カソリック信者のための福音: by エレミヤ

 

―カソリックは異端教である。この教会の教えに従うものは永遠の命を失う。カソリック教徒は悔い改めて正しく福音を信ぜよ。

 

黙示録 2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

 

 

1.     <このサイトの説明>

 

このサイトはカソリックが聖書の教えからかけ離れた異端教であること、また

聖書に従っていない以上、この教えをおしいただく信者たちは

当然聖書のさし示す天の御国には入れないことを語るものである。

天の御国に入らない以上

当然、誰も彼も地獄、火の池に入るようになる。

 

聖書の示す死後の世界は永遠の命を得て、天の御国に入るが、そうでないものは、

地獄、火の池という2択である。それ以外の選択肢はない、以下に明記されている。

 

黙示録20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

 

煉獄などは、インチキ外典が語るインチキ教理である。

真面目に考慮、論議に値しない、まして信じて本気にしたら、目もあてられない、永遠の後悔をする詐欺同然の教えである。

 

2<異端教の意味合い>

 

カソリックが異端教であるとして異端教の問題とは何か?

異端教の問題、深刻な問題は簡単にいえば、一つ。すなわち、

この教えに従っていくなら、入れるはずの天国へ入れない、という問題である。

他の瑣末な問題、永遠の命にかかわらない問題はとりあえず、よしとせよ。

 

たとえば、エホバの証人の教えは紛れもない異端の教えである。

もし人がエホバの証人の教えを受け入れるなら、彼は天の御国に入ることはできない、否、絶対に無理である。

 

エホバの証人の教えは聖書が救いや福音に関して語っているもっとも大事なポイント、キーポイントを巧妙にことば巧みに抜き取り、骨抜きにし、奪い去る蛇の教えだからである。

 

聖書は「御子を信じるものは永遠の命を持つ」ヨハネ3:36 と語る。

しかし、この世の人も不信者も、イエスが歴史的に存在している人間であることは知り、認めるが、「彼が神であることも自分の救い主」であることをも信じないので、

永遠の命をもたない。同じくエホバの証人もイエスが聖書に登場することも彼が聖書で預言された存在であることをも信じるが、イエスは天使であり神でない、すなわち、聖書のいう意味合いでイエスを信じていないので、結果として永遠の命などもっていない。

 

さらに彼らは以下でいうパウロの福音を信じていないし、受け入れてもいない。

福音とは以下の3つを信じることである。1コリ15:2〜8

 

1 イエスが我々の罪のために死なれたこと

2 イエスが葬られたこと

3 3日目によみがえられたこと

 

彼ら、エホバの証人はキリストの復活を信じていない、キリストの霊が復活したが体は蘇らなかったという、巧妙というか奇妙奇天烈な教理でキリストの体の復活を否定し、結果、救いのための教理を骨抜きにしているのである。したがって、エホバの証人の教えを受け入れている人々は、

この世の未信者、不信者と変わらない不信仰な人々、福音を信じない、拒否するものと神にみなされ、当然彼らが入れると思った天の御国には入れない。

 

まったくエホバの証人の教えとは、聖書の教えとは似てもって非なるものであり、

人をだます詐欺商法のようなものである。

 

さて、それと同じく、カソリックの教えも同じく詐欺のようなインチキな教えであることを知るべきである。

 

以下いくつか列挙すると:

 

1) 偶像礼拝の戒めを聖書から省く:

 

聖書はその十戒の中で偶像を拝することを明確に禁じている。

しかし、カソリックはこの戒めを十戒から削り、実質九戒にしている。

彼らは教会の都合やら、法王の人間的な意見を優先して勝手に神のことばを

削除する異端教である。以下のことばはカソリックの聖書から削られている。

 

 

出エジプト20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 

 20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

 

 20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

 

2) 悪霊礼拝、マリヤ像礼拝を推進している:

 

偶像崇拝、それは、たとえそれが、マリヤの像をしていようと、キリストの形をしていようと、それが偶像であるなら、偶像崇拝でありそれは悪霊崇拝である。そして、悪霊崇拝は神の怒りを引き起こす。以下のことばのとおりである。

 

1コリ10:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

 

 10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

 

彼らはマリヤの形をした像を拝みながら、崇敬だなどと欺瞞でいいつくろい、実質は悪霊崇拝を行ない、結果神の怒りを引き起こしているのである。驚くべき欺瞞である。

 

3)聖書のことばを省く:

決して加えるな、省くなといわれている聖書のことばを省いたり、加えたり、

の罪を犯す:

 

神がこの世に、またクリスチャンに与えたたった一つの不動の規範、教えがあり、

それは神のことば、キリストのことばである聖書である。

これが唯一の規範であり、それ以外の人間からのことばは誤りがあり、

間違いがある。キリストご自身こういわれている。

 

 

マタイ 5:18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 

しかるに神をも恐れぬカソリックは聖書から勝手に十戒の一部を取り去ったり、はたまた

聖書にない教え、マリヤが共同のあがない主である、被昇天した、無原罪であるなどとの

教えを付け加えた。この罪は大きい。

 

4) 教会のかしらキリストを追い出している:

 

カソリックは教会のかしら、トップ、主人、リーダーであるキリストをないがしろにし、人間に過ぎない、よく間違える法王の誤りの指示に聞き従っている。

 

