テキスト:マルコ12:24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。
本日は「聖書も神の力も知らない(2)」としてこの件を見ていきたい、と思います。
主は聖書も神の力も知らない、サドカイ人たちを叱責しました。そしてその問題は今でも続いています。
否、今こそ続いています。
今の時代はどのような時代でしょうか?今はクリスチャンが聖書を読まない時代です。信者もそして、牧師も。
それで、聖書をくまなく読んでおり、聖書の常識がわかっていれば、間違えようのない間違いを教会が犯し、クリスチャンがおかしな教理に引っ張られる時代なのです。
いくつもの教理におかしな教えが見られ、特に終末に関する教理に関しては、いくつもの間違いがあります。
今は誤り、間違いの時代なのです。
たとえば、艱難前、2段階携挙説はどこから見てもおかしな教えです。
いくつもの聖書箇所と矛盾しています。この教えは、艱難の前に携挙がある、クリスチャンは艱難に会わないと説きます。
反キリストが来るけど、クリスチャンは反キリストに遭遇せず、艱難にも合わない、というのです。
それは本当でしょうか?聖書をよく読むなら、これは非聖書的な教えであることがわかります。
たとえば、キリストの来臨以前にユダ、エルサレムは、反キリストの型といわれる人物に攻撃されたことがあります。シリアのアンテイオコス・エピファネスにより、常供のささげものが取り除かれ、荒らす憎むべきものがエルサレムの宮で奉げられたときがあります。
そのとき、その艱難の前に突然携挙があったなどということはありませんでした。逆にそのときはみな艱難に遭遇しました。それは正しく神に従う民と、裏切る民とが明白になった試練、試験のときだったのです。
繰り返しますが、このアンテイオコス・エピファネスこそ、反キリストの型となる人物なのです。
同じことが本番で繰り返され、実際の終末の日、本物の反キリストが来る日も、クリスチャンは艱難を経過する、そしてその艱難はクリスチャンのよりわけのときとなり、試練があり、試験されるときと考えるのが妥当ではないでしょうか?艱難の前にあげられるとは聖書の教えに反した妄想話と考えるのが正しいのです。
その箇所を実際に見てみましょう。以下の記述です。
(70人訳)ダニエル11章
30 それはシチアンから出された軍隊が彼に立ち向かうから、そして彼は低くされる、そして戻る、そして聖なる契約に逆らう香を炊く: そして彼はそのように行う、そして戻る、そして聖なる契約を捨て去るものたちと相談する。
31 そして種が彼から出る、そして彼らは力の聖所を汚す、そして彼らは常供のささげものを取り除く、そして荒らす憎むべきものを造る。
32 そして逆らうものたちが契約を巧みな方法でもたらす: しかし彼の神を知るものたちは繁栄し、勇ましく行なう。
33 そして民の智識あるものは多くを悟る:しかし彼らは剣、炎、捕囚そして長い間の増長により倒れる。
34 そして彼らが弱ったとき、彼らは少しの助けを受ける:しかし多くは反逆に自分を合わせる。
35 そして彼らの中の幾人かの悟るものは彼らを火で、そして彼らを試験し、そして彼らが終わりのときに現れるように、倒れる、それはものごとはまだ定まったときのものだからである。
順に見ます。
30 それはシチアンから出された軍隊が彼に立ち向かうから、そして彼は低くされる、そして戻る、そして聖なる契約に逆らう香を炊く: そして彼はそのように行う、そして戻る、そして聖なる契約を捨て去るものたちと相談する。
このとき、反キリストの型である、アンテイオコス・エピファネスは、聖なる契約に逆らう香を炊いた、ということです。香は、黙示録に「この香は聖徒たちの祈り」と書いてあるように、祈りをあらわす型です。ですので、終わりの日に反キリストは、香、祈りに関してクリスチャンを強制することが想像できます。神へ、キリストへの祈りを変えて反キリストへの祈りを求めるようになるのでしょう。
「そして聖なる契約を捨て去るものたちと相談する。」
