片面である。確かに彼らは迫害され、どこにも住むところ無く悲惨な歴史を背負っている。マラノはこの様に強制され、いやいやながらクリスチャンにならされた民族の悲劇である。
 

ユダヤ人は豚を食
べないからわざわざ豚を会べさせて調ぺた事からも来た名前のようである。さて、しかし、私は一九九八年の今日、強制されてではなく、自発的になったマラノがいると思う。彼らの目的は何なのか?メサニック・ジューという言葉をご存じだろうか。これは最近一○年ぐらいに、急激に増えたユダヤ人のクリスチャンである。彼らはキリストというギリシャ語では表せない、彼らの救い主メシヤに出会ったという意味でメシアニック(メシアに会った)ジュー(ユダヤ人)と自らを呼ぶのである。

もちろん彼らのメシアとはイェシュアすなわちイエスである。
これは、何も変なことではない。聖書でもユダヤ人はいつかはキリストを信じると書かれているからである。あのユダヤ教からの脱却を高々と宣言したパウロがキリスト教の基礎ともいうべき新約聖書ロ−マ書に書いているのである。今や、このメサニック・ジューは全世界に何十万人ともいわれる規模になってきた。そして、彼らはいろいろなルートでキリスト教会の中に入り込んできている。それは悪いことではない。ユダヤ人が救われてイユスをキリストと呼ぶことに勝る素晴らしい事もない。

ただ、なぜかクリスチャンがユダヤ人を自分たちの「信仰の兄」と呼び、彼らが
「福音のユダヤ性の回復」などという言葉や本を出すに至ると、私のアンテナは敏感になるのである。実際、「福音のユダヤ性の回復」という奇妙な本は、実に巧妙にキリスト教のユダヤ化、ないしは後退を育んでいるように思えるのである。また、ここ数年フロリダ州のペンサコーラという町で強烈なリバイバルと言われる現象が起こっている。何万人もの人々が救われ、悪い道から改心し、麻薬から解放され、犯罪が滅少している。それ自体、悪いものではなく、極めて健全なものに見えるのだが、その中心的指導者には幾人かのユダヤ人がいる。
 

私が、ここまで書くと恐
らく幾人もの人々が「なぜユダヤ人ではいけないのか。それは 人種的な偏見で、お前こそ悪いのではないか」と言ってくるに違いないことが私にはありありと分かる。ユダヤ人で何が悪いのか?私には消えない一つの懸念がある。それはタルムードである。もし、メサニック・ジューがタルムードを非難し、そこに書かれているイェス・キリストへの冒涜とキリスト教徒を殺害することを目的としているこの書を恥とし民族を代表して悔い改めるのでなければ、私には彼らが本心においてはマラノでありキリスト教会を誤導するために遣わされた蝶者ではないのかと言う疑いを持たないわけにはいかない。ここで言うマラノは、強制されてではなくある目的を持って本心を隠してクリスチャンを装っていると言う意味に置いての言葉である。マルチン・ルターはその改革の初めにはユダヤ人の助けを受け、自らフリーメーソンであったらしい。

しかし、彼が一度タルムードを読むに及んで(彼はヘブライ語、ギリシャ語に極めて秀でていた)彼のユダヤ人観は一変したという。私はまたしても友人を失うだろう。「君は余りにも疑り深い。君の事を聞いていると希望も信仰もなくなってしまう。なぜ、聖霊に逆らうのかね。神の御業に難癖を付けるのかね。見たまえ、兄弟が和合してともに居るのは何と美しい事ではないか」
 
 

しかし、私はただ一人になっても、ユダヤ人の中にタルムードがあるかぎり「へびのように聡くあれ」と言われた主イェスの言葉に従いたい。そこで読者のために膨大なタルムードの中からとくに注意したい言葉を並ぺたテキストを紹介して判断を顧うこととしよう。これはすでにインターネットなどで公にされているし多くの人々に知らせてほしいという事なので、無断で拝借するがお許し頂けるであろう。
 
 
 

*タルムードに生きるユダヤ人を信用できるか

「この文章の内容はアラン・R‐クリチリーとマイケル・ホフマンにより調査され確認されている。

http//:www.hoffman/1nfo・com

エルビン21b 誰でもラビに従わないものは死に値し、地獄の熱い大便の中でゆでられる懲らしめを受けるだろう。

モードカッタン17aユダヤ人が悪を行うように誘惑されたら、彼は自分が知られていない町に行ってその悪を行わなければならない。

パパメジア114a−b ただユダヤ人だけが人類である(ただ汝のみ人として選ばれたり)。

カリソス6bの〃油注ぎ〃の副題とペラコス58aに異邦人の女は動物として選ばれた(造られた)とある(ロパ女)。

サンヒドリン58bもし異邦人がユダヤ人を蹴ったら、彼は殺されなければならない。ユダヤ
人を蹴ることは神を蹴ることと同じである。

サンヒドリン57aユダヤ人は異邦人またはクサン(クタ人)の労役に対
して賃金を支払う必要はない(訳注*クタ人、列王記下一七:三ここでは異邦人のこと)。

パパカンマ37b イスラェル人の牛がカナン人の牛を突き殺しても債う必要はない。カナン人の
牛がイスラエル人の牛を突き殺した場合は支払いは十分行われなければならない。

パバメジア24aもしユダヤ人が異邦人の落とし物を見つけた場合、返す必要はない
(パバカンマ23bでも確認)。

サンヒドリン76a神はユダヤ人が彼の娘を老人に嫁がせたり、幼児の息子に妻をめとったり、
異邦人の紛失物を返さなくてもとがめられない。

サンヒドリン57aユダヤ人が異邦人を殺しても死刑にはならない。ユダヤ人が異邦人のものを盗んでも返さなくても良い。

パバカンマ37b異邦人は律法の保護の外にある、そして神は彼等の金を〃イスラエルにさら
される。

〃パパカンマ113aユダヤ人は異邦人を罠にはめるために虚をついても良い。

イエパモス98a異邦人の子供は動物である。

アボダーザラ136b異邦人の娘は生まれつき卑猥である。

アボダーザラ22a−b異邦人は雌牛と交尾することを好む。

アポダーザラ‐67b異邦人の食器は彼等の料理に一層ひどい匂いをつけないだろうか。

サンヒドリン106aイェスの母は売春婦だったという。〃彼女は大工と売春婦遊びをした総督の王女の子である〃。

またシャパット104bの脚注#2には〃確認できない〃タルムードのテキストにはイエスの母マリ
ヤは美容師で多くの男と交わったと書かれているとある。

サンヒドリン106にはイエスが若くして死んだことを満足げに書いている。
〃バラム(イエス)は何歳だったとお聞きか。彼は答えた、はっきりはいたしませぬが書き記された所によれば、この血みどろの詐欺男は彼の従者たちの半分も生きなかった三三歳か三四歳だったそうじや。〃