しかし、聖書はイエスキリストこそ、教会のかしらであることを語る。

以下のとおりである。 

 

エペソ1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

 

 1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 

この箇所で明確にキリストこそ教会のかしらであることが明記されている。

それは、現在でも同じである。今、現在もキリストこそ教会のかしらなのである。しかるに反逆的で神のことばを恐れるより、人を恐れ、気にするカソリック信徒は、人間に過ぎない、法王を教会の王に据え、王の名前(法王)を与え、教会のかしらとして、おしいただき、法王から来るあらゆる非聖書的な教えに聞き従っている。この法王を通して、悪霊の偶像マリヤ礼拝、煉獄の教え、進化論受け入れなどあらゆる欺瞞と不信仰が教会に取り入れられている。

 

5) 罪のあがない主をすりかえる:

 

あがない主は誰か?すなわちいったい誰がわれわれの罪をたすけ、あがない、支払ってくださるのかはその人が真に救われ、地獄のさばきに会わないためには非常に大事なポイントである。ある人はマホメットのいうアラーの神に救いを求め、また、ある人は、

釈迦に救いを求める。しかし、これらすべての人が聖書で言う天の御国に入るわけではない。

我々が聖書の神に救いを求め、聖書で言う罪のあがない(借金を払うこと)を求めるなら、聖書のいう方法を尊重すべきである。

 

聖書はイエスこそ、我々の罪のあがない主であることを語る。以下のように。

 

2ペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 

しかし、カソリックはマリヤを共同のあがない主であると教え、キリストのみが

唯一の罪のあがない主であることを実質否定している。

 

カソリックに惑わされてマリヤに罪の許し、あがないを願うものは、アラーや釈迦に救いを求めるものと同じ結果になる。聖書がいうあがないを受けず、罪の許しを受けず、結果地獄の火で自分の罪を自分で支払うことになる。聖書はマリヤがキリストとともなるあがない主であるとは語っていないからである。

 

 

さて、このようにカソリックとは絵に書いたような異端教である。もし、聖書が正しいのなら、カソリックの教えに従うものは誰も彼も間違いなく狭い永遠の命の道や、門を入ることなく、逆に広い滅びの門へ入る人々となる。

 

すなわち、聖書の書く、十戒の記述を勝手に削除し、聖書の教えに逆らって、教会のかしらであるキリストを追い出し、誤りのある人間法王に聞き従い、偶像礼拝は悪霊礼拝であると語る聖書のことばをないがしろにし、悪霊マリヤを礼拝し、また

唯一神があたえたあがない主キリストをないがしろにし、聖書にない教えである共同のあがない主マリヤを拝む人々がどうして聖書の言う天の御国に入れるだろうか?

否、入ったら奇跡である。

 

たとえていうなら、カソリックの信徒とは、先生や教科書に書かれていることをまったく守ろうとせず、しかしなおかつ試験で満点合格を目指そうとする愚かな受験生にたとえられるだろうか。教科書に2 x 3= 6と書かれているなら、それはそのまま素直に覚えて

そのとおりの答えを書かなければならない。

 

もちろん、自分の受験だから、2 x 3=15と書くことも16と書くことも自由だが、しかし、誤った答えでは合格は望めない。

 

カソリックはあらゆる聖書の教えに対して見事に間違った答えや屁理屈を述べる受験生のようなものである。勝手なことを信じ、勝手なことを論じるのは自由だが、聖書を書かれた神がおられるなら、これらの屁理屈を述べ立てても、その天の御国に入ることは難しい、否、否、否、難しいどころか不可能、絶対に不可能であることを知るべきである。

愚かで盲目で聖書も神の力も知らないカソリック信徒は決断すべきである。

今もこれからも誤りの多い、聖書を知らない盲人教師である法王に手を引かれてともに穴に、すなわち地獄の穴に落ち込むのか、それとも悔い改めて、正しく神のことばに立ち返るのか、ひとつを選び、選択すべきである。

 

かつての日、エリヤは言わなかっただろうか?

 

あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」1列18:21

 

このエリヤのことば、問いかけは他でもない、バアル(主)崇拝、法王崇拝に明け暮れる、

カソリックへのことばでもある。しかし、エリヤが決断を迫ったように、今も神はカソリック教徒に選択を迫っておられる。聖書の神、主を神とするのか、はたまた聖書とまったく異なることを語るバアル、法王に聞き従うのか、すべてのカソリック信徒は選択すべきなのである。

 

 

3        具体的なカソリックの問題点:

 

以下のページで、具体的にカソリックの異端的な教えを列挙する;

 

リンク

 

 

 

 

4 カソリック教会が用いる信者を救いから、キリストから遠ざけるためのいくつかの悪魔的策略

 

カソリックの問題点はその教えを信者がどれほど、一生懸命守っても決して天の御国に入ることのできない、インチキの教え、偽りの教えである。オレオレ詐欺は大切な虎の子の貯金をだましとるが、カソリックの偽りは永遠の命を奪う。そういう意味で、カソリックはエデンの園の蛇のように狡猾、巧妙、言葉巧みな嘘を教える教会である。

どこが間違っているのかというと、それこそ、正しい聖書のことばと比べて、間違いだらけなので、簡単に一言、二言で指摘できないところが難しい。聖人崇拝、ロザリオの祈り、

マリヤ崇拝、あれもこれもみな誤りなのである。しかし、そういっていても何も解決しないので、ひとつづつ、わかる限りまとめてみたいと思う。

 