さらに、アンテイオコス・エピファネスは聖なる契約を捨て去る者たちと相談することが描かれています。 聖なる契約とは要するに神とクリスチャンとの間に交わされる永遠の命に関する契約です。
反キリストさらにサタンが終わりの日にターゲットとし、狙いを定めるのは他でもないもっとも尊いもの、我々クリスチャンの持つ永遠の命であることを知るべきです。
聖なる契約を捨て去るものたちとは、要するに神に従わず背教する人々でしょう。反キリストはこのような人々と相談するのでしょう。何を相談するのか?それは、おそらく、どのようにして、正しいクリスチャンを堕落させ、背教させるかの相談と思われます。
31 そして種が彼から出る、そして彼らは力の聖所を汚す、そして彼らは常供のささげものを取り除く、そして荒らす憎むべきものを造る。
終末の日の反キリストは、聖所を汚します。聖所とは何でしょう?新約の時代にはもう旧約の宮、神殿は存在しません。
新約における聖所とは、クリスチャンの礼拝の中心である教会のことです。その教会を汚し、同性愛や堕胎、離婚などを強制的に認めさせるようになるのでしょう。
「常供のささげものを取り除く」
常供のささげものとは、要するに常に神の前にささげる穀物のささげものです。たとえの意味合いとしてはパンすなわちメッセージをさすものです。
キリストにのみ救いがある、などという正しいメッセージは強制的に教会では取り除かれ、語られないようになります。
アンテイオコス・エピファネスは、真の神のかわりに荒らす憎むべきものとして、ギリシャのゼウス神を神殿に置いた、ということです。同じ意味合いで、終末の反キリストも教会の中からキリストを追い出し、代わりに反キリストを神として受け入れさせるようになるのでしょう。
32 そして逆らうものたちが契約を巧みな方法でもたらす: しかし彼の神を知るものたちは繁栄し、勇ましく行なう。
反キリストはその日、クリスチャンに対して、キリストとの永遠の契約を捨てさせ、反キリストとの契約に入らせるようにするのでしょう。この契約に入るものは、神との永遠の契約を破り、永遠の命の約束を反故にします。
そのとき、正しく神を知り、真理に立つものはどうなるでしょう?この艱難の前にみな、
携挙されて誰一人残らなかったとは書いてありません。逆に「しかし彼の神を知るものたちは繁栄し、勇ましく行なう。」として、信仰の戦いに出たことが書いてあります。これが艱難時代におけるクリスチャンのあるべき姿なのです。
33 そして民の智識あるものは多くを悟る:しかし彼らは剣、炎、捕囚そして長い間の増長により倒れる。
この日、艱難時代の日には、神により真の智識を与えられたものは何が真理で何が誤りか、悟るでしょう。しかし、また反面このときはクリスチャンのより分けのときなので、「剣、炎、捕囚」の艱難の中で正しく残るものとそうでないものとにより分けられます。
34 そして彼らが弱ったとき、彼らは少しの助けを受ける:しかし多くは反逆に自分を合わせる。
正しいものは少しの助けを受けます。しかし、残念ながら、この日、艱難時代は、クリスチャンのよりわけのときであり、多くのクリスチャンは反逆やら、冒涜、背教に自分を合わせ、妥協するようになるのでしょう。
35 そして彼らの中の幾人かの悟るものは彼らを火で、そして彼らを試験し、そして彼らが終わりのときに現れるように、倒れる、それはものごとはまだ定まったときのものだからである。
ここで 「彼らを火で、そして彼らを試験し」と書かれているように、その日、艱難時代は炉の火のような試練のときであり、炉が火で金をためすように多くのクリスチャンの本音や真の歩みが試されます。神は真の金の信仰者を求めておられるのです。
さて、このように反キリストの型であるアンテイオコス・エピファネスの記述を見ても、
艱難の前に聖徒が挙げられるなどとの教理がまったく聖書の教えや教理と異なる、異端的非聖書的な教えであることがわかります。
しかし、聖書も神の力も知らない人々は、聖書の常識も知らず、このような幼稚な教えに惑わされていきます。終末における主のみこころをおこないましょう。以上