サンヒドリン43aイエス(イエシュアまた脚注58にはナザレ人イエシュア)は魔術を行ったので
処刑されたと言われる。

ギソテン57aイェスは(脚注四)熱い大便の中でゆでられている。

サンヒドリン43aイェスは死刑を執行された。〃過ぎ越しの祭りの前夜、イェシュアは木に掛け
られた。彼は自分を防衛することができたはずではないか。たぷらかす事が出
き来なかったのだろうか

ロシュハシャナ17a タルムードを拒否するクリスチャンと他のものは地獄に行き、永劫に懲
らしめられる(ミニムについては脚注#11参照)。

サンヒドリン90a新約聖書を読むものは(脚注#九に正典ではない書物とある)
来るべき世において立場はない。

シャバット116a ユダヤ人はクリスチャンの本(新約聖書、脚注#6)を撲滅しなければならない。
(イスラェル・シャハクによれば一九八○年三月二三日パレスチナでシオニストたちが何百冊という新約聖書を焼いた。「ユダヤの歴史と宗教」P21)。

ギッテン69a 肉体をいやすためにユダヤ人は家の外の便所の陰のごみを取り、蜂蜜に混ぜあわせて
食べなければならない(訳注*これは具邦人に対してではないかと思われるが、要するに自虐的
になっていると言う事なのかもしれない)

シャバット41a 律法は小便をいかに聖なる方法でするかについての規定を与えている。

イエバモス63aアダムはエデンの園のすぺての動物たちと性交を行ったという

イエパモス63a農業は最低の職業である。

ザニヒドリン55bュダヤ人は三歳(特に三歳と一日)の女子と結婚できる。

サンヒドリン54bュダヤ人は九歳にならない子供とでも性交することができる。

ケスボス11b成長した男が幼女と性交しても、別にどうということもない。

イエパモス59b獣姦をした女でもユダヤ教の祭司と結婚する資格がある。悪霊と性交した女でもユダヤ教の祭司と結婚できる。

アボダアゼラア17b世界にラビ・エリエゼルと性交をしなかった売春婦はいない

ハギガー27a地獄に行ったラビは一人もいない。

パパメツイア59bあるラビは神と討論し彼を打ち負かした。神はラピに負けたことを認めた。

ギッテン70a戸外の便所から帰ってきたときは、半マイル歩くだけの時間、性交をしてはならない。もしそうするなら便所の悪霊が一緒にいて、彼の子供はてんかんになる。

タルムードは全巻を通して便所と大便の脅追観念にとりつかれている。それはスビルパークの
「シンドラーのリスト」にも表れているようにハリウッドの監督はユダヤ人の子供が便所で便器を飛び越して肥だめの中に落ちたさまを描いている。一人のユダヤ人の子供が半分肥えだめに埋まっている二人のユダヤ人の子供に出会う、彼らは通報者の事を聞い
ので、とりあえずそこに隠れていたのである。

前の子供もそこに隠れないわけには行かなかった。これらのいやらしい不健全な類いの心理的なイメージはホロコーストの映画やその類似のこと、さらにはタルムードの中にすら表れる〃礼拝〃としてユダヤ人の子供が常にさらされているものである(訳注*そうかもしれないが、実際にユダヤ人にはそういう歴史があったのだろうから同情も感じる。ユダヤ人の脅追観念の全てを否定することは出来ないと私は思う)。

ギッテン69b(p239)肋膜炎を癒すために、ユダヤ人は白い大の糞をパルサム油とこねて食ぺなければならない、しかし、もし手足を緩める事ができるなら犬の糞を食ベてはならない(訳注*意味が良く分からないのだがこうとしか訳せない)。

ベサヒム111a犬と女と椰子の木が二人の男の間を通り抜けることは許されない。また、犬と女と椰子の木の間を通り抜ける事もあってはならない。女が生理のときと十字路に座っているときは特別に危険である(訳注*恐らく真面目な読者は犬と女と椰子の木の関連性が分からないかもしれない。これは単に女性を馬鹿にした表現である)。

メナホス43b~44aあるユダヤ人の男は毎日こう祈ったと非難されている、「神よ私を異邦人や女や奴隷にお作りにならなかったことを感謝します」
 
 

シャパス86aーbュダヤ人は聖いから昼間は部屋を暗くする事ができなければ性交をしない。
ユダヤ人の学者は昼間でも彼の外套をテントのようにして暗くする事ができれば性交をする事
ができる。

タルムードには二つのホロコーストに関する昔話がある。
ギッテン57bはベサーの町でローマ人によって四○○万人のユダヤ人が殺されたと主張している。また、ギッテン58bは一六○○万人のユダヤ人の子供がローマ人によって巻き物に巻かれて生きながらに焼き殺されたと主張している。古代の人口統計によれば、その時代、世界中に一六○○万人のユダヤ人の子供どころか四○○万人のユダヤ人も居なかった。

アポダーザラー70aラビに質間が寄せられた「バンペディサの町で用いようとしていたワイン
の一部が盗まれたか汚された場合、泥棒が異邦人だとしたらどうすれば良いか」(異邦人がワインに触れた場合それは汚れるから)「別に気にすることはない」とラビは答えた「そのワインはユダヤ人が用いても構わない。そのワインがバンペディサの町で盗まれたのだとしたら、
バンペディサの町の盗人はほとんどユダヤ人だから、それを盗んだのはユダヤ人だ」(訳注*
これなどは単なるューモアに過ぎないと思う)

エルビン21bある人にラピ・アキバが言った。「手を洗う水をくれないか」相手は
「飲むにも足りないのです、あなたの手を洗うためには十分ではありません」とつぶやいた。ラビ・アキバは言った。「ラビの言葉を無視することは死に値する。私は自分の同僚の意見に逆らうくらいなら自殺するほうがましだ」(これはイエス・キリストがマタイー五:一九で非難した儀式としての手洗いの事である)

カラー51aは神が嘘つきのラビを認めると教えている。ある時、長老が町の門に座っていると
二人の若者が通りかかった。一人は頭にかぶり物をしていたがもう一人はしていなかった。
ラビ・エリエゼルはかぶり物をしていない若者を評して「彼は私生児だ」といった。ラビ・
ジョシュアは「彼はニダーの子だ」と言った。(ニダーとは生理中に妊娠した子のこと)ラビ・アキバは「彼は私生児でニダーの子だ」と言った。彼らは「あなたはなぜ同僚の意見を否定しようとするのか」と聞いた。彼は「私は彼の事について証明しよう」と言い、その若者の母親の所に行った。