<ことばは神である方の否定>

 

神のことば、具体的には聖書のことばは、神の前に非常に特別なものである。いな、聖書は神のことばをさして、ことばは神であるとさえ言っている。以下のとおりである。

 

ヨハネ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 

 

この箇所は日本語訳では「ことばは神であった。」として、

過去形が使われているが、原語の時制はアオリストであり、かならずしも過去形に訳す必要はない、「ことばは神である」と現在形にも訳せるものである。すなわち、この箇所では、ことばは神であると語られているのである。いかに神ご自身が自分の語られたことば、具体的には聖書の中に記された神のことばを尊重し、特別なものである、と語っているのかがわかる。

聖書は偶像は神であるとは語られていない、したがってマリヤ像であろうとキリスト像であろうと偶像を神とするのは間違いである。またイコンや、絵を神であるとは語られていない。したがって、イコンや、絵を神のようにみなすのは間違いである。

しかし、神のことばに関しては「ことばは神である」ことが語られている。それゆえ、

我々は神のことばである、聖書に関して、神に対するように、接し、遇し、信じ、尊重すべきなのである。残念ながら、この点でまずカソリックは間違えている。聖書より、教会や法王のことばに重きを置き、尊重しているからである。

 

<キリストは神のことば、聖書は一点一画も落ちず、変わらないことを語った>

 

この変転きわまりない不安定な時代において私たちクリスチャンは何を基準にこの世を歩めばよいのだろうか?日々変更がある日本の法律か?はたまた、よく外れるマリヤの予言か?

それとも時代とともにいうことの変わる法王のおことばか?

我々の救い主であるキリストは決して変わることのないもの、磐石な

土台として、神のことば、聖書のことばを指し示した。

以下のとおりである。

 

マタイ 5:18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 

マタイ 24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 

ルカ 16:17 しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。

 

キリストはこのように天地が滅ばない限り、聖書のことば、またキリスト自身のことばが滅びたり、無効になることは決してないことを語られた。

このようにキリストは神のことばである聖書を保証し、またご自分のことばを保証されたのである。であるので、もし、我々が本当にキリストの名前を冠せられたクリスチャンであり、キリストを神と信じて歩んでいるというなら、そのようにすなわち、主がいわれたとおりに聖書のことば、またキリストのことばを受け入れ、信じ、尊重すべきなのである。

 

しかるに現在のカソリックの行っていることは、間違いの多い教会や法王のことばを優先し、逆に神のことばを否定しないがしろにした歩みである。

聖書は明確に地獄の存在を語る

のに、法王がそういえば、地獄などないことになってしまう。また、不信仰なヨハネパウロ2世が、「進化論はあまりに科学的なので否定できない」などといえば、神のことば、聖書への信仰など投げ捨てて、聖書を非科学的な神話のように扱う、これは、この世の人となんら変わりのない不信者の歩みである。

 

上記参照箇所では、「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。として神のことば、律法が変わらないことと比較して天地について述べてある。聖書はたとえが多用されている書であるが、天地とは実は教会をさすたとえである。

 

アブラハムはすべてのイスラエル人の先祖であり、また新約のイスラエルである

クリスチャンの先祖であるが、かれに対して神は、あなたの子孫は天の星、地のちりのようになる、と語られた。それで、クリスチャンとは神の表現で、天の星、地のちりといえることがわかる。そして、天は星であるクリスチャンを収容するところとして教会のたとえ、また地はちりであるクリスチャンを収容するところとして教会のたとえであることもわかる。天地は教会をさす表現なのである。そして、そう考えるとなぜ、神のことばや、キリストのことばが一点一画も変わったり、滅びたり、変化しないことと比較して天地ということばが使用されているかがわかる。

 

それは、神のことばを変質させたり、変化させたり、無視したり、反対したり、

省いたりを行うのは実は天地、教会でこそ起きるからなのである。

そして教会と聖書のことばは一致しているようで、実は対立したり、反目することが多いのである。われわれクリスチャンは神の聖書のことばをとるのか、はたまた教会から出される文書やら、教皇のことばを取るのか、往々にして選択を迫られるからなのである。

 

たとえば、先ほどの地獄に関してもキリストは明確に、金持ちとラザロの話の中で、

その場所が存在することを語った。架空の場所だとは語っていない。また、

さらに具体的に地獄の裁きを恐れるべく以下のようにも語った。

 

マルコ9:43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。

 

 9:44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

 

 9:45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。

 

 9:46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

 

 9:47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。

 

 9:48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

 

キリストがこのように明確に地獄の存在について語り、なおかつキリストのことばが

決して滅びることがない、と語られたのなら、我々はそのキリストのことばを真実とするのが正しい態度である。たとえ、惑わされた教会や法王が違ったことをいってもそれを

うのみにして神のことばを投げ捨てるべきではない。

 

<聖伝も聖書と同じという間違い>

 

カソリックには数々の誤り、間違いがあるが、その中でも

聖書も聖伝も同じ位置に置く、という誤りの害は大きい。

聖書は神の霊感により書かれた世界でたった一冊の特別な本、

一方聖伝は、どれほど信仰がすぐれていたとしても所詮、人間の聖徒

が書いたものなので、当然間違いがある。

そしてカソリックは以下の様に巧妙な論法で聖書の権威や信憑性を引き下げている。

 

