ブラザレンの誤り: 牧師制度の否定

 

本日は、ブラザレンの誤りに関して書きたいと思います。

ブラザレンというグループの特徴は、その名前ブラザレンという名前、兄弟、という名前のように、何かというと兄弟ということを強調する点にあります。

 

実は私もしばらくブラザレン系の集会に行っていたので、伝聞というより、実際の身をもって体験しているのです。

 

他の教団に属している人にはブラザレンの問題、といってもわからないでしょうが、私は幸か不幸か、何年か属していたので、よくもわるくもその実情がわかります。それでこの文章は理論や空論でなく、これは私の実体験に基づいたものです。

 

ブラザレンの良いところ:

 

もちろん、ブラザレンにも良いところがありますし、またまじめなクリスチャンもいますので、私は何でもかんでもブラザレンが悪い、とはいいません。また、多くの教理は福音的で、聖書に根ざしたものです。

 

しかし、これだけは問題だ、と思われることがありますので、非難を承知でいくつか書いていきたい、と思っています。このHPは表題のごとく、角笛のサイトであり、剣、すなわち誤った教理が到来したとき、角笛を鳴らすべく、命じられているサイトです。

 

<牧師制度の否定>

 

あまり外部には語られているか、いないか知りませんが、ブラザレン系の教会でしきりに語られていることは牧師制度の否定です。

もっと専門的な言い方をすれば、中間祭司階級の排除です。

神と信徒は直接交わりを持つ、中間祭司階級を排除する、という触れ込みなのです。

 

ブラザレンという名前にはそのような意味合い、中間祭司階級を排除し、すべてのクリスチャンは平等な兄弟(ブラザレン)の立場に立つ、そのような意味合いが含まれているようです。

 

 

何でもかんでも牧師を目の仇にすることがブラザレンの特徴

 

 

<牧師制度否定の聖書的根拠>

 

どのような聖書箇所をもとに彼らはそんなこと、中間祭司階級の排除などということを言い出したのでしょうか?

 

私が聞いたのは以下のみことばです。

 

黙示録 2:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。

 

 

 2:15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。

 

これらの箇所に出てくるニコライ派という名前がその根拠だということです。

ニコライとは民に打ち勝つという意味合い、すなわち、一般信徒の上に権限を振るう、中間祭司階級をさす表現だということなのです。そして、この黙示録の中で、ニコライ宗の教えを神が憎んでいるように、中間祭司階級を教会から排除することが神の御心だ、という解釈につながるようです。

 

<宗派は異端?>

 

私がいたブラザレン系の教会では、

上記の様に中間祭司階級を置かない教会こそ、神のみこころに沿った、

教会であると堅く信じていました。それ以外の教会、牧師をおいているような教会は教派とか、宗派といって

軽蔑していました。要するに自分のところが一番、悪く言えば、教派は異端ぐらいの考えです。もちろん、このような教えは教理として明言していないでしょうが。

 

したがって、一旦ブラザレンのこのような考え、教理が身につくと他の教団には行けなくなります。宗派の教会へ行くというと、異端の教会へいくような感覚だからです。そういう意味ではセブンスデーや、ものみの塔に似ています。彼らも他の教団を異端視していますから。

 

<全てを吟味せよ>

 

さて、ところで、このようなブラザレンの考え、聖書は牧師を初め、中間祭司階級を排除することを求めている、とは正しい考え、教理なのでしょうか?聖書はすべての教え、教理を吟味、見分けることを語ります。以下のとおりです。

 

”1テサ5:21 すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。”

 

このブラザレンの教え、神は中間祭司階級の排除を求めている、という考えも私たちはうのみにせず、見分け、吟味する必要があります。

 

<牧師は聖書に書かれた働き>

 

まず、初めに知らなければならないことは、そもそも牧師、ということばは、この世から持ち込まれたことばでも、最近作り出されたことばでもなく、逆に聖書に明記された職務である、ということです。

 

”エペソ4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

 

 4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、

 

 4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。”

 

このエペソ書の箇所で、牧師という職務ははっきりと聖書に明記されています。明記されている、すなわち、聖書を霊感した神が定めた職務を自分の教理や、考えに基づいて排除したり、非難したりすることは、明らかな間違えです。

 

ここに書かれているように、神は使徒、預言者、伝道者という職務を必要があって、教会に加えました。それによって、教会は益を得たのです。それなのに、同じく併記されている牧師のみ、教会から取り除く、とは