彼女は市場で豆を売っていた。彼は彼女に言った「娘よ私の質間に答えるならあなたを来る
ぺき世(永遠の命)に連れていこう」彼女はラビ・アキバに「どうぞ言って下さい」と言うので、彼は一年に一回のくちびるの誓いをして「あなたの息子について話しなさい」と言った。彼女は答えた。「私が初夜の寝室に入ったとき、私は生理中でした。それで私
の夫は私を近付けなかったのです。しかし、私の愛人が抱いてくれたので彼の子を生みました」結局、その若者は私生児でニダーの子だった。かくして「ラビ・アキバに秘密を明かされたイスラエルの神に栄光あれ・…・と宣言された。この話につけ加えると、神がほめたという先の討論の嘘つきたちの言っているのは、イエス・キリスト(かぶり物をしていなかった若者)の事である。この若者の母とはもちろんイエスの母、神の祝福されたマリヤの事である(タルムードではミリアム、または髪結いのミリアムと言われている)。

ソフェリム15  Rule10(Minortractes)これはラビ・シモン・ベン・ョハイの言葉である。〃トブシェバゴイムハーログ〃「最善の異邦人でも殺さなければならない」この言葉はソンシノ版には出てこないが、一九○七年版のユダヤ百科事典に引用されているバビロニアンタルムードのヘブル語原典にある(上記のユダヤ百科事典はファンクアンドワグナルズとイシドール・シンガーによって編集された〃異邦人〃の項目にある。P六一七)。このタルムード原典の言葉は翻訳では隠されている。ユダヤ百科事典は(多くの翻訳の記事が変えられているとして)
〃エジプト人の間の最善のもの〃も一般的には取り替えられているとある。ソンシノ版では
ここは〃異邦人の間の最善 のものも〃となっている。

イスラエルでは年毎にシモン・ペン・ョハイの墓に詣でる国家的な行事が行われ、非ユダヤ人の絶滅を主唱したこのラビを称える(Jewish Press June9、l989、P56b)。一九九四年四月二五日プリムの祭り*の日にブルックリン在住のイスラエルの陸軍軍人でオーソドックスカザールのバルーシュ・ゴールドスタインは子供を含む四○人のパレスチナ市民を殺害した。

彼らはモスクでひざまずいて礼拝していたのである。ゴールドスタインは晩年のラビ・カハネの弟子だった。カハネ:タルムードの解釈ではアラブ人は〃犬〃である(Cf. CBS六○分番組カハネより)(訳注*プリムの祭り:旧約聖書エステル記から、王妃エステルがユダヤ人を皆殺しにしようとしたペルシャ
の大臣ハマンの策略を破り、逆にユダヤの敵を殺した記念の祭りのこと)。

エルサレム大学の教授ユフド・スプリンザックはカハナとゴールドスタインの哲学について
「彼らはゴイム(ヘブル語の言棄で非ユダヤ人のことだが)に対して暴行を加えることは神
の意志だと信じているのだ」と述ぺた(NY Daily News、Feb。28、l994、P6)。
 ラピ・イッハク・ギンスバーグは言った。「我々はユダヤ人の血はゴイ(異邦人)の血と同じものでは無いと言う事を認識しなければならない」(NY Times、June 6、1989、P‐5)また、ラビ・ヤアコブ・ペリンは「一○○万人のアラブ人は1人のユダヤ人の指の爪にも当たらない」と言っている(NY Daily NewS、Feb 28、1994、P6)。

現代の法王たちやプロテスタントの牧師たちで、かつて一人もユダヤ教のラビたちに、タルムードを拒否し非難することを要求したものはいない。それどころか、教会の指導者たちはキリストに従う者たちを激励する代わりに、タルムードに従う者たちをほめたたえ支持したのである。それゆえカトリックとプロテスタントの指導者たちは今日、地上で最悪のイエス・キリストへの裏切り者たちである』

たとえこれがそのほんの一部分だったにしても、この便所の落書きみたいなものが、一つの宗教の経典なのである。一体そういう宗教とはどんな宗教なのだろうか。それは宗教と呼ぶぺきものなのだろうか。また、このタルムードを「人類の叡智」などと褒めたたえた〃宗教者〃は何を考えて居 るのだろうか。

もし私がユダヤ人でキリストを信じたら、真っ先にこのタルムードを恥じて、謝罪を表明する
だろう。さらに、このタルムードを信奉するマービン・トケイヤーのような人物と親交を結んだと嬉嬉として報告する馬鹿者もいる。私の言っていることに何か間違いがあるだろうか?そう思うならもう一度読み直してほしい。私はこの文書の最後の言葉をそのままメサニック・ジューとたわむれるクリスチャンたちに投げ掛けたい。あなたは裏切り者ではないのか!ユダではないのか!

私はこの本を書くことによっていよいよ人種差別主義者とよばれ、すぺてが危うくなるだろう。もし私が欧米に住んでいたら、ただちに監獄行きとなるだろう。幸いに日本にはまだ人種差別法がないだけの話である。しかし、いつの時代でも本当のことを言うのは命懸けなのだろう。私は私のようなものの命が真実を明らかにするなら、いつ取り去られてもいとわない。私は当初、この後にマルチン・ルターの「ユダヤ人と彼らの嘘」というバンフレットを出来るだけ詳しく載せるつもりだった。彼はユダヤ人をあますところなく論述している。ルターはさすがに天才である。その舌鋒は鋭く、理論的であり、彼以外にはこの様なもの
を書く事はできなかったに違いない。

いや、もう一人居た。おなし宗教改革の勇、カルビンもあまりの非道、不遜にあきれ果てユダヤ人の指導者を焚刑にしたが、やはりユダヤ人を知っていたのであろう。しかし、私はこの書を載せないことにした。それがあまりにも長いこともあるが、あまりにも優れているからである。それはあまりにも事実をえぐり出しているからである。あまりにもヘビーなのだ。まるでへどろの山を移し変えるような作業なのだ。最初この書を読んだときも、その後も、読むたびにいつも私は暗い陰欝な気分にさせられる。

どんなにルターが正しくても、これほどひどい話は愉快なものではない。出来れば知らないで過ごせればそれに越したことはないのかも知れないがそれは卑怯者の結論だろう。私は、読者がこの書を自分で購入して読まれることをお勧めする。そうすれば私の気持ちが分かって頂けるであろう(歴史修正研究所出版部新潟市大島二六の四、一部一八一○円送料別)。さて、いまわしい結論だが、今、我々に何が出来るというのか。この世は完全に彼らに握られてしまった。この日本でさえ、ユダヤに関する批判はもはや大ぴらには出来ない。この国の支配者はだれなのか。

今、我々
は自民党や小渕恵三氏の悪口なら何の妨げもなく 言う事ができる。しかし、ユダヤに関しては
〃良いことも悪いことも〃言えないのである。昔から本当の支配者の悪口は言えないものだ。
だから、もう一度言うがこの国の支配者はだれなのか。私は結局、これは神にしかできない事
なのだと思う。ユダヤ人を裁くことは人間には出来ないのだろう。彼らがどんなに悪辣で、残
虐であったとしても、もはや人には彼らを裁く力は無い。これはこの章の目的とは反対の方向
の結論となってしまったが、事実は事実、認めなければなるまい。