1 聖書も聖伝もともに尊い。すなわち、聖書も聖伝をも同じ位置に置く。

2 聖伝には間違いがある。人が書いたものだから。

3 聖書にも同じく間違いがある。

4 間違いがないのは、教会であり、教会の代表である法王のことば。

 

このような論理で法王や、教会のことばを聖書より高い位置、権威ある位置においている。しかし、これは先ほどのキリストのことば、天地が滅びても滅ぶことはないと語った神のことばへの冒涜である。

 

<カソリックとは外典を見分ける目もない盲人団体であり、偽造文書を用いて

法王を神格化するインチキ集団である>

 

聖書は以下の様に盲人に手引きされる盲人の悲劇を語る。

 

マタイ15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

 

カソリックは盲人団体であり、その教師たちも盲人を手引きする盲人である。

それゆえ、聖典とそれと似ても似つかない外典の区別もつかない。また、うそつき団体なので、法王の利益のために平気でインチキ文書を作成する。カソリックが偽造文書を作成する、これは、歴史的事実でウイキペデイアにも書かれていることなので、誰も反論できない。

 

そしてその非聖書的な外典や、インチキ文書をもとに法王や教会にとって都合のよい、

教理を勝手に作成している。

われわれが正しく神にある真理を求め、偽りから手を切るつもりがあるなら、

これらの神と無関係な外典や、勝手に作った偽造文書から作成された教理や教えと縁を切る必要がある。

 

 

<神はこの聖書が誤りのない神のことばであることを十分証明している>

 

キリストはこの神のことば聖書を特別な書、特別なことばとして語り、その

一点一画も滅びることのないことを約束した。そしてそれは単なる口約束ではなく、歴史を支配する神ご自身は神の聖書のすべてのことばが成就すべく見張り、またそのことばの実現のために力を注がれている。

 

具体的には聖書には現在の科学を上回るような科学的記述があり、その記述は

現代の科学と照らし合わせても決して矛盾しない。たとえば、この大地がどのようにして支えられているかに関して昔の人がこの大地は亀の上に座しているなどと考えていた時代に聖書は、この地球が球体であることを語っている。

 

イザヤ40:22 主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、

 

 

さらに聖書は未来を預言し、しかもそれが成就する書である。聖書には3000以上の未来への予言があるが、それらはみな成就してきた。このように、聖書のみは神により、霊感された書であり、人間の書いた書とはまったく異なる書である。

 

<教会や法王を神のことばより高い位置に置き、自分たちを神のことばより権威あるものとするカソリックの巧妙な戦略>

 

聖書の主張、キリストのことばははっきりしており、唯一変わ

らず、滅びないのは、神の言葉、キリストのことばであり、逆に天地、教会は変質、滅びると語る。しかし、何が何でも自分たちで教会の主導権を握り、教会を掌握したい

カソリック、また法王は、上記論法、聖伝にも誤りがあるので、聖書にも誤りがあるとの

無理やりな論法でなんらの誤りのない神のことばを低いもの誤りのあるものと規定した。しかし、いったい聖書のどこが間違っており、何が誤りなのか?前述のように聖書は現在の科学と比べても科学的な書であり、また預言も何一つ外れてはいない。カソリックは何の根拠もなく聖書を誤りのある書であるとし、信者も自分で確認することなく、そう思い込んでいる。

 

 

<聖書を否定したカソリックは多くの誤りに満ちた教会となった>

 

唯一の規範であり、ことばは神である、とさえいわれている、神のことば聖書を誤りのある書と決め付けたカソリックは結果として、誤りや間違いに満ちたカソリック教会や、法王の手で多くの誤りの教えを教会内に取り入れるようになった。

 

マリヤ礼拝、聖人礼拝、化体説などはみな誤りであり、間違いである。

以下のことばはカソリックにおいて成就している。

 

 

マタイ13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」

 

この女はカソリックのように誤りを犯す教会のたとえ。パン種は聖書では罪をあらわすものである。パン種がパンをふくらませるように、罪や誤りは全体に及ぶものである。

それでこの箇所の解釈は、女、すなわちカソリック教会がパン種を取り、3サトンの粉、すなわち、パン、メッセージに入れると全体、教会全体に罪や誤りがいきまわることをさすたとえである。

 

 

<その誤りは永遠の命にかかわる教理にも及んでいる>

 

そして、その誤りはクリスチャンの永遠の命に関する教理にも及んでいる。

その誤りを見ていきたい。

 

) マリヤの偶像を拝ませ、偶像崇拝、悪霊崇拝に信者をいざなう。

 

黙示録 2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

 

2)偶像礼拝の戒めを聖書から省く:

 

聖書はその十戒の中で偶像を拝することを明確に禁じている。

しかし、カソリックはこの戒めを十戒から削り、実質九戒にしている。

彼らは教会の都合やら、法王の人間的な意見を優先して勝手に神のことばを

削除する異端教である。以下のことばはカソリックの聖書から削られている。

 

 

出エジプト20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 

 20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

 

 20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

 

偶像崇拝、それは、たとえそれが、マリヤの像をしていようと、キリストの形をしていようと、結局は悪霊崇拝に通じる。そして、悪霊崇拝は神の怒りを引き起こす。以下のことばのとおりである。

 

1コリ10:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

 

 10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

 