自分勝手に自己判断で神の領域を侵してみことばを取り除くような罪に陥ることになります。結果はろくなものにならないでしょう。

事実、私が知っている限り、ブラザレン系の教会は神のことばに逆らって牧師職を教会から取り除き、その結果、混乱やら、迷走の道を歩んでいます。この件は後述します。

 

たとえば、伝道者という職務を教会から勝手に取り除いたらどうでしょう?教会は伝道が進まず衰退してしまうでしょう。しかし、教会が神のことばに従い、忠実に伝道者という

職務を教会に置き、そして伝道が全世界に及んだため、今世界中の人々が福音を聞くことができるようになったのです。神のことばや与えた職務や任務を勝手に取り除くべきでないことがお分かりいただけるでしょうか。

 

神が必要があって、牧師という職務を教会に与えました。それを

勝手に、自分勝手な誤りの教理に基づいて除くべきではありません。

あえて、神のことばに逆らってことばや職務を取り除くものは当然の

報いをその身に受けるようになります。

 

<羊を飼うことは主の命令>

 

牧師とは羊を牧するもの、すなわち、クリスチャンを養うものです。

そしてこの働きは主ご自身が命じたものでもあります。

 

“ヨハネ21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

 

 21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

 

 21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。“

 

ここでキリストご自身がペテロに対して3度も私の羊を飼いなさい、牧しなさい、と命じておられます。

 

羊は神により直接導かれるから、中間祭司階級など不要、ペテロお前は余計なことをするな、とはキリストは命じられなかったのです。

 

主は羊を飼うこと、すなわち牧師の牧会を命じられた

 

そしてこのキリストのことばに従い、彼ペテロを始めとした使徒たちは、ペンテコステ後の教会において、多くの信者を牧したのです。彼らが牧者として、みことばの用(メッセージ)や祈りに従事していたことは以下のことばからもわかります。

 

“使徒 6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。

 

 6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

 

 6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」“

 

 

主がこのように弟子であるペテロに羊を牧する、すなわち信徒の牧会の奉仕を命じ、そしてペテロを始めとした弟子たちはその主のことばを守り、羊を牧し、牧師に任務を行い、その結果、初代教会は多くの人数に成長したのです。

 

ブラザレンのいうような牧師排除とか中間祭司階級排除とはいかにも

理想的な響きがありますが、実質は主の命じたことばに真っ向から

反した悪魔的な教理であることを知るべきです。

 

<飼うもののない羊を主は案じられた>

 

牧師とは羊を飼い、養う牧者という意味合いがありますが、羊を飼うことに関して主はこう語られています。

 

”マタイ 9:36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。

 

 9:37 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。

 

 9:38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。”

 

主はここで、飼う者、すなわち牧者、牧師がないような羊の状態、弱り果てて、倒れている状態の人々を見て深くあわれました。そして、そのあと、神ご自身が牧するから、中間祭司は無用、心配無用とはいいませんでした。

 

逆にそのあとで、働き人について語りました。働き人とは12弟子のように、主の働きをになう弟子の歩みをするしもべたちのことです。

 

そして、「収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」とまでいわれました。何故、働き人が必要か、それはこれらの弱り果てた羊の様な人々を牧するためなのです。ですので、牧師を送り、弱った羊のような信徒を助ける、とは他でもない主ご自身からの命令なのです。牧師制度を目の仇にする愚かなブラザレンは聖書も神の力も知らない人々であり、大変な思い違いをしているのです。

 

<ブラザレンの礼拝>

 

このように聖書に明確に書かれていることばを外し、省き、牧師制度を否定したために結果、ブラザレン系の教会は受けるべき恵みを外され、災いや呪いを受けるようになっています。私はいくつかブラザレン系の教会へいきましたが、正直あまり神の恵みや、

聖霊の臨在などは感じられませんでした。非常に祝福されている教会とは思えなかったのです。

 

牧師はメッセージを行うものですが、彼らブラザレンは牧師を排除してどのようにして礼拝のメッセージを行っているのでしょうか?