今、我々に出来る最善のことは、物事の本質を見誤らない事である。ユダヤ人のやることの何がしくて何が間違っているのか。世界がいかなる原則で動かされているのか。そうでないと我々自身が発狂しかねない。ユダヤをそのまま受け入れる者は、確かにその目が濁り、気が転倒しているのだ。今や歴史は逆転した。これからはクリスチャンがユダヤ教に転ぶだろう。おそらく、二○○○年からマラノはクリスチャンの呼び名となるだろう。
 
 
 

ユダヤ人は神の選民では断じてない

危険が無いときに、警報を鳴らすのは馬鹿げている。しかし、今や切迫した危険が世界のキリスト教の働きと世界それ自身に迫っている。それはイスラエル(とその姻戚関係者と主張する者)の役割への途方もない誤解が、恵みの時代(または教会時代、新約聖書の時代)と呼ばれる現在、存在しているからである。旧約聖書の選民と、現在のイスラエルとは同一のものではない。そんな事は分かり切ったことなのだ。ところが我々はあらゆる方角から鳴り物入りの宣伝を聞いている。

しかし、それは真実ではないのである。現在のイスラエルはどんな意味においても神の選民ではないし、これからも決してそうなることはないだろう。この考え方の方法として、五つの人々のグループを特定し定義してみよう。
1 旧約聖書のユダヤ人。
2 旧約聖書のイスラエル人。
3 旧約聖書の選民、信仰者、忠実な者、レムナント(残りの者)。
4 現在のイスラエル国民とその親戚関係者と主張するもの。
5 主イエス・キリストの新約聖書の教会。

間題はこの「特別侍遇」が現在のユダヤ人とイスラエルに関してであり、特にクリスチャンのエプァンジェリストあるいはファンダメンタリストがこのような特別侍遇を行っていることは正しくないのだ。聖書の解釈の特別侍遇、実際の生活での特別侍遇において。この特別侍遇はシオニストの指導者がイスラエルからテレビジョンで「アメリカのファンダメンタリストは我々の最高の友人である」と言わしめるところにまで到達している。間題を最初のポイントにまで戻してみよう。救われていないユダヤ人、あるいは不信仰のイスラエル国民は神から、キリストの救い以外の、特別な恵みを受けているのか。

これは使徒パウロの主張とは一致しない。パウロがローマ書九章三節で「実際、私の兄弟、肉による同族のためなら、私のこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」と言ったのは、単純かつ明白にまだ救われていない同砲は神の目からは「アナテマ」失われ希望のない異邦人と同じだと言っているのである。(訳者注*これはキリスト者から見て非常に重要なポイントである。クリスチャンから見 て至極当たり前の事、信仰の基本なのだが、この当たり前の事が現在なぜかぽやかされて居るのである)

世界中の何千人という聖書の教師と説教者は、我々がまだ救われていないユダヤ人とイスラエルは神の特別な好意と我々の特別な注目を受けるに値すると教えている。彼らの内の幾人かはその会衆を連れて聖地への巡礼の旅に出てイスラエルの政治的指導者に会わせる、そしていかに神がイスラエルを祝福しておられるか話す。そしてその指導者たちは幾分かはクリスチャン……あるいは、少なくともキリストの信仰にごく近いと言うのである。

そして彼らの内の幾人かは国会議事堂かホワイトハウスに行き、アメリカはイスラエルに良くしてやり彼女が求めるものはなんでも与えよと言うのである。私は神がご自身の聖職者たちに、インディアンや囚人や兵士や女性兵士や都市の黒人や子供や中国人や……ユダヤ人などの特別な失われた人々に重荷を与えることは理解できる。しかし、正直に言って、最も重要な宣教活動はユダヤ人に対す
るものであり、今日のユダヤ人とイスラエルは神の選民なのだから、ユダヤ人に向けて福音を説教するのは福音の働き人の中でエリートであるというという考えにあなたは同意できないのではないだろうか。

選民。この言葉が今日用いられるとき、聖書の第一級の曲解を構成している。アブラハ
ムからキリストまで旧約聖書の選民は断じて神に対抗し反逆する人々の事ではなかった。神は神に反抗する民にその特別な好意(恵み)を表すために〃えこひいき〃しなかった。しかし、神の霊はペテロに教え、ペテロは声高に宜言した。「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行うものはどの国民でも受け入れて下さることが、ほんとうによくわかってきました」(使徒行伝一○:三四)ペテロはここで救われていないユダヤ人たちは救われていない異邦人よりは良いと考えたのである。

しかし、今日なぜか救われていない一人のユダヤ人は救われていない一人の異邦人よりも優れており、救われた(または完成された)一人のユダヤ人は救われた一人の異邦人よりも優れていると我々に信じさせようとする説教者や教師たちが居るのである。完成された?何から何に?この恵みの時代、そして全ての時代に、神の目には紋われたユダヤ人が救われた異邦人よりも完成されることなど有り得ない。私は今日教えられている選民という観念をこの中から見つけ出すことばできない。(訳注*多くの読者には何のことか分からないだろうが、聖書に立つクリスチャンなら、この人のこの意見は全く正しいということに同意するだろう。しかしまた、奇妙なことにこの人の指摘している間違いも確かに存在している)
 

一体全体どうして、我々がアブラハムの子孫を祝福しなければならないと、騒ぎ続けるのだろ
うか。我々クリスチャンはだれかを呪うものだと思われているのではないだろうか。私の全生涯で本当のクリスチャンがユダヤ人を呪ったことなど思い出すこともできない。我々は親切で、愛し、全ての失われたものに哀れみ深い者ではないのだろうか。どうして神が「そこには区別がない」と言っておられるのに、我々がクリスチャンの愛を、一つのグループにだけ他のグループよりも示すことができるだろうか。

もし我々が、議会に対してイスラエルにアメリカ人の税金を与え、武装させるように圧力を掛けなければ、我々はユダヤ人とイスラエルを呪っているという罪を負っていると言うことになるのだろうか。もし我々が反キリスト教、反宣教活動の法律施行を強行しようとする今日のイスラエルヘアメリカの援助を与えないでおくぺきだと言う意見を言えば、我々はユダヤ人とイスラエルを呪っている罪を負っていると言うことになるのだろうか。

我々は個人であれ民族であれ国家であれ意識的に活発に全能の神に反逆し、その御子であられる我らの主でイエス・キリストの花嫁を世界から呼び集めると言うご計画を妨害する事を求め続ける者に神の祝福を宣言すべきなのだろうか。もちろん我々は神を呪うような輩を決して祝福すぺきではない。
 