彼らはマリヤの形をした像を拝みながら、実質は悪霊崇拝を行ない、結果神の怒りを引き起こしているのである。驚くべき欺瞞である。

 

カソリック、それは自分たちの教会や、法王の都合を優先し、自分勝手に神のことばを削ったり、省いたり、はたまたインチキ教理を加えるために勝手に外典を作って加えたり、ありとあらゆるインチキや詐欺の宝庫の教会である。詐欺師とつきあい、親しくするなら最後には騙されて財産を失う。同じようにこの詐欺教会に従うものは最後は悪霊崇拝の罰を神から受け、永遠の命を失って終了する。

 

 

3)悪霊マリヤをキリストの代わりに拝ませ、

実質キリスト教というより、マリヤ教になっている:

 

反キリストということばには、キリストの代わり、というニュアンスがあるときいたことがある。そういう意味ではマリヤは、反キリストである。カソリックにおいては、何でもかんでも

キリストをさしおいて、マリヤが登場し、キリストを出し抜いてその栄光をあらわさせないようにしている。しかし、マリヤは前述のように、偶像の霊、悪霊であり、マリヤを拝するものは悪霊とかかわるようになる。

 

カソリックは以下の様にただの田舎女に過ぎなかったマリヤを神格化し引き上げ、

ソシテ、キリストの代わりに拝ませ、キリストの栄光を輝かせないようにしている。

いわば、本物の価値あるダイヤを買いにきた客に二束三文のガラス玉をことば巧みに売りつけるような詐欺を働いているのである。

 

*マリヤは無原罪であると説く: 実際には、マリヤが無 原罪であると語る聖書箇所はない。

 

*マリヤは昇天したと説く: そのようなことを語る聖書箇所はない。

 

*マリヤは、神との仲介者であると説く: しかし、そのような聖書箇所はない。聖書は

キリストこそ、神との間の唯一の仲介者であると説く: 1 テモテ2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

 

*マリヤは共同のあがない主であると説く。しかし、マリヤがキリストのように、十字架にかかってあがないをなしとげたとの聖書箇所はない。これは単純に嘘の教えである。

 

このように、カソリックは何かというとマリヤを登場させ、無理やりにでもマリヤを神格化させ、あたかもキリストのなしたすべてのわざをマリヤが肩代わりできるか、のように神格化させる。なぜ彼らはそうするのか?単純にマリヤを尊敬している、崇敬している、という理由ではない。その裏にはサタンの深い、巧妙な戦略がある。

その戦略とは、このように、教会でマリヤを持ち上げることにより、キリストへ向かう祈りうをマリヤへ向けさせ、キリストに向かうべき信仰をマリヤへ向かわせるためなのである。

 以下のことばのとおりである。

 

2コリント4:4 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

 

しかし、このようなカソリックの巧妙な戦略に踊らされ、マリヤばかり、信仰する信者は

もっとも大事なものを失う可能性がある。

それは、以下の様にこの名以外には救われる名はないといわれたイエスの名からずれていくこと、そして、悪霊マリヤを拝むことにより、祈れば祈るほど、神の前に怒りを積み上げる、という危険性がある、ということである。

 

 

 

使徒4:12この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

 

簡単に言えば、マリヤに祈り、マリヤを信じ、マリヤを頼みにする人々はキリストの救いから はずされ、逆に日々神の前に怒りやのろいを招いている可能性があるのである。

神に救いを求め、天国へ入るために教会にやってきた人々を惑わし、だまし、

いつの間にか、悪霊崇拝に導き、真の救いから遠ざける、これが

マリヤ崇拝のわななのである。

以下の聖書のことばは、このマリヤ崇拝をまさに警告することばである。

 

黙示録2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

 

 

ここでは、テアテラの教会に対して、その偶像崇拝の罪に関して叱責のことばがある。

偶像を崇拝するな、との十戒を守っているはずの教会で偶像崇拝の罪が行われている、と叱責されているのである。

このことは、まさにカソリックにあてはまり、彼らはまさにマリヤの物理的な像を作り、それを崇敬だからよい、などと屁理屈をこねながら、拝んでいる。

旦那がいながら、他の男と通じて、「これは姦淫ではなく、愛の施しだからよい」などと

単なることばの屁理屈を述べる女と似たような浅い思考パターンである。

しかし、聖書の指摘は正確であり、キリストのことばも誤りがなく、キリストはこの

教会のマリヤ礼拝を「崇敬だからよい」などといわず、偶像崇拝、偶像の神を拝んでいる、と叱責しているのである。屁理屈をいわず悔い改めるべきではないのか?