私の通っていた教会では、特定のメッセンジャーがいなかったので、

一つの聖書箇所をもとに集まった兄弟たちが自分の教えられたことをそれぞれ、めいめい語るようにしていました。

 

このような方法をすばらしい、民主的な教会、

兄弟の立場にたった教会とでもいうのでしょうが、しかし、正直あまり恵みはありません。

 

素人みたいなクリスチャンが、それぞれ皆勝手に思いついたこと、自分の考えや、解釈を述べるので、そこにはまとまった学びも統一された教えも、継続的な教理も何もないのです。逆に一人の人がAという教理を語ると次の兄弟がそれと異なるBという教理を語ったりして、集会の中でも意見の分裂や対立さえ起きてきます。

 

聞いてるほうも、

何を神の教えとして受けるべきか混乱してしまうのです。また、すべての兄弟がみことばに関連してメッセージらしきことばを語る、ということは平等に見えて、神の前に問題があります。

 

ろくに聖書も読んでいない、昨日までこの世にすっかりついていたクリスチャンのことばを礼拝で聞いてもほとんどためにはならないからです。ある兄弟は聖であるかもしれませんが、ある人はまったく世についた俗的なひとであり、聖と俗との混乱があるのです。

 

 

<聖と俗の区分>

 

聖書は聖と俗との区分を厳密に語っています。

 

 

 “民18:22 これからはもう、イスラエル人は、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪を得て死ぬことがないためである。

 

 18:23 レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。

 

 

 申10:8 そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。

 

 

ここでは、イスラエル全体の中で、レビ人のみが主の奉仕をになうこと、主との会見の天幕やら、契約の箱を運ぶこと、主に仕えることが許されていることが書かれています。

 

私たちクリスチャンは新約のイスラエルではありますが、しかし、イスラエル人だから、という理由で誰でも自由に主の奉仕をになっていいいとは聖書は語っていません。レビ人のみにそれは任されているのです。

 

今の時代でいうなら、主に選ばれたレビ人の歩みをしている人のみが主に仕える働き、すなわち、教会のメッセージを始め、中心的な奉仕をになうよう、召されているのです。

 

特に神へのパンをささげること、これはレビ族、そしてアロンの子である祭司に限られていました。以下のとおりです。

 

“レビ21:1 ついで主はモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。

 

21:8 あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する主、わたしが聖であるから。“

 

神へささげるパンとはたとえであり、新約においては、命のパン、すなわち、神のことばのメッセージの奉仕の型です。

そしてそのパン、メッセージの奉仕は誰でもよいのではなく、厳密にレビ人のみに限定されていました。レビということばの意味合いは「くっつく」という意味合いです。

 

それは型であり、新約においては主につく、弟子たちをあらわすたとえです。

神はレビ人のみに神への奉仕を命じられた

 

 

<弟子は新約のレビ人>

 

新約においては、もうレビ人は存在しません。しかし、レビ人を通して

神が立てられた原則は新約においても我々が厳守すべきことがらです。

レビとはくっつくという意味のことばです。主につく弟子たちこそ、真のレビ人なのです。新約においても主の奉仕はレビ人、主につくものが行うべき、というこれが聖書の原則です。新約におけるレビ人はキリストにつき、寝食をともにして

仕えた弟子たちをさす表現です。

 

私たちが注意深く福音書を読むなら、キリストは神への奉仕、

主への奉仕を弟子、すなわち、新約のレビ人のみに任せています。

一般の人、群集に主の奉仕を任せたという箇所は一箇所もありません。

 

“マタイ14:19 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。”

 

ここでは、パンを配る奉仕を弟子たちに命じて行なわせたことが描かれています。パンを配るとは、たとえの意味合いでは命のパン、神のみことばを人々に供給すること、すなわちメッセージの型です。そしてこの奉仕は新約のレビ人、弟子たちに任せられたのです。

 

“マルコ3:13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。

 

 3:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、

 

 3:15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。“

 

ここでは、主がその弟子たちに神への大事な働きである福音を述べ伝えること、さらに悪霊を追い出す権威を与えたことが書かれています。新約のレビ、弟子にのみこれらの

神への奉仕をになうことを許されましたが、しかしそれ以外の一般の人に任せた、ということはまったくないのです。

 

そのようなわけで聖書も神の力も知らない愚かなブラザレンの人々は知るべきです。

 

ブラザレン、兄弟と名がつけば誰でも神のことばを、メッセージを語っていいなどとの主張は神のことばに反した方法であり、決して神が教会で定めた方法でもないのです。

 

そしてブラザレンの集会においては聖と俗との区分がない、このことは大きな問題なのです。

弟子は新約のレビ人

 