アブラハムはユダヤ人でもなくイスラエル人でもなかった。彼は〃信仰の人〃であった。彼は神のパートナーであった。アブラハムの子孫……(真実の)ユダヤ人やイスラエル人のように……彼の信仰と従順の模範に従う者は、この呪われた世界の祝福と恵みの水路となるだろう。しかし、神に刃向かい反逆する者は神の祝福をこの呪われた世界から切り推そうとする者である。前者は確かに神の〃選民〃である。しかし、後者は到底神の選民とはなり得ない(ヘブル人への手紙二章の神の選民の項を読まれたい)。アブラハムの子孫への祝福の疑問への完全な解答は、ガラテヤ書三章六〜九節に見いだされる。このように、「アブラハムは神を信じた。それによって彼は義と認められた」のである。

だから信仰による者こそアブラハムの子であることを知るぺきである。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに「あなたによって、すぺての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。このように信仰によるものは、信仰の人アプラハムと共に祝福を受けるのである」(強調原著者)この御言葉が意味するところは、旧約聖書のイスラエルであれユダであれ、その全体でも部分でも、単独にまた何の条件も付けずに神の恵み(特別な愛顧)の対象と導入部とし て、神の選民であると考えられたことはたえてなかったと言う事である。

ただ、信仰によるアブラハムの子孫だけがすべての時代の神の選民であった。聖霊が聖書の著者、パウロを通して世界に語りたい事があったとすれば、それは次の事である。ローマ書三章一三節「そこにはなんらの差別もない」そして再び同一○章一二節には「ユダヤ人とギリシャ人との差別はない」とある。さらにガラテヤ書三章二八節には「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく……あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」とある。バウロが最も力強く語りたかった主題は、信仰による恵みの救いはユダヤ人がこの世に現れる遥か昔からあったと言う事なのである。ペテロでさえ、多くのエブァンジェリストやファンダメンタリストが今日抱えている問題を、告白せざるを得なかった。

「そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜ったと同様に
彼らにも賜って、彼らに対してあかしをなし、またその信仰によって、彼らの心をきよめ、われわれと彼らの間に、何の分けへだてもなさらなかった」(使徒行伝五:八、九)イザヤは神の祝福の受取人として〃全ての人々〃に対して預言した(イザヤ五六一七、八)。
 
 

アモスは神の恵みを経験するであろう〃レムナント〃を預言した(アモス五:二五)。彼はこのレムナントにあらゆる民族の異邦人、神を否定するエドム人さえ含んだ(アモス九:二〜一二)。アモスは不信仰で反抗的なユダヤ人、イスラエル人、そして〃ヨセフの家〃には希望を与えなかった。イザヤでもアモスでも(もし注意深く学ぶなら、他の予言者たちも)神に対して霊的に忠実な人々を選民、すなわちすべての国民から購い出されたレムナントと定義している。我らの主イエス・キリストはまずイスラエルの家の失われた羊に行くと言われた、しかし、他の羊たちも居るとも言われたので
ある(マルコ七:二〜七、ヨハネー○:二六)。イエスは彼を信じたすぺての民族のすべての人々はアブラハムと共に彼の王国に座るだろうと言われた。

しかし、本来ならその様な特権を持っていたユダヤ人やイスラエル人は外に投げ捨てられるだろうと言われたのである(マタイ八章)。それからイエスは旧約聖書の預言者の伝統に従って、全ての民族の信仰によるレムナントで彼の教会を構成するとはっきりと教え、述ぺ伝えた。あの大いなるペンテコステの日に使徒たちはあらゆる国々から来た人々(彼らは実は〃ユダヤの人々〃であり〃イスラエ
ルの人々〃であったが)に向かって(彼らの故郷の言
葉で)語った。そして、ペテロはヨエルの預言が成就したのだと彼らに語った。

主は預言者ヨエルを通して、彼が〃わたしの霊を全ての肉なるものに注ぐ〃そして解放(救い)がエルサレムとシオンの丘の残りのもの(レムナント)に来ると語っている。
ヨエルの預言のこの適用であるペンテコストの出来事によって、聖霊は一度そして全ての者に「世界中の民族の中から忠実なレムナントを呼び出してイェス・キリストの教会を建て上げることは、われわれの最後のステップである」と言っているように見える。そうだ、現代のイスラェルを含む地上のあらゆる民族のレムナントはキリストの体なる教会を形作るだろう。もっとも、確かに預言的な聖書の書ではユダヤ民族とイスラエル民族のレムナントは顕著に現われている。

イザヤー○:
二三、ローマ九:二〜七、残りのものは救われるだろう。
ローマニ:五、救いの選びに強調を置いたレムナント、そして全てのイスラユルが救われる。神の世界の民族の救済の天的な計画の中に(使徒行伝一七:二〜六)神が、レムナントを呼び出すための方法として、不信仰のユダも現代の不信仰なイスラエル国家を設立する事を許されていた。

そのレムナントが救い出された時、地上の全ての民族からレムナントが一緒に神の選びの民を構成するだろう。それと同じく、地上の不信仰の民が裁かれるとき、イスラエルの不信仰者も一緒に裁かれるだろう。私はこの点を何度も繰り返して言いたいのだが、現代のイスラエルを神の選民と全く同一とすることは出来ないのである。ほとんどの聖書を信じる者たちは一九四八年のイスラエル
建国を、我々が時代の終末に近付いているしるしであり、神がユダヤ人とイスラエルを祝福しているだろうと認める(しかし、患難期前携挙説を矛盾なく適用する人は教会の携挙に先立つどんなしるしも杏定する)。

確かにこの出来事は時のしるしではあるけれども、それが神の祝福の証拠とはならない。民族は神の摂理と計画の中に起こりまた没落する。旧約聖書の中で、神はしばしば不信仰の民族と指導者を用いて、神の民をして彼らが学ぶぺき教育を受けさせる。この恵みの時代に神はアメリカ合衆国のように不完全な国家を用いて世界に彼の目的を完遂させる。この終末の時代に、イスラエル国家の設立は、神の祝福のしるしと言うよりも、むしろ闇と不吉のしるしと解釈されるべきであろう。

他にもこれらの観点からの霊的な出来事が、さらにもっと多くあるのである。神の選民と現代のイスラエルを論じるのには、黙示録七章の一四万四○○○人を考慮しなくては完成しない。あるおか
しな間違いが造られ一般化された。それは、大患難時代(訳注*キリストの再臨の前に七年間の大きな患難時代というものがあると言うもの)の前半に一四万四○○○人のユダヤ人が救われ、世界を回ってすべての創造された者に福音を伝えるというものである。これは恐らくマタイニ四:二四のキリストの預言の成就と考えられたのであろう。そしてそれは一九○○年間に渡る教会の福音伝道が失敗したと申し立てているのである。