 

 

4)キリストのあがないを実質否定し、煉獄の苦しみを通して、罪があがなわれる、と

説く:

 

聖書はキリストが我々の全ての罪をあがなうこと、罪の全ての借金を支払うことを語る。以下の通りである。

 

ロマ3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 

 3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

 

 

しかし、カソリックは煉獄という非聖書的教理を入れ

罪が「浄化火」それを通して、償われると述べ、

私たちは「猶予としての罪のこの地上における処罰を

受け入れるために努力しなければなりません」と説く。

 

5)罪のあがない主をすり替える

 

聖書はイエスこそ、我々の罪のあがない主であることを語る。以下のように。

 

2ペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 

しかし、カソリックはマリヤを共同のあがない主であると教え、キリストのみが

唯一の罪のあがない主であることを実質否定している。

 

カソリックに惑わされてマリヤに罪の許し、あがないを願うものは聖書がいうあがないを受けず、罪の許しを受けず、結果地獄の火で自分の罪を自分で支払うことになる。

 

 

 

6)教会のかしらは誰か:

 

聖書はイエスキリストこそ、教会のかしらであることを語る。

以下のとおりである。 

 

エペソ1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

 

 1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 

このように聖書は明確に教会のかしら、トップ、第一の王をたった一人定め、それはキリストであることを明言する。しかるに、ペテロの後継者を自称する法王がこの

教会のトップにしゃしゃり出て、あらゆる非聖書的な教え、異端的な教えを教会に持ち込んでいる。

恐るべき教会のっとり、ぼうとくである。そして、ろくに聖書をよまない、聖書も神の力も知らないカソリック教徒は、このようなかしらの位置がのっとられた現状を憂える

でもなく、悲しむでもなく何も考えず、進化論は正しいだの、地獄はないだのの非聖書的な法王の教えに従っている。

 

カソリックとはどのような教会か?それはキリスト教会とは名がつくが、キリストとは

似てもって非なる教会である。キリストの真の救いからかけ離れ、悪霊マリヤ礼拝にあけくれ、聖書への信頼も失われたあわれむべき教会となっている。そして、その元凶、

すべての過ちの原因は法王にある。盲目で、非道徳であり、無知でインチキ文書まで作成する法王にある。

そして法王は自分こそ、教会のかしらである、と嘯いているが、

上述のように、聖書は、明確に「いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」として、キリストこそ、真の教会のかしらであることを明言する。

この明確な聖書のことばに戻り、法王由来のあらゆる偽り、嘘教理から一線を画さない限り、カソリック教徒が真の救いに達することは難しい。

 

<新約聖書から学んでいないカソリック信者>

 

旧約そして新約聖書は神により書かれ、それは今の時代における我々への教訓、学びとして

書かれたものである。

カソリック教徒も新約聖書を読んでいるのだろうが、残念ながら、そこから

大事な教訓を学んでいるとは思えない。福音書で度々書かれていることは、

真理であるキリストとそれに対抗する聖書の専門家である、律法学者、パリサイ人また

祭司との争い、論争である。キリストは神から遣わされ真理を語っておられるが、

しかし、民の教師、宗教指導者である彼らはキリストを攻撃し、卑しめ、わなをかけ、憎み、

ついには、罪に陥れ、その命を奪った、それが福音書の結論なのである。

そして、それらの記述は無意味に書かれているのではなく、教会時代に

往々にして起きる教会の教師、指導者の誤りへの警告として書かれた、と理解するのが正しいと思える。

カソリックの教師、指導者である法王や神父たちは、キリストをあがめているようで、実質、

キリストの教えやことばをないがしろにしたり、真っ向から反対するような教理を教会内で繰り広げていることは知るべきである。キリストは偶像を礼拝しろとも

マリヤが共同のあがない主だとも述べてはいない。

 

福音書の結論は民は結局は指導者である祭司や、パリサイ人の教えに聞き従い、

キリストを憎み、自ら十字架につけろ、と叫んで命を奪った、ということが結論である。

そして、そのキリストを殺したエルサレムの人々は西暦70年のローマによるエルサレム攻撃により、滅んだ。一人子を殺された神の怒りが燃え上がったのである。

 

同じことが今カソリックで起きていることは正しく理解すべきである。

今の時代の教師である法王も神父もキリストや聖書と異なる教えを語っている、

いわばキリストを十字架につけているようなものである。

 

民にはその現状に対して、2つの選択がある。ひとつは12弟子のように、

会堂を追い出されてもキリストにつくか、はたまた、多くの群集のように周りを恐れて、

(キリストのことばに反対する)教会の指導者に従い、同じくキリストのことばを十字架につけ、

ないがしろすることに参加するのか、という選択である。2つの選択があり、その結果は異なる。

 

<自分自身で考える>

主はかつてこのようにもいわれた。

 

ルカ12:57 また、なぜ自分から進んで、(自分自身で KJV訳)何が正

しいかを判断しないのですか。

 

 

主がここで、自分自身で判断しないのかと問われた言葉には意味がある。

いわんとしていることは、どうして、他人に判断をあずけ、他人の教理、教えをうのみにするのか、

自分で聖書を読み、自分で神に聞き、その上で判断する、という行いをないがしろにするのか、という

意味合いである。そして、それは、彼らが聖書の教えや教理、キリストに対する判断、また、

時代をみわける、ということに関してもただ、教師の意見に盲従してそこに自分で聖書を読み、判断する、祈って神に聞くということがないからだ、それを指摘していると理解できる。

そして、そうであるがゆえ、自分で判断することを怠ったゆえに、この時代の民は、

結局は誤った結論をつかみ、祭司や、パリサイ人の意見に従い、誤りをつかみ、キリスト殺しに加担してしまったのである。

そしてこれらは教訓であり、今のカソリックにもいえる。

カソリックにはやれ、私的解釈をするな、自分でミサをするな、等々あらゆる、

制限があるが、しかし、それらをうのみにして、何一つ自分で判断せず考えないことは、キリストには

奨励されていないことを知るべきである。むしろ、たとえ少数派になろうとも聖書のことば、聖霊の語る声に耳を傾け、自分で判断するものにみこころがあることを知るべきである。