<会衆はみな聖というわけではない>

 

さて、ブラザレンの主張とは要するにブラザレン、兄弟たちみなが聖なるものであり、我々は自分たちだけで神に仕えることが可能なので、余計な中間祭司階級は不要、という考えです。

 

このことは正しい主張に見えて神の方法、聖書の定めた方法とは異なっています。モーセのときにも同じようなことをいった人々がいました。

 

 

“民16:1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、

 

 16:2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。

 

 16:3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」

 

 16:4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。

 

 16:5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。

 

 16:6 こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、

 

 16:7 あす、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」

 

 16:8 モーセはさらにコラに言った。「レビの子たちよ。よく聞きなさい。

 

 16:9 イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。

 

 16:10 こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。

 

 16:11 それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」“

 

ここで語られているコラたちの主張、「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」との主張こそまさしくブラザレンが主張している中間祭司階級への反抗、反対のことばです。ブラザレンのいうことはコラのことばのように、「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられる」、だからお前たち中間祭司階級は不要、という主張なのです。

 

これは一見民主主義的であり、不要な特権階級を排除する、すばらしいことばのように聞こえるかもしれませんが、しかし、神の方法でも主張でもありません。

 

さらにここでの問題は、そのようにコラと共謀して主張しているダタンとアビラムなどはレビ人でなく、ルベン族に属しているからです。

すなわち、新約で言うなら、主の弟子ではない、一般のクリスチャンにも主への奉仕を認めろとの主張なのです。このような考えは神の前に受け入れられるでしょうか?以下がその答えです。

 

 “民16:28 モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのは主であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。

 

 16:29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのは主ではない。

 

 16:30 しかし、もし主がこれまでにないことを行なわれて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」

 

 16:31 モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。

 

 16:32 地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。

 

 16:33 彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。

 

 16:34 このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない。」と思ったからである。

 

 16:35 また、主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。“

 

このようにモーセ、アロンを中間祭司階級だと非難した彼らは地に飲み込まれて死にました。また、神への香をささげていたレビに属さないイスラエル人もみな、火で焼き尽くされたのです。

 

これらのことがらは旧約聖書の記述ですが、今も変わらない教会の原則なのです。

 

すなわち、神の定めた「レビ人が神に仕えるべき」との方法に異を唱え、逆らい、反抗する人々は地に飲まれ、レビ人でもないのにあえて神の奉仕を行なおうとするものは火で焼き尽くされるとの原則です。

 

民主主義はこの世では拍手喝さいで受け入れられますが、神の前ではこのコラたちの例のように受け入れられません。逆に神に逆らう方法なのです。

 

このような主張をする人々はその結果、ろくでもないクリスチャン

生活を送るようになります。クリスチャン同士争ったり、訴えたり、論争したり、非難したり、そんなことに時間を費やし、いったい何のためにクリスチャンになったのかわからないような歩みに入ります。

 

J.N. ダービーの誤り>

 

ブラザレンの働きの中でよい意味でなく、悪い意味で特筆すべきなのは、

J.N. ダービーのことです。ウオッチマン ニーなどはダービーを通して多くの光が与えられた、とほめていますが、私にいわせれば、

まったくの見当はずれです。光は光でも悪霊の光、教理のオンパレードです。

J.N. ダービーは他の記事にも書きましたが、彼の捏造聖書、

ダービー訳聖書を用いて、デイスペンセーション主義、艱難前説を始めとした種々のインチキ教理を教会に持ち込んだとんでもない人間です。このような人物、インチキ教理を見抜けず、むしろ推進、拡散しているブラザレン、彼らの目や耳には問題があるだろうと私は思っています。ブラザレン、彼らは自分たちは何か特別なものだと自負しており、そしてその

傲慢のゆえに目が曇らされこんなインチキ男が素晴らしい教師に見えるのです。

悪霊に霊感されたプリマスブラザレン教師、J.N.ダービー

 

<結論>

 

以上の様にブラザレンのいう牧師排除、中間祭司階級排除とは、いかにも画期的な教え、すばらしい教えのように思えますが、実態はすでに聖書の中で、モーセの時代、コラの時代に否定された教えなのです。聖書も神の力も知らない愚かな歩みに入るべきではありません。以上

 

エレミヤの部屋:終末預言解釈

 

レムナントキリスト教会HP