この聖書の解釈を抱きしめる信者はだれでも、彼が出会ったユダヤ人がもしかすると自分たちが携挙(訳注*キリストの再臨によって生きながらに天に移されるというもの)された後、ただちに救われてこの偉大な事業を果たす一四万四○○○人の一人となるかもしれないという畏怖の念を持つことになるのではあるまいか。このような特別な神の恵みの対象となった未来を持つ人々には、たとえ彼等が今は、聖からざる事を追及していたとしても、特別な取扱をしなければならないとか確信する事に なるのは簡単な事であろう。

この神学には二つの主要な難点がある(強調著者)。第一は聖書にはこれらの一四万四○○○人が福音を伝えるだろうという言葉は一つもない。ただ〃印される〃または救われるとある、それだけである。彼らは確かに彼らの能うかぎりキリストの証人となるであろう。しかし、反キリストが厳しい支配をしている世界を回ってキリストを伝えるなどということが有り得ようか。断じて有り得ない。第二に一四万四○○○人に印を付けるのは大患難時代の最後のことであって、始めではない。ということは彼らの一人だって一○○年間もキリストの証人として放をすることなど不可能と言うものだ。

この出来事は黙示録の第六の封印が開かれ、地の大いなる人々が「さあ、われわれをおおって御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日がすでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」黙示録六章 と叫ぶ直後に起こることである。次いでヨハネに示されたものは御座の周りの長老たちであった。彼らの一人がヨハネに聞いた、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。またどこからきたのか。」黙示録七:二三。答えは、彼らは大きな難難を通ってきた人々であるということである。すなわち印されたユダヤ人である一四万四○○○人は速やかに殺害されるということが強く指 し示されている。

そして、神への反抗とキリストの聖徒たちへの迫害の恐ろしい時代の間に巨大なクリスチャン殉教者の大軍がキリストの臨在の前にやってくる。これらの一四万四○○○人はローマ書九:二〜七のレムナントに非常に似ている。二:二六に「全てのイスラエルは救われるだろう」とある所である。親愛
なる読者の皆さん、あなたは地上の全ての民族から呼び出された神の選民の一人だろうか、レムナントの一人だろうか。あなたは救われているだろうか。神の子、主イェス・キリストを信じる信仰によってあなたも神の子とされているだろうか。イエスは今日あなたを招いておられる。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて私をつかわされたかたを信じるものは、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。」ヨハネ五:二〜四この恵みの時代に、レムナントを呼び出し、キリストの花嫁を選ぶのは王である神の仕事なのである』

この文章の中に出てくるレムナントと言う言葉は日本人には余り馴染みのない言葉である。それで少し説明を加えよう。レムナントと言う単語は日本語の聖書には出て来ない。というのはレムナントと言う特 別な固有名詞があるわけではなく、単に「残りの者」とか「後の者」、「余った」「残余」「逃れた」という意味の言葉だからである。しかし、欧米では、このレムナントは特別なあこがれを持って使われている。それは、いつの頃からか「神から特別に愛されたグループ」という意味に用いられるようになったからである。中でもユダヤ人の仲にそういう特別なグループがいると考えられるようになった。

その典型的な例が黙示録7章の14万4000人である。しかし、この14万4000人とレムナントという言葉は同一ではない。さらに聖書はこのレムナントと言う言葉を特別な祝福のクループと言う意味には使っていない。だから、これは言わばキリスト教の迷信のようなものなのだが、ただ神に特別に愛される物になりたいという思いは悪いものではなく、教会の会衆を励ますために使われるように思う。尚、英語のレムナントにあたるヘブル語の一つはアチャレである、アーチャリーは恐らくこの言葉の派生語であろう。さらに我々は現代のイスラエルとアメリカの関係を憂慮する正真のキリスト者の警告を見ることにしよう。
 

今やアメリカの国教はユダヤ教

もう遅いかもしれない。すでに無神論者、ユダヤ教徒、ヒューマニスト、革命家、マルキストたちがアメリカのキリスト教の伝統を舞台裏に押し込んでしまった。クリスチャンたちは大きな忍耐と理解をこれらのむさぽり食う奴等に示してきた。そしてJudeo
・Christian(ユダヤ・キリスト教)という言葉も彼らが言うままにしてきた。しかし、悪が善を
圧倒し、誤謬が真理を庄倒するような勝利は、一時的であり、決して真理と正義のための完全で妥協しない攻撃を神の民が捨てる理由にはならない。私たちはアメリカがキリスト教の伝統の世界であり民族であった事を思い出し、我々の祖先たちが、キリストと彼の言葉のために戦った戦いを戦う必妻がある。アメリカ合衆国は神がアメリカ自身の民と、世界の人々の間にキリスト教の目標を成し遂げるために、信仰とヴィジョンとクリスチャンの犠牲を通して存在せしめた国である。
 

建国の父たちはクリスチャンであってユダヤ教徒ではない。アメリカを最初に探検し定住した人々のグループはクリスチャンであった。彼らは聖書を信じる人々であった。彼らは旧約聖書と新約聖書の両方を神の言葉と信じる人々であった。彼らが家を建て、コミュニティーを作り、町を州を、そして国家を作ったのは全て神の助けによったのであって、どこにもその一部分も、付加も、曲解も存在しなかった。彼らはイエス・キリストを王の王、主の主であり、この国をその方の誉れと栄光に捧げるぺきだと認めていた。彼らは決してキリストを否定し、拒絶する者たちではなかった。彼らこそこの国を信仰とヴィジョンと勇気で確立した者たちであった。

彼らはその血を注ぎ、命を与え、その
他、その信仰の天的な起源と純粋さを証明して、信じ難い犠牲をも捧げた者たちであった。他のもの、偽りの信仰、偽りの宗教、偽りのシステムは後から来たものたちだった。それゆえに、誰であれ上に述べたようなクリスチャンかその類いの者以外は、アメリカの伝統の創設に参画したと言う事はできない。なぜならアメリカの伝統はクリスチャンのものだからである。確かに、アメリカはそのクリスチャンの伝統からはるかに迷い出てしまったが、依然として、そのために、妥協も調停もなしに戦う事は価値あることである。

Judeo Christianとは調停と妥協によって押しつけられた熟語である。しかし、妥協は決してクリスチャンの勝利の鍵とはなり得ない。例えば、税金によって運営されている公立学校(それはもはや〃公立〃ではない)はヒューマニストによって乗っ取られ、非キリスト教化されてしまったけれども、われわれはこの国のキリスト教と聖書を信じるものに返せというわれわれの要求を一インチでも引き下げてはならない。これらの政府の学校が、創造論を教える事を許されてきたなら、進化論を教える事も許されるべきだというのは、この国の学校教育を確立してきた何千というクリスチャン教師のキリスト教信仰への裏切りと臆病な妥協なのである。

公立学校で創造論と進化論を並立して教える〃二つのモデルのアプローチ〃というものは、アメリカのキリスト教の伝統を単純に分かっていなかった人々の善意から作り出された奇怪で巨大な鬼っ子である(この手の人々は気まぐれで、霊的な戦いの前線は到底まかすことができない人々なのである)。アメリカのキリスト教の伝統、すなわち我らの創造者であり救い主である方の言葉は、3○○年間すべてのァメリカの学校のカリキュラムの際だった特徴であった。