 

 

 

 

 

<使徒以来の伝承を守っている、伝えている、という愚にもつかないプライド>

 

カソリック教徒には本人が知ってか知らずか、根拠のない優越感やら、

変なマウントや自信をプロテスタントに対して持っている。

 

<カソリックの根拠のない自信>

 

カソリックの実態はこのようにあわれむべきものなのだが、この教会の神父といい信者といい、根拠のない自信を持ち、自分たちを誇っている。

それは、カソリックのみが唯一の正しい教会、使徒以来の伝承に基づく教会、という

(自称)キャッチフレーズによる。

 

この件について少し考えてみたい。

 

何を考えるのか?すなわち、現在の2大キリスト教、カソリック、プロテスタントを考えるに、カソリックは確かに神に認められた唯一の教会なのか、はたまたプロテスタントとは、本当に歴史が500年しかない新参の教会なのか、ということをである。

 

そのことを考えるに旧約の時代を思い起こせばその時代にも神の民は2つの群れ、国

にわかれていた。すなわち北のイスラエル王国と南のユダ王国である。

 

この2つの国を比較するに人数を比べるなら、北は10部族、南は2部族である。北のほうが多い。そして元の国の名前であるイスラエルという国名も

北のイスラエルが継いでいる。それで他の国、外国の人がこの2国を見て比べたらどのような印象を受けるだろうか?おそらく、人数も多く、しかも正式国名を継いだ北のイスラエルが本当の継承者、南のユダ国はマイナーな反逆の国のように見えるだろうと思える。人間的にはそう見えることは確かだろうし否定できない。しかし、一転、神の視点ではどうか?そのとき、この2つの国に関する視点は逆転される。

列王、歴代の歴史を見るなら、神に愛された国はユダであり、また

その都エルサレムである。さらにユダの王朝は代々、神に愛された

ダビデの王族が継いでいる。ダビデは王としてキリストの型である。

一方北のイスラエルに関しては聖書はその偶像崇拝の罪、バアルやアシエラ

崇拝の罪を指摘している。また、歴代のイスラエルの王も神の祝福を受ける王は少なく、

何代かの後に根絶やしにされた王族が多い。明らかに神の恵み、みこころは

小さな国ユダに向かっていたのである。また、ユダは、新興国ではない。そうでなく、

もとからイスラエル12部族の一端をになっていたが、イスラエルがダビデの家に逆らったとき、12部族から分離したに過ぎない。

さて、これらの歴史はそのまま、カソリック、プロテスタントの歴史を考えるに参考になる。

キリスト教の名前や名目、また多数の信者が、カソリックにはいる。しかし、その霊的実態は、旧約の北イスラエルのように、偶像崇拝にあけくれ、また法王という人間の偶像に従い、かしらであるキリストをないがしろにしている、これはそのまま神の怒りをかった北イスラエルの行いの再現である。人の前での名目はともかく、神の前には祝福はない、逆に神の怒りをかっている教会、それがカソリックといえるのではないのか。

また、プロテスタントが新興勢力という考えも間違っていると思われる。イスラエルももとは、12部族であり、ユダも他の10部族も同じイスラエルに属していたのである。同じように、ルター以前にもキリスト教会には、法王崇拝にも加わらず、純粋に神に従っていた人々がいたのである。それは初代キリスト教会のときからである。しかし、彼らがもうカソリックや、法王の偽りや欺瞞に耐え切れず、カソリックから分裂したのがルターの宗教改革であった、というのに過ぎない。言い方を変えると、初代教会、教会時代の初めから、

聖書に忠実な人々、人間である法王の誤りのある教えに異を唱える人々は教会に存在していたのである。彼らは、しばらくの間、法王に聞き従ったり、教えを曲げる人々と同じ教会に属していた。しかし、ルターのときに分裂することになった、そう考えられるのである。宗教改革が起きたのは確かに今から500年ほど前であるがそれまで、ルターのように考え、行う人が教会にいなかったか、というなら、それは間違えなのである。

 

さて、結論として、カソリックは、自分たちの教会に関して根拠のない自信を持つべきでない。彼らが今でも

偶像崇拝を続ける教会に属している、ということはいばることでなく、恥や罪に属することがらである。また、自分たちが属している教会に持っている変な自信はおろかな法王や盲目なカソリック信者の間だけで通用する誇りである。神の前にはこれらの人々は愚かな盲人、

神の怒りをかいつつある偶像礼拝者に過ぎないことを知るべきである。

 

5 カソリック教徒は永遠の命を奪われないために自衛すべきである

 

ここでは、このように欺瞞に満ちたカソリック教会に通う信徒がどのようにして、

永遠の命を得ることができるかを考えたい。

 

 

<カソリックは何をなすべきか>

 

カソリック、それは自分たちの教会や、法王の都合を優先し、自分勝手に神のことばを削ったり、省いたり、はたまたインチキ教理を加えるために勝手に外典を作って加えたり、ありとあらゆるインチキや詐欺の宝庫の教会である。詐欺師とつきあい、親しくするなら最後には騙されて財産を失う。同じようにこの詐欺教会に従うものは最後は悪霊崇拝の罰を神から受け、永遠の命を失って終了する。