私の考えでは、もし我々がアメリカのキリスト教の伝統を熱望するなら、もっともっとキリスト教の学校を作らなければならない(もちろん我々は公立学校を返せと要求しているのだが)。そして我々の子供や孫をそこに送るという犠牲を払わなければならない(訳注*公立学校でないと費用が多くかかるからだろう)。友よ、あなたはアメリカのキリスト教の伝統に関心が有るだろうか。それなら、キリスト教学校のために働いてほしい。それはとっかかりには良い場所である。アメリカのキリスト教の伝統を再建しようとするのは〃王である神のための仕事〃である」
 
 

「もう、遅いかも知れない」。この悲しい言葉は残念ながら真実である。この国のクリスチャンが目覚める前に、巨大な鉄の鎖がこの国を縛り付けてしまった。この国には、もはやキリスト教の反撃の余地は残されていない。それどころかデイル・クローリー氏が知っているか知らないのかは分からないが、この国にはクリスチャンを収容する数十か所の強制収容所、数千の運送用の専用貨車、そして信じ難いことに数千数万のギロチンがすでに用意されているというのである。……どうしてそうなってしまったのだろう。私はアメリ
カのクリスチャンを知っている。

それは善意と愛に満ちた人々である。もっと言えば、おひとよし、イノセントである。時に余りにも善意の押し売りと、全く直る当てのない、そして自分では決して気付かない白人優越意識はあるが(時には辟易する)、しかし、その本筋は日本人には決して理解できない優しさと善良さがあるのである。近年、我々のところに届けられるアメリカのイメージはハリウッドとニュースメディアが
作ったバイオレンスアメリカであるが、アメリカの根っこは相変わらず善良な人々である。私はそれを今でも実感することが多い。

しかし、それはアメリカのキリスト教の指導者がキリストの言葉を忘れているからである。キリストは弟子たちに「ヘびのように聡く、鳩のように素直であれ」と言われた。指導者たちはその会衆にこの言葉の前半を忘れて、後半だけを教えてきた。おかげでサタンは、クリスチャンの香りのブンプンするこの国で、勝手気まま、傍若無人に振る舞い、巨大な城塞を築く事ができたのである。間もなく我々はアメリカにフランス革命の再現を見ることになるだろう。フランス革命の主力だったジャコバン党はジェイコブすなわちユダヤ人の集団だったが、今度も、そしてもっと明白にユダヤ教がその理論的背景をなすことだろう。

懐かしくもギロチンがアメリカの町の至る所にうなりを上げ、何百万人のイノセントクリスチャンの首が転がることになるだろう。そんな馬鹿なといわれるだろうか。聖書の黙示録二○章四節にこのような言葉がある。「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスの証しをし神の言葉を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また獣をもその像をも拝まず、その刻印を額に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生き返って。キリストと共に千年の間、支配した」あるとき私は、なぜここは「殺された」ではないのか、なぜ「首を切られた」とわざわざ書いてあるのかと考えた事がある。

そして今、余りにも聖書が明白な予言であることに驚いている。さらに驚くべきことに、今、アメリカの法律にはこのタルムードの言葉を反映した法律が出来ている。「教育の日」というこの法律によれば、アメリカは「ノアの七つの法」の伝統によって成り立った国であるという。このタルムードにある「ノアの七つの法」に神に逆らうものは首を切れとあるのである。そしてタルムードによればクリスチャンは神に逆らう者なのである。さらに我々はもっと明白なユダヤ人のキリスト教攻撃に直面している。

これこそイスラ エル、ユダヤ人の本音の表れたものであった。以下に「スポットライト紙」に書かれたウオレン・ヒュー氏の文章を紹介しよう。

一九九七年九月
 

イスラエルでキリスト教の布教は即刑務所


聖地でのキリスト教の伝道活動を崩壊させる法律の提出が、合衆国の伝統的なイスラエル援助にピリオドを打たせるだろう。長年に渡る熱心なシオニズムとパレスチナの無慈悲な征服の援護活動にもかかわらず、伝道者パット・ロパートソンやジェリー・フォルウヱルらはイスラエルから、もし今このミニ国家で急いで法律として制定されようとしている議案が通過すれば、「犯罪分子」として締め出されることになるだろう。

強力な労働党とリクードを含む党派の連合によって支持されて、聖地においてキリスト教を教えたり広めたりすることは犯罪的な違反として、厳しい服役期問、または市民権の剥奪、国外追放命今などの処罰を受けるという議案が提出されている。この法案が九八年の終りに法律として制定されれば、プロテスタントとカトリックの聖職者、補助者、教育者は〃その旅程のうちに公に宗教的な働きをしたり儀式を行う事はで きず、まったくただ個人の資格で旅行者または短期の滞在者としてのみ〃イスラエルに入ることを許される。

この妨害の目的を強調するために、キリスト教の生まれたこの地で、キリストの福音を伝え、説教することを目的としていると見なされたキリスト教の宣教師や放送伝道者に入獄とその後の国外追放を含む過酷な罰則が提示されている。西欧のジャーナリストたちが〃驚くべきもの〃であり〃野蛮なもの〃だと言っているこの法律は九七年中東で行われたモーリス・セルーロによる福音の宣伝と
説教の宜教活動への反動であるという。セルーロは放送伝道者としてよく知られたペンテコスト派の説教者だが、九七年の秋にこの地域で福音ラリーを成功させ、一○○万枚のキリスト教宜伝パンフレットの洪水を浴びせかけたと、最近エルサレムからニューヨークに帰ってきたアイルランド系の特派員ダーモット・マコンナギーは言っている。マコンナギーによれば「それはかつてよりもっと強力になっているイスラエルのオーソドックスな方面を刺激し、クネセト(国会)にキリスト教を全く禁止するように働きかけさせた」そして「この法案の精神は、私が通ってきた一九七○年代のソビェト連邦の激しい時代を思い起こさせるものだ」と言う。

親イスラエル活動の最前線にいて
かつては熱心に支持していた聖織者は迷いを覚まされ
たことを隠さずに「この法案は私のようなシオニスト伝道者にとって極めて厳しいものだ」と言う。〃イスラエルのためのクリスチャン同盟〃の会長デイヴィッド・アレン・ルイスはさらに「それは『なぜ、君たちはキリスト教に反対するユダヤ人を援助できるのか』という反セミチズムのクリスチャンの議論を復活させるだろう」と言う。ファルウェルもロパートソンも彼らが最も愛する国から押しつけられたこのクリスチャン抑制の刑罰について公式には何も解答していない。ロバー
トソンはイスラエルのご機嫌を取るために南レバノンにあるクリスチャンラジオ局を経済支援し親シオニスト・プロバガンダに捧げたが、新しい法律によって差し迫った中東の放送ビジネスの閉鎖についての質間には答えようとしない。

ファルウヱルはイスラエルの中東における覇権のバルチザンだが、イスラエルの宗教的な反キリストへの転換点の激変については国外に出ているのでコメントできないと言っている。マコンナギーは「それは結構だ、せいぜい有効に時間を使うことだ、これは彼の最後のエルサレム訪間になるだろうから」と言う。そしてその帰り道にファルウェルはガザに寄るべきだとマコンナギーは付け加える。「彼が今できる最低限の事は、軍事的に占領され、圧追され、略奪されたバレスチナ・アラブの一般大衆に謝罪することだ。彼は長年 にわたってシオニズムの宣伝者として講壇から援護射をしてきたのだから」

わが国の国会議員のイスラエルサポーターとして献身してきた共和党のジェセ・ヘルムスや他の者は、彼らのいわゆるパイブルベルト(注*キリスト教信仰の厚い地域の意味)の選挙民に、聖地でクリスチャンを圧迫するために捜索するような民族を、なぜアメリカの納税者が年間何百万ドルも海外援助の補助金を与えなければならないかについて説明しなければならないという困難に直面している。へルムスの報道担当官に何らかのコメントを求めようとしているのだが一向に成功しない。スポットライト紙はヘルムスの事務所にこの論議への彼の見解を問い合わせているのだが解答はない。
とにかく、長年にわたりクリスチャン連合のスポークスマンを勤め、狂信的な論争と、反名誉毀損同盟(注*ADL、ュダヤ人の権利を最大限に守ろうとする団体、強力な力を持つ)や他の強力な親イスラエルブロックへのごますりに従事してきたラルフ・リードは彼の昔からの同盟者によってほうり込まれた居心地の悪い状況にもがき苦しんでいると伝えられている。

リバティー・ロビーズ・ボ
ード・オブ・ポリシーの議長バイス・ライアンによれば「過 去に、ファルウヱルやロバートソンや他の者たちは中東における我がアメリカの利益を優先する政策を取るべきだと言うリパティー・ロビーに批判的だった。しかし、多分クリスチャンシオニストヘのこの裏切りの法律は我々がこれまで言ってきた事に対して彼らに良い理解を与えるだろう」と言うことになる。
 
 
 

イスラエルは秘かに違憲な計画を実行中

これはイスラエルサポーターであり宗教円卓会議議長であるエド・マカテーアヘ彼の友人であるデイル・クローリー・ジュニアより送られた公開書簡である(スポットライト紙一九九七年九月一日号より転載)。イスラエルが世界の国々に投げ与える邪悪で非道で破壊的な行為は、かつてないほど深刻になっているのに、君の熱狂と賛同のポルテージはますます高くなっているのはなぜなのか。聖書の神の義は今やサタンの王国の不義に賛成しているのか?〃神の選民〃はその同砲に、信仰と正義と平和と光明を与えずに、不信と不正と不一致と暗黒を広めているではないか。君は「神の選民」とか「約束の地」とか「光栄あるイスラエル」という言葉を好んでいるが、これらの言葉は普通の知性ある人々なら『神の祝福が次のような事実の上にある』という意味に受け取るだろう。

*イスラエルはキリスト教伝道を制限している(イエス・キリストは今日イスラエルの路上では説教できない)。

*イスラエルは合衆国や南アフリカやロシアからのユダヤ人クリスチャンへ市民権を与える事を拒否している。

*イスラエルは国家としてユダヤ教を信奉しているがその聖典であるタルムードは祝福され、乙女マリヤは売春婦でありイエス・キリストは私生児であると教えている。

*イスラエルは学校で十のしるしを用いることを禁止している。それは我らの主イエス・・キリストの十字架を思い起こさせるからである。

*イスラエルのアパルトヘイト(人種差別政策)は南アフリカよりはるか
に悪い。

*イスラエルは過去四年問に一○○○名を越すバレスチナ人の少年少女を殺している。

*イスラエルは正式の告発も弁護士も裁判もなくパレスチナ人を逮捕し投獄している。

*イスラエルは正式の告発も弁護士も裁判もなくバレスチナ人を彼らの祖国から国外退去させてい
る。これらは世界の国民が持つ当然の権利への違反である(国際法によれば、政府は侵略し、占領
している国の人々を追放してはならない)。

*イスラエルはバレスチナ人の家、家具、その他の財産を没収し(一九四八年の難民
キャ ンプ)これらの家に住み、彼らの所有物を良心のとがめも恥ずかしさも感じないで使用している。
*イスラエルは不動産の権利書と所有権を改竄し、バレスチナ人の家族が何百何千年の間そこに住んできた土地を奪い取っている。

*イスラエルはバレスチナ人の家、仕事場、果樹園をブルドーザーで押しつぶし、他のパレスチナ人への見せしめとしている。

*イスラエルは憲法も宗教の自由や言論の自由を保証したわが国の第一修正条項に似たものも制定できない。

*イスラエルはサブラとシャチラの大虐殺を挑発し実行した。

*イスラエルは一九八三年二月二三日に二四一人の水兵が死んだベイルートの米国海軍宿舎に対するテロリストの攻撃の危険性を知っていたにもかかわらず、それを知らせなかった。

*イスラエルは一九六七年六月八日、国際水域にいた非武装の米国船リパティー号を沈め、三四人の水夫と水兵を殺し、一七一人を傷つけた。

*イスラエルはその唯一の恩人であるアメリカに対して癖績を起こし、あらゆる侮辱と軽蔑
を与えている。

特にアラブの地域に我々の金で違法なユダヤ人の施設を建設するなどはその最たるものである。エド、我々アメリカ人はわが国に於いてはこのような犯罪も非道も許しては居ない。しかし、わが国の政府や納税者ばかりでなく、クリスチャンさえもがイスラエルに関しては寛容であり大目に見るのである。これは一体どうしてなのだろうか。それは「神の選民』はどんな事でも責任や罰則なしでやっていいと言う事なのだろうか。エド、君は我々聖書を信じるクリスチャンがイスラエルと世界のユダヤ人に成し得る最も価値ある援助は、モーセやエリヤやエレミヤやイエスやヨハネやパウロのように大胆に彼らの罪を宜告し、彼らがイエス・キリストこそ彼らのメシヤだということを受け取ることを助けることだと言う事に同意できないだろうか。エド、君がなおその誤りに満ち、感傷的で、偏った『栄光あるイスラエル』プロクラムを続けるなら君は君の良心を腐らせ、イスラエルの苦悩と失敗を長引かせ、世界に福音を伝え、罪人は地獄に落ちると宣言するイエス・キリス
トの教会の使命を妨害する事になるだろう。エド、私は君ともっと話し合いたいものだ。
 

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