たとえ、オレオレ詐欺がどのように巧妙でも、ひっかかれば、お金を失うのは自分であり、

自己責任である。同じくカソリックの教えがどのように巧妙でも、聖書の教えに逆らい、従わず、結果永遠の命を失って火の池で苦しむのは自分である。これも事故責任である。未来や死後のことなど

どうでもよいならともかく、真面目に考えるなら、明らかに聖書と異なる道へ引き込まれつつある、

カソリック信徒は自衛すべきである。

 

<カソリックには救われた人がいない、もしくは少ない>

 

このように偽りの教えを聖書の教えと勘違いして受け入れているために、

その結果として、カソリックには真にキリストの救いを受けた人が少ない。

私も個人的にカソリックの人を何人か知っているが、本当にキリストに救われているなと感じるカソリックの人は、私の場合、残念ながら皆無である。誰もいない。

みな多少なりとも聖書は知っているようであるが、しかし、その人から人間的な

ものは感じるが、救われた人特有のキリストのかおりを感じるカソリックの人は、私の場合、あまりいない。正確に言うと誰もいない。残念であるが。

 

<木はその実によって知られる>

 

主は木はその実によって知られる、といわれた。教会のよしあしもその実によってしられることになる。カソリックの結ぶ実とはどのような実であろうか?

それについては、別にキリスト教関係者だけでなく、この世の人も知っている。

アメリカといわず、日本といわず、カソリック関連のニュースといえば、スキャンダルや、

セクハラのニュースばかりである。そしてこれが、よくも悪くも現実のカソリックの実なのである。どんなに偽善的な儀式を重ねて、敬虔そうなしぐさをしてもその実態はスキャンダルまみれの教会、それがカソリックなのである。

なぜカソリックはそうなってしまったのか、その大きな理由は、彼らが聖書のまっすぐな教えを捨て、偽りの教えとすり替え、真の救い主キリストを捨て、悪霊マリヤ崇拝にうつつを抜かしているからではないのか?また、真の教会のかしらであるキリストを捨て、誤りのある人間である教皇をかしらとして仰ぎ、聞きしたがっているからではないのか?

神がこのような教会の状態を許されているのには、理由があり、カソリックが自分の真の状態、神の前におけるかけねなく哀れな状態を知り、悔い改めるためではないのか?

 

 

<教会を優先すべきか、神のことばを優先すべきか>

 

繰り返しになるが、主は群集に対して、どうして自分自身で判断しないのか、と自分で

判断することを語られた。いわんとしていることは、どうして指導者であるパリサイ人、祭司たちのいうことを盲従するのかとの問いである。今の時代でいうなら、なぜ、教師や神父、法王のいうことだから、といって盲従するのか、自分で聖書を読んだり、考えることを放棄するのかとの問いである。

今まで見てきたように、カソリックが教えていることと聖書が語っていることとは大きく異なる。

すべての信徒は、何が正しいのか自分の目で見、自分の心で判断すべきではないのか。

 

<カソリック教徒は吟味もなく、また聖書をろくに読まない>

 

なぜ簡単な論理、単純な偽りにかくも簡単にカソリック信徒はだまされてしまうのか?

その理由ははっきりいうが、ろくに聖書を読まないからである。

ろくに神のことばを読まず、覚えず、うろおぼえの人間は簡単にだまされる、それはエデンの園以来の教訓である。以下のエバのことばを見るなら、彼女はろくに神のことばを覚えていないことがわかる。

 

創世記  3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

 

 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

 

彼女は「触れてもいけない」といわれてもいないことばを付け加え、「死ぬといけないからだ」とニュアンスを弱めている。

 

そしてこのように神のことばにあいまいな彼女は蛇に付け込まれ、偽りのことばを信じて

命を失った。そしてこれは、神のことばをそもそもあまり読まずその結果、インチキ教理に付込まれやすいカソリックへの警告といえる。

 

<救いはプロテスタントにある>

 

救いはどこにあるのだろうか?かつての日、主は迷えるサマリヤの女にこういわれた。

 

ヨハネ4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

 

 4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 

サマリヤ、すなわち偶像崇拝に明け暮れる北イスラエルの首都であるサマリヤの女に対して、

救いはユダヤ人から来る、南の国ユダから来ることを語られた。

 

偶像崇拝に明け暮れるイスラエルは今のカソリック、そしてユダは今のプロテスタントに相当するだろうか。そして、今で言うなら、救いはカソリックにはなく、しかし、プロテスタントにある、と神は語られているように思う。

 

確かにカソリック教徒は誰も彼も金太郎飴みたいに、誤りのマリヤ礼拝に陥っているので自浄作用はないように思える。しかし、主がいわれるように、救いはユダヤ人、今で言うなら、プロテスタントにある、といわれるなら、その声に耳を傾けることが大事ではないのか。変な、根拠もない優越感にひたり、実質、聖書も神の力も知らない歩みを続けず、このことに耳を傾けることが大事かと思われる。

 

上記ことば、「わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」とのことばは重要である。カソリックのひとつの特色は礼拝しているが、何が神か、何が神のみこころが、何も知らずに礼拝している、ということである。このことは事実であり、もし、カソリック教徒が少しでも神の御心をしっているなら、即刻マリヤ礼拝など中止するである。しかるに彼らは続けている。彼らが神について何も知らないことは明白である。

謙虚になって、プロテスタントに与えられている救いを求めること、それが永遠の命に通じる、と私には思える。

 

 

−以上―